第8話 血濡れの記憶
「じゃ、邪魔なだけって、皇女殿」
「だから、そう呼ばないでと言っているの!」
「は、はあ……」
その、やけに強い口調におやと目を見開くエディンが、戸惑うように、キストを見る。
キストは、柔らかく笑っていた。
そっと自分より少し高いだけのユークレイスをエスコートして座らせながら、
「おっとりと優しい国皇陛下にはかつて、しっかり者の妃がおられたな。気質はそちらから受け継いだと見える」
「そうよ。私はただ泣きながら迎えを待って潜んでいるようなオヒメサマじゃないの。誰が私をここまで運んで下さったのか、知れないけれど……じっとなんて、していられるはずがないわ」
現状を把握して、しかるべき行動に。
幾分震える声で、だがしっかりと言い切った彼女に、小さな肩をすくめて、
「……だが、非力な御婦人お一人でどうされると? エディンに護られたまま、大人しく吉報を待った方がいいと思うけれど」
「それが嫌なのよ。非力なのは十分承知だけれど、誰が止めても、聞きたくないわ」
とにかく、情報が足りない。
イアンが用意した紅茶の芳香を思い切り吸い込んでから、ユークレイスは隣で静かにこちらを伺う黒い瞳をしっかりと見た。
「まず、どうしても貴方に聞いておきたい事があるの」
「……何でしょう、レディ?」
にい、と意味ありげな微笑を浮かべ、少年は脚を組んだ。
「一番不可思議で、不自然なことよ」
ラングランスの皇族は、成人の儀の時まではファーストネームを伏せられている。
国民の多くが知る皇女の名は、ディアナ・ラングランス・アイオスだ。王宮内でもそう呼ばれ、ファーストネームで自分を呼ぶ存在はライアのような、よほど近しい存在以外ありえない。
なのに。
「貴方は、私が誰かを知っていたわね。まだほとんど公の場に顔を出した事がないのに」
そう、あの混乱の中、だがはっきりとユークレイスは見た。
お前が何たる身分であるかもはっきりと知り尽くしているぞ、と言わんばかりに、強い意志が篭もった目。
確信に満ちた、というには、あまりにも自然だった声音に、『感付いた』のではなく『知っていた』のだと言われたようで。
こちらから見た彼は、確かに記憶にない存在のはずなのに。
「貴方は、何者なの?」
「職を問われれば、宝石調律師。……ただの子供ではないことは、確か。何故そちらを知っていたのかは、そのうちお話を。それから……敵だと勘違いするほど、鈍いお方だとは思っていない」
そう囁くように告げ、笑う表情は、子供のそれではなく。
息を飲んでから、ユークレイスは目を伏せ、言葉を選んだ。
「……一言余計だわ。貴方が敵だなんて、思っていない」
ついさっきも、気絶間際に絨毯に倒れ込むのを阻止していただいたようだし。
こちらの心を逆撫ですることが随分と得意なようだけれど、残念ながら害された覚えはないし、何よりライアが自分の護衛にと推薦するほどの相手。
「つまり、今は明確に答える気がない、ということね?」
「いかにも」
「……今は、ということはいずれ説明をするつもりはあると考えていいのね?」
「無論。嘘は不得手でね」
それよりも、今は。
ハラハラと少年と少女を見守る大人達に、チラリと目を走らせ、キストが苦笑した。
「こちらは、存在しているだけで良くも悪しくも人の心を揺り動かせる厄介な紅の貴婦人を探しているところ」
そしてどうやらそれの居所は、貴女を襲った下手人が握っているらしい。
貴女が言った胸飾りがおそらくソレだろう。
その話が本当ならばね、とまたもや余計な一言でユークレイスの白い頬に怒りの紅をはかせておいて、
「そして、その様子だと、そちらは、現状を把握した上で、紅の胸飾りをしていた下手人らしき人物を突き止めたいといったところか?」
「……ええ、そうよ。王宮は、見知らぬ者を簡単に招き入れる程優しくないわ。あの時間に、父上があの部屋で襲われたのなら、尚更。あの部屋は」
ユークレイスの寝室の隣に位置する、あの部屋は、生前の妃の持ち物を集めた、思い出の部屋。
幼くして母を亡くした彼女が、いつでも母の面影をそこに見ることができるようにと、父が命じて作らせた特別の部屋。
お付きの者ですら、入り口から先の立ち入りを断られるほどに大切に大切にされた部屋だから。
だとすれば、彼に剣を振り上げたのは少なくとも、あの部屋に近づけることを彼が許すほど、近い存在ということ。
「……少し待っていただけるか、レディ。ライア嬢、イアンも席につけ。今は互いに、知っている現状を把握しあう必要がある」
