第9話 持ち込まれた噂

 大変、と連呼する割にはどこか嬉しそうに目を輝かせて現れたのは、アルジーナ夫人だった。

 何をそんなに慌てるのか、ドレスの裾を持ち、従者を従えて小走りに店内へ入室を果たしたアルジーナ夫人は、従者に乱れた髪を直されながらキョロキョロと店内を見渡し、キストと同様に立ち上がり彼女を迎える用意をしようとしていた女主人とエディンを見つけ、目を輝かせた。

「ごきげんよう。おくつろぎのところごめんなさいね。どうしても誰かにお話したくってしたくって仕方がない噂があったものだからいてもたってもいられなくって」

「またお会いできて光栄です、夫人。それにしてもその取り乱しようはどうなさったのですか? さきほどのご友人連も連れておられないご様子ですし」

 何より、いつでも優雅な立ち振る舞いの貴女らしくもない。

 にっこり完璧な笑顔を浮かべ、愛想よく首を傾げながら出迎えたエディンにアルジーナ夫人はあら、とかすかに頬を染め嬉しげな様子を見せる。

 その様子を見えないように小さく笑ってから、彼女を見上げ、いかにも幼い貴族の子供、という風体でキストがにっこりと笑いかけてみせた。

「二度もお会いできるなんて、今日はいい日のようです、アルジーナ夫人」

「あら、ありがとう、可愛いSir」

 お席をどうぞ、と勧める小さな紳士に思わずくすぐったそうに微笑んで、アルジーナ夫人は遠慮もなく席につく。

 そのすぐ側で、キストの口調や仕草の変貌振りにユークレイスが呆気にとられている。

 皆が再び席につくのを待たずに、身を乗り出すようにして話をはじめかけたアルジーナ夫人は、ユークレイスを見て、首を傾げた。

「あら、そちら、は?」

 この時点で初めて、見たことがない顔が一つ増えているという事実に気付いたらしい。

「うふふ、アルジーナ夫人、こちら、私の妹ですわ。普段は父と母に付き従いルメスリージュにいるのですけれど、今朝から遊びに来ているのです」

 ライアが人の良い微笑でサラリとユークレイスの身分を偽って紹介する。彼女が嘘をつくと思っていないのだろう、疑いもせず、アルジーナ夫人は納得する様子だ。

「あら、そうなの。はるばるようこそ。それにしても、ルメスリージュから来られただなんて。なんだか今日はルメスリージュから来た方々と縁が深い日のようだわ」

「ああ、そういえばルメスリージュから来た殿方を拾ったとおっしゃっていましたね?」

 朝の秘めやかな噂話の一端をエディンが思い起こす。

 キストの目が、一瞬、何かを探るように細められた。

「そうなのよ。まあ、拾ったというのも語弊があるのだけれど」

「というのは?」

「正確には、友人の遠縁にあたる方なのよ。朝早く、紹介状を持っていらっしゃったのだわ。何でも、人探しの為に数日エルヴァンスドリスにいる間に滞在させてほしいのですって。あいにく夫は不在なものだから無断で本館にお泊めするわけにもいかないじゃない。だから私の持ちものである別館の一室をお貸ししたのよ。若くて、なかなかの美丈夫なの」

 うふふ、と頬を染めて嬉しそうに扇で口元を隠した夫人に、イアンが紅茶をサーブしながら苦笑した。

「よほどお気に召したのですね、その方が」

「そう思う? そうなのかしら。そうね、そうかもしれないわ。貴族ではないというのだけれど、礼儀作法にも通じていて、知識も深いのよ。学ぶことも多いわねと、友人達も羨ましがっていたわ」

「それで、夫人。話したくてしょうがない噂とその俄かの居候には何かかかわりが?」

 話を軌道修正したいのか、キストが遠慮がちにではあるものの、先を促す言葉を投げかける。

 忘れかけていた大スクープを思い出したのか、そうよ! と再び興奮する様子のアルジーナ夫人が、勢い余ってカチャン、と音を立ててカップをソーサーの上に戻した。

「そう! 大変なのよ! 陛下には姫君がお一人おられるだけだとされていたのだけれど、いないと思われていた皇子がこのエルヴァンスドリスに出現したらしいのよ!」

 ついさっきの話だわ!

