第9話 ジジと僕の引退試合
六月某日の夕方。
ナイター照明が照らす市民球場のグラウンドで、もうすぐ三年生の引退試合が行われようとしていた。
試合前、僕は三年生の部員を一人、ロッカールームに連れ出した。
心残りを解消するためだ。
「話ってなに?」
今村は、連れ出された理由が分からず、おどおどしている。
僕は、今村の顔を正面から見据えた。
「一度、きちんとお礼を言いたかったんだ」
「お礼って?」
「小六のときだよ。父さんが死んで、僕は野球ができなくなってチームに迷惑をかけた。人づてで、僕の穴を今村が埋めてくれたって聞いたんだ。今更だけど、ありがとう」
緊張していた今村の顔に、ようやく笑みが生まれた。
「チームメイトのために頑張るのは、別に特別なことじゃない」
「確かにそうだ」
頷く僕に、今村が聞いてくる。
「右肘、痛めたの?」
「ああ。酷使しすぎてな」
病院に通っていることは、部員にも伝えている。今日は、痛み止めの注射を打って貰って、一イニングだけ投げることが許された。
「残念だね。僕は、きみがベンチに選ばれると思っていたから」
僕が何も答えないでいると、今村が言葉を続ける。
「小学校のときから、僕はきみを勝手にライバルだと思っていた。きみに追いつきたい一心で練習してきたけど、正直僕はまだきみを追い越したとは思えないんだ。きみが右肘を痛めていなければ、きっと僕じゃなくてきみが選ばれていたと思う」
自信なさげに話す今村の猫背を、思いきり叩いた。
「何言っているんだよ。あの渋谷監督に選ばれたんだぞ。自身を持てよ」
猫背が伸びて痛そうにしている今村に、僕は気持ちを伝えた。
「僕が今日、今村を呼んだのは、お礼を言うためだけじゃないんだ。僕にはもう、公式戦で投げる機会はない。だから頼む。僕の代わりに、公式戦で投げる姿を見せてくれないか。そして、僕を甲子園に連れて行ってくれ」
僕は今村に右手を差し出した。
驚いたように今村が僕を見る。しかしすぐに嬉しそうな顔をした。
今村が力強く僕の右手を握ってくれたとき、心残りは全てなくなっていた。
※※※
僕の背番号は十一だった。
本来なら一回から三回を投げる予定だったのだけれど、医師からの指示を聞いた渋谷監督は、僕を九回のマウンドに立たせた。
試合は一点差でうちの高校が勝っている。でも引退試合だから、勝敗はあまり関係がない。この試合は、選手としての高校野球に区切りを付けるため、そして観に来てくれた家族に感謝を伝えるために行われるものだからだ。
ただ、そうは言っても勝って終わることに超したことはない。一点差という、大きい一打で同点、さらに打たれれば逆転サヨナラ負けもありうるシチュエーションに、僕の身体は緊張でこわばっていた。
投球練習を終えたところで、捕手がマスクを取ってマウンドにやってきた。お調子者の前島だ。
「球が走ってないぞ。まさかお前、緊張してるのか?」
引退試合の真っ最中であっても、普段と変わらない軽口は健在だ。
「いいだろ別に。最後なんだから、緊張くらいさせてくれよ」
震える右手を左右に振って、気を紛らわせる。
その仕草を見た前島は、「それは困るなー」と小声で言いながら、キャッチャーミットを口元に持ってきた。
「俺さ、この試合、絶対勝たなきゃいけないわけよ」
「なんだよそれ」
僕もマネしてグローブで口元を隠す。
「実は俺、この試合に勝ったら、チア部の
「はあ?」
「ほら、スタンドにいるだろ? 試合後にあの子のところに行って、勝利の興奮が冷めないうちに金網越しに
「本気か」
「もちろん」
「じゃあ、勝つしかないな」
こんなときに何の話してんだよと思ったら、なんとなく可笑しくなってきた。そして、僕と前島は二人して笑った。
前島がマスクをかぶって定位置に戻る。
僕は、大きく深呼吸をしてから一塁側のスタンドに目を向けた。
さっきまで緊張で見えなかった保護者や下級生の顔が、一人ひとり見えるようになっていた。
昨日、背番号をユニフォームに縫い付けてくれた母さんは、祈るように両手を組んで僕を見つめていた。
隣に座るババの手には、ジジの遺影があった。ふと、葬儀場で空に立ち上る煙を思い出した。
僕は投げやすくするため、マウンドを足でならした。
いつも僕の試合を観てくれていたジジ。
今日も、特等席から観戦してくれてるんだろ。
そう言ってたもんな。
最後だからさ、良い写真、撮ってくれな。
これまで本当にありがとう。
ジジと僕の引退試合。九回裏の投球。
僕はプレートに右足を付け、両腕を大きく振りかぶった。
――終わり
ジジと僕の引退試合 くろろ @kuro007
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