「かしこまりました」
「わかったわ」
「って、ことはマスター?」
心得た顔で頷き、席につくイアンとライア。
主に意図を問うエディンに、キストはにっこり、微笑んで見せた。
「乗りかかった船だ。お前とて、仮とはいえ、主従を結んだ大事なレディだろう。利害も一致することだし、ここは共同戦線といこう」
口から漏れるのは、そんな、素直ではない言葉。
「お願い、できるかしら」
この面子の中で唯一、護衛と呼ぶに相応しい体躯と能力を持つように見えるエディンに、自分が弱い女、という存在であることを骨身にしみて知っている皇女は、心からの希望を込めて彼を見る。
意識を失ってもなお泣き続けていたせいか、まだどこか潤むその深い青に見つめられ、エディンの頬に微かに朱が散った。
「……命に代えても、レディ」
「普段とはえらい違いだな」
完全にやられてしまったとわかる呆けた顔と声に、あきれ果てたキストがペシリ、と暗金色の後頭部を叩いた。
「いでっ。だって普段は華がないですもん! やっぱ美姫は護りがいがあるっつーか、いやっ、別にマスターの護衛に気を抜いているわけではなくっ」
「あー、もういい。少し黙っていろ。お前は口を開けば開くだけボロが出る」
「うう」
すいません、と長身を小さく縮こまらせて、エディンが情けない表情で頭をかいて、ライアがその仕草にクスクスと笑った。
「笑い事じゃないぞ、ライア嬢。大体こいつは主を主だと思っていないんだ。ん……まあいい。話がそれる。話を戻すことにしよう。レディ、そちらの話を聞きたい」
昨日は何があった?
朝目覚めた時と同じ問いを、今はもう答えられるだろうと、改めて。
ユークレイスは熱を持って重い瞼を軽く指先で押しながら、目を伏せた。
父上。
震えそうになる口元を一度引き結ぶ。一拍おいて、息が整ったのを確かめてから、落ち着いた声で、
「夜中に目が覚めて、隣の部屋に父上がおられるのに気がついたわ。お声を聞きたくて踏み込んだら、……父上が、血塗れで倒れておられた」
「っヴィクトス陛下が……っ」
言葉に何よりも衝撃を受けたのはライアだった。
本当に何も聞かされていなかったのだろう、見る見るうちに青ざめてゆく表情は困惑と悲しみを多分に含んでいた。
「……嫌な質問だが、レディ、陛下の息はあったのか」
「あったわ。その時点では、だけれど。現状がどうなのかは、私にはわからない。できることなら、すぐにでも確認に行きたいけれど……」
「気持ちはわかるが今はよした方がいい」
「……」
キストの諭すような言葉に、ユークレイスが唇を噛んで俯いた。
「すいません、気になることがあるのですが」
反論もせず黙り込んだ彼女の顔を見て、イアンがふと怪訝そうな表情で手を挙げ、発言の許可を求める。
「何だ、イアン」
「何故、今戻っては危険、と? 確かに、下手人がまだ宮廷内にいるというなら危険ですが、ひょっとしたらもう捕まっているかもしれない。それに、逆に警備は万端、安全なのでは」
ずっと気になっていたのですが、と首を傾げる。
国皇が襲撃されたとなると、警備はさらに厳しくなるだろう。
どうやら元々ユークレイスには専属の護衛もいたようだし、護衛から引き離されずに王宮内で護られた方が危険の回避にはなったのではないかというのがイアンの意見らしい。
最もな意見に、困ったように微かにユークレイスが微笑んだ。
「多分、まだ下手人はつかまっていないのではないかと思うのよ」
「レディ、でもそれは何故また?」
「私がここに密かにかくまわれたのが何よりの証拠だわ。それに全てが解決したならば、もう迎えがきていてもおかしくないはず」
ユークレイスの言葉に、ああなるほど、とイアンは納得する。
確かにその通りだろう。彼女は、ルメスリージュにいては危険だと判断されたから、ここに連れてこられたのだろうし。
危険回避についてだが、と、横からエディンが口を開く。
片方の眉をくんと持ち上げ、
「イアン、王宮内が国で一番平穏かつ安全な場所だと思うなよ」
「というと?」
「何故皇が襲撃されたことを伏せさせていると思う? 重態にしろ、死んだにしろ、事実を何故ありのままに告げないか、わからないか」
「そ、れは……」
「……簡単、よ。次期国皇の座の問題が、あるからだわ……」
ユークレイスの、感情を欠いた単調な言葉に、イアンが顔を強張らせた。
触れてはいけない話題に触れてしまったか、という後悔がその顔をかけぬけていくのを、ライアが心配そうに見守るようだ。
