第7話 皇女殿下

 泣かないで。

 震える声が、優しく優しく涙を包み込んで、巨大な穴を埋めるように、キラキラと光る言葉を、くれた。



 泣き叫びたいのを抑えて振る舞い続けるのが辛くなり、駆け込んだ大聖堂。

 数年前にはあれほど薄ら寒く、果てしなく広く見えたこの場所も、昔ほどの恐怖を呼び起こさなくて。

 少女は、大聖堂を奥に、進んだ。

 母が見立てて用意してくれた気に入りのドレスを着ていたが、これもしばらくは着る事ができない。

 明日からは、喪が明けるまで漆黒のドレスで過ごすのだから。

 おそらく明日になれば、この人の気配がしない聖堂内も、真っ白な花とすすり泣きの声で満たされるのだ。

 そう、国皇(こくおう)の庭に咲く大輪の華、と称えられた、かの皇后の死を悼んで。

「う、ううううっ」

 お母様。

 最奥の巨大な十字架の下までたどり着いた時、もうすでに顔は涙でぐちゃぐちゃだった。

 まだ十にも満たない少女に、それを止める術などなく。

「お、おかあ、おかあさま、おかっ」

 仲睦まじくある二人が大好きだった。

 厳しく、優しく愛を惜しまずに、教育係を最低限にし、直接触れ合いながら育ててくれた、強い母。

 もう、戻らない。

 嗚咽は止まらず、少女はその場に座り込んで体を折り曲げた。

 外は、雨。

 晴れの日は明るく光を通すステンドグラスは、ほのかな明かりと静寂で少女を包んだ。

 そうして、しばらく泣いていただろうか。

「泣かないで」

 不意に、そんな声がした。

 誰かに見られてしまったという混乱と、唐突に声をかけられたことへの驚きでヒ、と体を強張らせると、不意に、後ろから抱き締められた。

「っやあ! だ、」

 身をよじり、誰、と問いかけようとした口は、

「っ!」

 耳に囁きこまれた言葉に思わず閉ざされた。

 貴女の御心が光とともにありますように。

 記憶の底の声よりは多少低くはあったが、あの時の少年のものだと、何故かすぐにわかった。

 頭を撫で、ほてった瞼に触れる掌には、皇章旗を咥える獅子の紋章が蒼く大きく刻まれている。

 やっと会えた、と独り言のように呟く声は、少し震えていた。

「こうして会える時が遅くなってしまったのが悔しい。ねえ、お願いだ、そんなに泣かないで。……護るから」

 全身全霊をかけて、貴女を。

 この先に待つ、全ての悲しみから。

 闇に溶け込むようなフロックコートの胸元に、じわりと少女の涙が染み込んで色を変えてゆく。

「この名にかけて、誓うから。それでも僕が護りきれずに、君の頬を涙が伝うなら、その時はこの腕の中で」

 この腕の中で泣いて。一人で泣いたりしないで。

 一度しか会ったことがない少年なのだが、その言葉は揺らぎがなく、真摯だった。

 純粋に向けられる好意が込められていたから、それは、少女の悲しみを和らげた。

 いつか一生懸命抱き締めた少年に、今は抱き締められている。

 その腕の中の、なんと温かい事か。

 少女は細く長く息を吐いた。

 体を反転させ、しゃくりあげながら、不思議な色の少年の瞳を覗き込む。

 大人が聞けば顔をしかめそうな、根拠のない約束は、だが、少女の中では絶対の輝きを持っていた。

 それが叶えられる約束だと、何故か、疑いもしなかった。

「ほんとね?」

「ああ、本当だ」

「きっと、まもってくれるわね?」

「必ず。たとえ側にいることが叶わない時でも。さあ、これを証に」

 これを、と。

 不意に小さな手に、その首から外し、渡されたのは、銀色に光る十字架。

 縦横にそれぞれ七つずつ、紫の石が埋め込まれている。

「お守りだ。これをはずしてはいけないよ。これがある限り、いつでも、名を呼べば、行くから」

「なまえ?」

 首を傾げた少女に、少年は初めて、口元をほころばせた。

 黒髪の奥の、夜の空のような目に溢れたのは、笑顔。

「僕の名前は……」


 ああ、あの時、あの人は何と言ったのだったかしら?