「えっ」

 寝耳に水。

 驚きに声を噛み殺せなかったユークレイスが元々大きい瞳をさらにこぼれんばかりに見開く。

 兄弟があるなんて、聞いた事がない。

 一度、母が身ごもったことはあるにはあるが、それは死産だった。それが元で母の命さえも失われたのだから、間違いない。

 その上、父は妻の死後も一途に妻のみを想い、他に妻も愛人もつくらなかったはずだ。

「……それは、性質の悪い嘘でしょう」

 エディンすら、愛想笑いもできずに乾いた声でそう呟く。

 アルジーナ夫人は大仰に眉を顰めて首を横に振って見せ、それがそうでもなさそうなのよ、とどこか得意げに話を続ける。

「死産におなりあそばした御子がおられたでしょう。ほら、ディアナ姫様が十にも満たない頃。その出産がきっかけで、皇后様までお亡くなりになったという、あの悲しい出来事」

 皇后エイヴァは慈愛に満ちながらも芯の通った性格で、多くの女性に支持され、愛された存在だった。

 亡くなった時は国民が大きく衝撃を受けたのを覚えている。

「あの時は、お母上を亡くされた幼いディアナ様の悲嘆と、可愛らしいディアナ様と陛下をお遺ししていかねばならないエイヴァ様のお気持ちを思うと夜も眠れなかったわ」

 扇のかげで悩ましげに眉根を引き絞って訴える彼女に、当のディアナ本人であるユークレイスはなんとも複雑な表情だ。

 エディンが苦笑いしながら、話の続きを促す。

「それが、何か?」

「そう、その時の御子が、実は死産ではなかったのですって! とんだ手違いで、引き離されたけれども生きていたという話!」

 あくまでも噂だから、完全に信じているわけではないけれど、とアルジーナ夫人は熱く語った割にはドライにまとめる。

「私、エイヴァ様を本当にお慕いしてましたのよ。死産と言われた御子が今更生きていたなんて、できた物語だわ。正直、信じきれないの。そこで、この目で確かめてみようと思うのよ」

「というと? あてがあるのですか」

「あるのよ、実は。明日の夜、ルコル子爵主催の舞踏会があるのだけれど、その噂の御子も養父母と共に招待されているらしいの。父皇様から授かったという、王室の蒼を一つ、身につけてこられるというお話」

 その話に、ユークレイスの表情が変わった。

『王室の蒼(ロイヤル・ブルー)』を一つ、身に付けて。

「まさ、か……インデックスリング……?」

 脳裏を過ぎるのは、薄れかけた視界の中で何者かの指先が拾い上げた、インデックスリング。

 心内の呟きが、声になっていたらしい。

 そうね、その確率が高いわね、とユークレイスの言葉に賛同したアルジーナ夫人が、丁度、と更に声を潜める気配。

「丁度、陛下については、体調が悪いとか、でも実は暗殺されたのだとかの不吉な噂があることだし、どうも偶然にしては良すぎるタイミングだと思うのよ。もし陛下がそれを後継ぎとして、その皇子に託したのだとしても……ずっと会っている素振りも気にかけておられる素振りもなかったはずなのに、今更何故? と思うでしょう」

「陛下は……御子の存在をお隠しになるような方ではないはずですけれど……」

 側近く仕える父に伝え聞いているライアは訝しげにそう呟く。

 キストは腕を組んで何やら考え込むようだ。そんな主の様子をエディンはちらちらと気にしながら難しい顔だ。

 好奇心旺盛な貴婦人は目を輝かせ、気になるでしょう! と扇を開いたり閉じたりしながら一同に賛同を求める。

「ね、だから私、直接見て参りますわ。招待状をいただいているの。元々出席するつもりではあったのだから丁度いいのよ。インデックスリングの本物を間近で拝見した事がないので、本物かどうか、見極めがつくかは保証の限りではないのだけれど」

 それでも、陛下の顔ならはっきりと覚えている。子供なら面差しが必ずや似ているはずだと、断言してみせた。

 直接見て参りますわ、という言葉に、その時大きく反応し、声をあげた者がある。


「あの、レディ・アルジーナ。私をお連れになって!」


「あら、ライアの妹の」

「ユークレイスです、レディ」

「ユークレイス。それはかまわないのだけれど、何故?」

「あの、私、父についていって、王宮にも出入りがあるのです。インデックスリングならば、詳細に渡り克明に記憶しております。真偽を見極めるお手伝いができますわ!」

 耐え切れず、そんな同行の許しを求める声を発したのはユークレイスだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

秘玉の聖譚曲 糸夜拓 @siyohira_r

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