第1話 自己紹介です!

「もしかして、以前私の生徒証を拾ってくれた方ですか?」

「そうだ」


 今和泉のほうから話しかけてきたのは幸運だった。話しかけてみようと決心したものの、一度会っただけの相手を覚えているほうが珍しいのだ。なんやかんやためらっていたところだ。

 


「じゃあ、つぎは五番だな」

 そう言って、担任は今和泉に目線をよこした。彼女はこちらに向けていた体を前にして立ち上がった。

 


「はい。姓は今和泉。名は鏡子です。『いまいずみ』は、『今』に、『わいずみ』と書きます。私は『い』から始まるので、自分が五番ということが信じられません」

「先生もそう思う」


 たしかに。

 あちらこちらで数人の生徒たちが、ひそひそ話をしている。それに感化されてか、ほかの数人も会話している。

 騒がしくなった教室で、あの子は咳払いをひとつした。


「しかも、六番の人は『う』から始まるようです。

 もしかしたらこの学校の頭文字があ行から始まる人は全員このクラスにいるのかなー、と好奇心が疼いています。そしてもしかしたら『あ行が揃っているクラス』としてギネスに認定されるかもしれません」

「いや無理でしょ」

「そうです、か」

「あっ、や、ごめんな!?」 

 

 すかさず担任から突っ込みが入る。

 うなだれる姿も可愛らしいな。

 そういえば、女子も『疼く』とか使うのか。中二病という奴だろうか。


「私の趣味は、美術品鑑賞です。美術品だけではなく、鑑賞できるものならば娯楽品も好きです。

 昔はよく美術館を巡っていました。しかし昨今は美術館の入館料が高く、学生という身分を利用しても、月に二度来訪できるかどうか、といったところです。

 ……鑑賞できるのならば、美術館を来訪できなくとも構いません。とくに美術品は、絵画に興味を持っているのです。そして名簿を見たかぎりでは」


 無理やりねじ込まれた趣味の話。そして話題はまたも名前に戻る。今和泉の止まらずよく回る呂律に、もっと驚いた。そこまでしゃべる子だとは思わなかった。周りは長引く彼女の自己紹介に、飽きはじめたようだ。


「おっと今和泉ぃ、時間が押しているぞ~」

「見たかぎりでは、このクラスには『うたかわ』くんや、『葛飾』さんなど、日本画家と同姓の方々がいらっしゃるようですね」

「時間が~」

「……すみません」


 あの子は咳払いをひとつ。話を転換するときの癖なのだろうか。


「えっと、お終いにひとつ良いですか?」

「お、みんなにひと言か?」

「はい」


 またも咳払いをひとつ。やはり癖らしい。このままでは、今和泉は咽を痛めてしまうだろう。俺は少し心配だ。


「このクラスのなかには、きっと私を嫌う人もいるでしょう。それは、別に良いんです。でも、私は嫌いませんから」

「お、おう!」


 宣言した彼女は、誰よりも堂々としていて、かっこいい。


「あ、つまり、好きってことです」

「おう?」

「その、みんなのことよく知らないんですが、ぜんぜん悪い印象は持ってないです」

「そうか、良かったなみんな」


 良かった、のだろうか。

 担任の教師は軽く周囲を見わたして困惑したような顔で頷くが、それに応えた輩は俺を含めだれもいない。

 先ほどまで騒がしかった連中でさえ、目を丸くしてあの子を見ている。


「だから既に嫌われていたとしても、私はそんなことを絶対気にしないで、どんどん距離を詰めます。だから、いやなら距離を置いてください。距離を置かれても、私の方から距離を詰めていきます。なので、まずは先生!」

「ひえっ」



 どん、と気合いの入った音とともに今和泉は教壇へ進む。

 あの子が力強く、両手で机を叩いたのだ。そしてあの子は周囲のどよめきに押されるようにして教壇へ進む。

 その間。

 その場はまるで、武勲を評して爵位を授けられた騎士が、王へ感謝を述べるための場のような雰囲気に支配された。

 ……はじめに少女と表現したはずなのに、いまのあの子は、おれの瞳に凛々しい騎士として映っていた。

 戦士。則ち戦う者。その背に傭兵のような蛮勇さは担わず、だが独自の礼儀を掲げる者。


「せんせいっ! よろしくお願いしむす!」


 そんな言い間違いもどこ吹く風。今和泉は颯爽と席へ戻った。この子の自己紹介が終わったあとは、俺の番なのだが、時間が押していたらしい。


「じゃ、あとは明日以降な」

「すみませんでした……」


 彼女は軽く教師に謝ってから、後ろ、つまり俺の方を振り返ってはにかんだ。


「よろしくね、宇多川ひろしげくん!」

「いや、『こうちょう』なんだ」

「えっ」

「ははは、冗談みたいだろう? ほんとなんだ」

「ごめんなさい」 

「気にすることはない」


 そんな反応をするのは想定内だ。誰だってそうなる。俺だって他人ならそんな反応をとる。


「あまり、下の名前で呼ばれることはないが」 


 あの子の瞳のなかに俺を溶かし込むかのように、じっとその目を凝視した。


「う、宇多川くん……どうしたの?」


 なくて七癖とはよく言ったものだ。

 今和泉鏡子のくせは、おれの見つけたかぎりでは四つある。

 ひとつ、前置きの咳払い。

 ふたつ、話しすぎる。

 みっつ、興奮すると言い間違う。

 よっつ、羞恥で顔が赤くなる。

 いま、今和泉は、頬が赤い。おそらく読み間違えたことを恥じているのだと思う。

 だが周囲からの注目が集まっていることには、たいして緊張を覚えないらしい。その点から見れば、実に堂々とした態度だ。

 ひろしげ。そう呼ばれるのは悪くない。

 なんだか照れ臭くなって、俺はそっぽを向きながら言った。


「ひろしげでいい」

「うん!」

 

 力強い答えとともに、今和泉鏡子はおれの手を握った。

 ああまた、この子の癖の、五つ目に気が付いた。


「手、離してくれる?」

「嬉しくて、つい……」


 喜んだときほど、首をかしげる。

 気を抜くと、左に首をかしげることが多い。


「良いよ、今和泉なら」


 間を溜める。


「今和泉のこと嫌いではないから」

「ですかあ!?」

「うん」


 たんに激しく興味を惹かれる、というだけだ。


「私も、私も君のこと嫌いじゃないんです! ひろしげくん、よろしく!」

「よろしく、今和泉」


 これは恋じゃない。



 人がまばらになった放課後の廊下。今和泉鏡子に、俺は気になっていたことを尋ねた。


「なあ、今和泉」

「なんですか?」

「名簿を見たと言っていたが……」

「ああ、教室に入る前に、先生のお手伝いをしたんです」

「そうか」

「そのとき、うっかり名簿を見てしまったのです」

「なるほどな……」


 後ろの席のひろしげくんが生徒証を拾ってくださった方なんて、稀なこともあるものですよね。と、今和泉は至極おかしそうに笑った。


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