 


 ティーカップを静かに傾けていた手が、ふと動きを止めた。オニキスの目が正面の大窓から見える石畳の上の落ち葉からふいとそらされ、階段のあるほうを振り返る。

「あー、もう落ち着かないですよ。レディ大丈夫ですかねぇ」

 俺もう、気になって気になって、と隣で従者がガタガタと落ち着かない様子。

「うるさいぞ、エディン。心配せずとも、今お目覚めのようだ」

「へ?」

 キストは首を元に戻し、アールグレイティーの芳香を楽しみながら椅子にふかく腰掛け直す。目は伏せられ、口元だけが笑みにつくりかえられた。

 横でエディンがマヌケな声とともにカップをソーサーへ戻した。

「何で断言できるんです?」

 朝のように悲鳴が聞こえてきたわけでもない。

 昼時の今、店内には客もキスト達以外はいない。静寂の中に、二階の最奥の部屋で眠るはずのユークレイスが目覚めた兆しが聞き取れたのか。

 エディンの耳を澄ます仕草に、違う、と簡潔に否定しておいて、

「なんとなくだ。もうじき降りてくるだろう。……それよりエディン。お前は、彼女が思い出した、気絶するほどの事実とは何だと思う?」

「事実、かぁ。……ああ、それと関わりあるかもしれない事ならば、朝にアルジーナ夫人から仕入れていますけれど」

「聞こう」

「その、今朝から体調を崩して療養、と新聞にもある国皇陛下が、」

 何者かに殺されたのではないかという、噂。

 ふくよかな夫人のもたらした不吉な噂話を思い起こし、心なしか声を落とし、今更ながら語って聞かせるエディンだ。

「でも、そんな一大事、マスターがご存知ないわけ……ないですよね。それに、俺だって」

 知っていたらここでこうしてのんびりお茶をしているわけがない、というのがエディンの主張。どうやら彼はこの噂が本当だとは思いたくない様子。

 その言葉を聞き、空になったカップにイアンの手で新たに紅茶を満たしてもらいながら、キストが溜息をひとつ。

「……箝口令がしかれている筈なのに、夫人に告げ口をするほどに口の軽い者がルメスリージュにはいるらしい。いただけないな」

 いただけないな、と微笑すら含んだ幼い声に、吸い寄せられたエディンは軽く目を見開いて体を強張らせた。

主の顔が、決して微笑んでいない、ということを察したからだ。

「こ、……この話は、打ち止めにしましょう」

「利口だな、エディン」

 ブルネットの髪の陰で伏せられた目は、鋭く尖っていた。

 いや、むしろこれは。

 怒ってる……?

「そ、ういえばマスター、さっきの紅玉の調律、早かったですね」

 話をそらそうと上ずった声で急な話題転換を図れば、キストが、ふん、と小さく鼻を鳴らして肩をすくめる。

「核がなかったからな。残滓を調律するくらい眠っていてもできる」

「核?」

 後ろの方で話を静かに聞いていたイアンが、聞き慣れない単語に首を傾げてキストの言葉を復唱した。

「核とはなんですか、キスト様」

「いい質問だイアン。知っているか? 宝石に棲まう妖精の話を?」

「妖精? ああ、小さい頃に聞かされる物語ですね。宝石には妖精が棲んでいるって」

 眼鏡をずり上げて頷いたイアンに、キストが満足げに大きく頷く。

 そのまま、目の前のティーセットの傍らに立つ銀のケーキスタンドから手にとった、サンドイッチを口に持っていきながら、

「そう、その言い伝え。あれはあながち嘘ではないんだ。そもそも、宝石が人をひきつけるのは、石の中に棲む妖精がより美しく磨かれる為、より大切に護られる為にそうさせるのだ。石の中でも、妖精が寝床にする部分は特に美しく輝く。その部分を核と呼ぶ」

