線路の上

麻生行方

線路の上

 線路の上を歩くことにした。

 線路といっても、もう何年も前に廃線となった場所だ。

 線路は海に臨んでいて、浜辺に沿ってレールが走っている。

 陽射しは強いのに空気はからっとしていて、吹き抜ける風は不思議なくらい涼やかだ。

 この線路がどこに続いているのかは知らない。どれくらい歩きたいのかもわからない。

 でもたぶん、それでいい。


 ふと、海を見てみたいと思った。

 不思議とそう思ったので、何がきっかけだったのか、あまりはっきりとは覚えていない。ただなんとなく、綺麗な海を見てみたくなったのだ。

 どうせなら果ての見えない海にしよう。その先にある陸地といえば大洋の向こう側になるのだろうけれど、そんなことはどうでもいい。

 この世の果てがあるならきっとそこに違いないのだ。そんな風景を見ることができたら、どんなに素敵なことだろうか。

 だから海しか見えないところに行こうと思った。

 持ち物は手提げ鞄がひとつ。白いワンピースに白い帽子。暑さを凌ぐにはこれだけでいい。あとは少しのお金さえあれば、どこへだっていける。


 そうしてちょっと旅をした。そして今、目の前にはひたすらに青い海が広がっている。

 海の上はどこまでも透きとおっていて、その姿に空の青色を果てしなく映している。雲はひとつも見えず、砂浜を超えればそこには青しかない。海の濃い青色の上に、空の薄い青色が重なっている。

 ようやく、探していた場所に辿り着けた気がした。

 その景色があまりにも綺麗だったから、少しでも近づきたくて、思わず足がすっと動いてしまったのかもしれない。

 気がつけば柵もないわずかな段差を越えて、線路の上に立っていた。


 この上を歩いていくと、海の見せる姿はどんなふうに変わっていくのだろう。なんとなくそう思った。

 いったいどんな光景に行き着くのだろうか。もしかしたらそれは、ここ以上に素敵な景色なのかもしれない。そう想像すると心がときめいて、もっといろいろな海を見てみたいと思う気持ちが湧いてしまった。

 だから線路の上を歩くことにした。


 そうして線路の上を、ひたすら真っ直ぐに歩いていく。

 海岸と並んだ線路はまだまだ平坦で、風が海の匂いをつんと運んでくる。陽はまだ高すぎず、青い大気を身体に感じさせて、自然と足取りも軽やかになる。空を見上げても雲ひとつなく、底のない青さに吸い込まれそうだ。

 歩けば歩くほど風景は変わっていく。海は少しずつその角度を変え、ときに違う色が混ざり、ときに違う匂いを運んでくる。

 けれど今は、それも好きになれている。


 やがて目の前にトンネルが見えた。線路は山へと入っていくのだ。

 トンネルは山への入口とはいえ、もう奥に出口が見えているようなものだ。レールの従うままにトンネルへと入っていく。トンネルの中はやけに冷たく、海が見えないから足早になってしまう。

 そうして暗がりを抜けると、待っていたのは思わず手をかざすほどに、眩しくなった太陽の光だった。

 またしばらく歩いてみる。すると行く手に、次の廃駅が見えてきた。


 向かいは森になっていて、誰がここで降りていたのかはわからない。もしかしたら、誰も降りなかったのかもしれない。

 駅は小さな日陰のようなもので、置かれたベンチはもう何年も人に座られていないように見えた。日陰に入り、帽子を脱いで髪を整えると、向かいの森から蝉の声が聞こえてくる。

 海とは違った山の暑さを感じながら、ベンチに座って蝉の声に耳を澄ます。鳴き声は激しくみんみんと響いている。きっと嬉しいのだろう。

 なんとなくしばらくそうしていた。

 どれくらい経ったのかはわからない。微睡んでしまったのだろうか。ふと蝉の声が途切れていることに気づく。まるで起こされたようで、いけないとようやく立ち上がる。

 また線路の上を歩き始める。線路はまだまだ続いている。


 進むと左手側はすぐ山になって、線路は山と海岸線の間を走るようになった。海岸線は切り立った崖のようになって、崖にぶつかる波音が聴こえてきている。

 右手側の視界には、海が開けて見えた。

 浜辺から見る海と違って、高いところから見渡す海は、空とつがいになっていた。さんさんと輝く太陽にきらめく海はより青々としていて、ところどころに白波が立ち上がっている。遠くには小さく雲が見えていて、空と雲で海の上に青と白の対比を作っている。

 あの雲はどれほど遠くにあるのだろう。そんなことをとりとめもなく思う。遥か遠くにあるせいで、その本当の姿は想像もつかないくらい大きいのかもしれない。もしかしたら本当に小さくて、少し手を伸ばせば届くほど近くにあるのかもしれない。

