行間

幕間 昨日の追憶

 わたしはいつもそうだった。誰かを傷付けてばかりだった。もう笑いたくないと思うときほど、どうしてこんなにも、唇が震えるんだろう。

 ただ好きでいたかった。嫌いになんてなれなかった。いつも救ってくれた彼を、いまさら嫌いになりたくなんてなりたくなかった。

 

「ひろしげくん、おはよう」


 軽々しく口にするわたしが、憎くてたまらない。いつも、彼に笑いかけるのは、わたしだ。

 生きる意味なんて与えられなかったくせに。別に好かれてなどいないとわかっているのに。素直になったままのわたしは、彼に好きとすら言えない。

 好きならずっと想っていたい。ただ笑っていてほしい。だというのに、笑うわたしを悲痛そうに瞳に映す彼が、どうしたら素のわたしを好きになってくれるんだろう。そんな気持ちが、心のすみで湧いてしまう。

 だれも嫌わない。だれも嫌いになどならない。特別なんていらないから、わたしに振りまわされるひろしげくんでいてほしい。

 


 望むのはそれだけだから。だから、あなたが好きなことを、ずっと続けていてほしい。わたしの気持ちは、あなたからは見えないままでいい。


「推ししか勝たん」


 そうだね、そんな感じの気分だ。きっと、ひろしげくんがいるだけで、わたしは強くなれる。

 クラスの音に、耳を傾ける。


「推しが尊い」


 尊……いというのは違うような気がする。でも、そうかもしれない。レモンソーダをくるりとかき混ぜたい、この気持ちは。

 ひろしげくんに笑っていてほしいだけだ。


「元気か?」


 彼が聞いてくれるなら、わたしはいつだって元気でいたい。彼は覚えていないだろうけど、わたしの落とし物を拾ってくれたのは、彼が初めてだった。


「元気だよ。だって今日もがんばらなくちゃ」


 今和泉として生きるのは、難しいままだ。でも、鏡子としてなら、わたしは生きられるんだ。そう決めたから、もう大丈夫。

 無理なときは、ひろしげくんに言おう。


──嫌いにはなれなかったけど、好きにだってなれなかったよ。だから、ひろしげくんだけは、わたしを好きでいてください。


「眠たいです……」

「おい」


 ほんとうは、行きたい倶楽部は決めている。だけど、ひろしげくんとまわれる時間は、ずっと続くかわからない。

 寝たふりをして、こっそりひろしげくんのセーターの裾をつかむ。驚いてはいるものの、振り払う気はないらしい。

 ああ、嬉しいなあ。嫌いになれないでいるわたしは、この瞬間だけ、ひろしげくんを好きでいられるんだ。

 そう思ったら、ちょっとだけ頬がゆるんだ。


「ひろしげくん……」

「なんだ?」

「来週は、ひとりになりますから」

「は?」

 

 こわい。やっぱり、振りまわしておいて、何を言っているんだ、という気持ちなんだろう。


「……なんだか、ひとりで居たくなりました」

「そうか」


 ふう、とため息が聞こえた。その音が流れていく頃に、やっと顔を上げることができた。腕に押しつけていた瞳は、光をちくちくと映す。世界は、ずっと眩しいまま。

 印象派のモネは、やっぱりまちがっていないと思った。見るだけで良い。見ているだけで、わたしは幸せなんだ。

 


「ひろしげ、そこ退きなさい」

「いや、俺ひろしげじゃねえからな」

「今和泉と話せないじゃないの」

「……離してくんねえんだよ」


 ミハナちゃんだ。わたしよりも元気で、人に興味津々で、可愛い子。今日は二つ結びの気分らしい。


「しおらしいわね」

「はい……」

「ほめてないわよ」

「はい……」


 ずい、とひろしげくんのセーターから容易く外された指を、宙でうろうろとさせる。


「ほら」


 ミハナちゃんが、桃色のツメを見せてくれた。


「ピーチ色ですね。可愛いです」

「……ありがと」


 あたしの手でも掴んでたら、とミハナちゃんが、もう一度手を差し出した。すべすべで、おんなじ手なのにまるで違う。あたたかくて、ほっとして。

 ひろしげくんがいつの間にか居なくなってしまって悲しいけれど、ミハナちゃんの優しさが嬉しい。


「明日」

「なに?」

「いっしょに帰りましょうよ~!」


 約束を取り付けられたので、その日はもう眠ることにした。


「ちょっと、移動授業は一緒にって言ったじゃない!!」

「ごめんなさい……」

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今日も彼女は嫌わない 旧星 零 @cakewalk

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