 そう言って、もふ、とおいしそうに咀嚼する姿のほほえましさに、思わずエディンもイアンも相好を崩した。

 行儀悪く肘をつきながらエディンが、

「ま、妖精っつっても実体を持つもんじゃないけどな」

「素敵なお話ですね」

 ライア嬢がこの場にいたら目を輝かせて喜びそうです、と、好々爺のような発言をして、イアンが納得する様子を見せる。

 キストが子供らしくなく低く笑って、

「イアンは柔軟な頭を持っているな。普通は冗談だと思って終わり、だ」

 宝石に妖精が宿る、というのは小さな子供が信じる物語だ。最も、子供に聞かせる話の中に出てくる妖精は、ウスバカゲロウの羽を持つ小さな少女の姿に例えられるが。

 大概の大人はそれが現実だとは思ってもいない。

 こんな話をしたとしても、あらそうなの、とうわべばかり納得した様子で、内心で呆れるか、はたまた嘲笑うか、というのが普通の反応だ。

 素直に信じる気配のイアンに感心する一方で、騙されやすいんじゃないか、少し心配になるぞ、と案ずれば、

「貴方は嘘をおっしゃいませんから。信ずべき言葉とそうでない言葉の境は心得てますよ」

 と笑って返された。

 どうやら厚い信頼を勝ち取っているらしい、と笑いながら、

「話を戻そう。妖精の努力については、素敵なことばかりじゃない。石に棲む妖精は、自分が綺麗だと称えられ、欲しいと強く求められる為には努力を惜しまないのだ。美しさと執着を求めるあまりに、負の方向へ転がり落ちることも珍しくない」

 持っているだけで持ち主が不幸で死んでしまったり、その石が原因で多くの血が流れたりする。

 そんな、バランスを崩した宝石と石に棲まう妖精を『調律』して正常に戻すのが自分の仕事だと付け足すキストに、エディンも同意の仕草だ。

「そうそ、マスターの言う通り。数年前からチラチラ名前を聞くようになった『血塗れの(ブラッディ)マリア』もそのパターン。こいつは逃げ足が速くてなぁ。噂を聞いた時にはもうすでに次の持ち主の手に渡ってたりしてなかなか調律の機会がなかったんだ。ったく、ペルフィールドには感謝だぜ」

「そうなんですか……。良かれ悪しかれ、石は『育つ』ということですね」

 持ち主によって左右され、育ってゆく。真っ白であるが故に、黒にも染まりやすいという感覚だろうか。

 イアンが溜息混じりに呟いた。

「そ。そゆこと。マリアの場合は、多分最初に血で汚れた手に抱かれ、『美しい』とでも誉められたんだろ。あれは持つ者を紅い悲劇に引きずり込むたびに輝きを増すからあの呼び名がついたんだ」

 まさかアレがエルヴァンスドリスにきていたとは思ってなかったけれど。

「だが、さっき見たアレには核がなかった。核の部分は持ち出され、禍禍しい残滓があるのみだった、というわけさ」

「つまり、妖精がいて特に輝くはずの部分が失われている、という事ですか」

「そういうことになるな」

「つーか、残滓で人を狂わせるなら、核ってどれだけ強力なんだ……」

 と、残滓の石でつくられた首飾りに狂わされていった男を思うのか、エディンがブルリと震える仕草。

 そうだな、とキストは思いを巡らせる。

 おそらくは、鳩の血色と称えるにはとっぷりと闇を凝りすぎているであろう、小さな小さな妖精の根城。

「今回のような無差別の死をもたらすものとは限らない。最悪なケースは、手にした者の心の深遠に潜む執着を歪ませ、引きずり出すこと」

 例えば、手を出すことなど考えた事もないほどに、尊く思い、仕えている主でも。

「まあ、いずれにしろ、ろくなことにはならない。そのままにはしておけないな。見つけて調律しない限り被害が続く」

 そう意見を述べながらティーカップを優雅に傾ける背後から、

「胸に、ブローチが光っていたわ。……黒を内包したような、鮮やかな色の」

 襲ってきた男の胸に。

 やけに固い声が、衣擦れと共に側に立った。

「……正気を保っておられるようで、よかった。レディ・ユークレイス」

 それとも、皇女殿下ユアロイヤルハイネスとお呼びしたほうが?

 一拍おいてから、静かに立ち上がりエディンとは反対側の椅子に手を添えたキスト。

 強張った表情のまま、ユークレイスがゆるく首を横に振った。

 細いが芯のとおった長い髪が、今は軽く結い上げられ、長い睫に縁取られた大きな瞳が、気の強さを主張するように潤み、輝いていた。

 背後で寄り添うように立っていたライアはそっとイアンの隣に立ち並ぶ。

「ユークレイスで、いいわ。今は、そんな称号なんて、邪魔なだけ」

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