「レディ、でも確か国皇の子供は貴女だけで」
「父上は、母上亡き後、妃をとらなかったから私だけ。それは確かだわ。でも」
「彼には賢きの君と呼ばれる有能な弟がいるだろう」
「ああ、そういえば」
ユークレイスの言葉の後を受け、キストが説明する気になったらしい。
今度は自ら紅茶をカップに注ぎながら、現実的には、と話を続ける。
「今、皇位を継ぐとすれば、彼か、姫か、のいずれかだ。いずれにせよ、問題はある。正当にゆけば姫が継ぐのが順当。その次が弟君だ。国の法ではそうなっている。女皇が認められているからな。だが、皇位という重責を継ぐには姫は若すぎる」
「ああなるほど、その上、弟君が継ぐとなると法的には姫を無視する事になるので、少々難あり、ということですか」
「少し違うが……まあそうだ。姫を女皇とし、弟君が補佐する、という手もあるにはあるが、そう平穏にことは運ばない。どこにでも、個人の思惑と利益を優先させようとするやからはあるものだ」
ある意味、下手人よりも恐ろしいのはそれ。
貴族の世界など、穏やかな笑顔のヴェールを被った策士の温床だ。
と皮肉混じりに笑っておいて、キストは、
「非力かつ若い指導者は操りやすいし、賢く勇猛な指導者は下についているだけで『虎の威を借る狐』になれるというわけ。レディ、そういえば貴女は、陛下亡き後、若き女皇になる覚悟はある? そのような狐共と折り合いをつけてゆくのか、蹴散らしてゆくのかしれないけれど」
皇座を継ぐ決意があるのかと、問う声に。
ユークレイスは、目を伏せた。
「……まだ、わからないわ。でも、例えば私が皇に選ばれるのだとしたら、その時は覚悟しなくてはいけない、ということでしょう?」
快も不快も見えない淡々とした声音に、眉を顰め、小さく溜息をついたのはキスト。
「……先の話を続けても仕方がないな。まずは目の前の壁を乗り越えるのが先決か。さあレディ、酷だがもう少し状況を詳しく」
失礼、と断りつつ二つ目のサンドイッチに手を伸ばす。
チキンのソテーと野菜が挟まれたそれを思い切り被りつきながら、ユークレイスを見上げ、話の先を促した。
顔をあげたユークレイスは、サンドイッチを口一杯頬張る姿に呆然となった後、気を取り直したように、紅茶を一口飲んでから、
「倒れていた父上を見つけた時、父上は、私に来るなと言ったの。でも、転がっていたインデックスリングも父上の様子も気になって…」
「転がっていた? インデックスリングといえば、陛下が肌身離さずつけていらっしゃる『王室の蒼(ロイヤル・ブルー)』の一つよね」
「ええ、そうよ。ライアも知っているでしょう。王冠も錫杖も必要な時にしか手にしないけれど、あのリングはこの国の皇の証。何があっても、決して外さないはずのもの」
それが外され、転がっていたのだと、説明しながら思わず自らの肩を抱き締める。
ぼんやりと灯る蝋燭の灯りを反射するプラチナの豪奢なつくりの指輪。
澄み切った蒼が、どす黒く濡れた緋色の絨毯の上、やけに冴え冴えと輝いて……。
脳裏に甦る光景に、震えが止まらない。
「父上が止めるのを聞かずに踏み込んだところを、背後から襲われた、みたいで」
後頭部への衝撃と恐怖と共に振り返った時、長身の男の胸元に光るブローチを見た。
薄暗い部屋の中、顔も確認できず、ただその紅だけが鮮烈に頭にやきついて。
「その次に目覚めた時はここの二階で、イアンが覗き込んでいたわ」
「その節は驚かせてしまいまして申し訳ございません」
朝の騒動を思い出してか、苦笑顔でイアンが頭を下げた。
その雰囲気の優しさに、いいのよ、とユークレイスは首を振る。
青ざめた頬に、少しずつ血の気が戻りつつある。震えもやがておさまった。
「私も聞きたい事があるわ。ライア、改めて教えて欲しいの。私をここへ連れてきた人は誰?」
誰、と問われ、ライアが少々躊躇う素振りを見せる。
「言うなと、口止めをされているのよ。告白してしまっていいものかどうか……」
困ったわ、と、その細く美しい曲線を描く眉を曇らせた時。
「大変! 大変よ!」
カランカランと騒々しい物音が、不意に入り口から。
その聞き覚えのある声におや、とイアンとエディンが振り返り、キストは苦りきった表情で頬杖をつく。
「扉の鍵をしめておけばよかったな。とんだ邪魔が入った……」
小さくそう毒づいてから、椅子から静かに立ち上がり、騒音の主へと振り返った。
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