 海の果てには水平線があって、そこで空と海とが交わっている。それはとても不思議な出会いに思えた。

 決して近づくことのない空と海が、あの場所では綺麗に寄り添っている。

 あそこには何があるというのだろう。結ばれることがないふたつを結ぶ、特別な力があるのだろうか。あそこがこの世の果てならば、そんな気もした。


 そこからしばらくすると線路は終わっていて、それを示す廃駅が見えた。

 ここが終点だったのだろう。ずいぶん高い位置にあるようで、どうやら結構な高さを登ってきたようだ。

 少し大きな建物があったが、もともと無人駅だったらしい。建物の暗がりの中で、半分壊れた改札を抜ける。

 するとそこには、周りを木々に囲まれた、アスファルトの広場があった。アスファルトはところどころひび割れていて、そこから土を覗かせている。地面は照り返しでひどく熱い。

 いまは誰もいない広場に、陽炎だけがたゆたっている。まるで人がいた跡だけを残すような、不思議な光景だった。人が消えてしまったのはいつ頃だったのか。


 今度はまた海が見えるように、駅からの山道を下っていく。

 そこでは海はその姿を深い緑に隠されて、時折また覗かせてくるのだ。それを眺めながら下り道を歩いていく。このまま歩いていけば、また海と並ぶことになるはずだ。そこではどんな景色を見せてくれるのだろう。焦れる気持ちが、待ち遠しい気持ちが胸を高鳴ならせる。

 けれどもそのうちに、空と海の色が変わってきた。

 時間は待ってはくれないことにそこで気づく。太陽が落ちようとしている。


 夕日が沈んでいく海は、その姿も鮮やかだ。

 それに思わず見惚れてしまって、じっと眺めていたくなる。けれどもその時間もそう長くは続いてくれない。ゆっくりと、しかし確実に太陽は海へと隠れ、黄昏色のその輝きを失って、反対に夜の黒さを増していく。

 徐々に見えなくなっていく風景に、なんだかひどく淋しくなってしまった。夜になれば何も見えなくなってしまう。空も海も変わらないはずなのに、その色彩を支えていたのは太陽の気まぐれだったのだ。

 そうして色とりどりの時間は終わり、夜になる。


 そう終わりを感じたとき、ふと微かな明かりが周りを照らしていることに気づく。

 太陽の代わりに月が昇っていた。

 昇ってきたのではない。それは最初からそこに、海の上にあったのだけれど、太陽がそれを隠していただけだ。だから今は、太陽が輝く時間とは違う景色が見えるようになったのだ。

 確かにあのまばゆい青色は消えてしまった。けれどもまだ空気は澄んでいて、たぶん星が綺麗に見える。

 それがこの旅のお終いに相応しいのかもしれないと思えてきた。黒い海に浮かぶ月と星のきらめき。それはきっと、とても素敵だ。


 そのうちすっかり日も暮れて、港のような町明かりが見えてきた。

 どこかで一息入れようかとも考えたがやめることにした。ここで休んだりしたらきっと頭がうとうとしてしまって、それはとてももったいない気がするからだ。

 体に感じる熱が蒸し暑さを帯び、海の匂いが潮の匂いになり、波の音がざあざあと潮騒に変わっていく。道はところどころにある街灯に照らされて、そのアスファルトをはっきりと映し出している。

 心が無性にざわざわした。

 それを落ち着けたくて、明かりのないところを探した。小さな堤防の先に浜辺が見える。濃くなっていく潮風の匂いに近づくように、砂浜に足を踏み入れる。

 そこには夜の海があった。

 夜の海は青い色を失って、ただ波の音を奏でている。微かに白い浜辺と真っ黒な海の間に、寄せては返すさざ波が聴こえる。

 ここを旅の終点にしようと決めた。ここで旅は終わるのだと、なんとなく思った。


 帽子と鞄を放り投げて靴を脱ぐと、ひやりとした砂の感触が足の底から伝わってくる。靴は脱ぐべきだと思った。アスファルトと違って、砂は重さを少しだけ受け入れてくれるからだ。

 線路の続きのように、波打ち際を歩いてみる。けれども黒々とした景色は変わらない。星を見ようと空を見上げる。他の明かりがまだ眩しい。まだここは本当の終点ではないのだろう。

 そうして浜辺を歩いていくと、やがて木で作られた小舟があった。



 舟を沖へと漕ぐにつれて、街の明かりが小さくなっていく。やがて明かりも砂浜も完全に見えなくなった。周りがひたすらに黒い海だけになる。聴こえる音が静かなさざ波だけになる。


 ようやく旅の終点に辿り着いたのだと思った。

 仰向けになると、耳に伝わるのは舟を波が微かに揺らす音だけになった。力を抜くと体が水に沈んでいくようで、どこか心地良い。

 時折掛かる波しぶきが少し冷たくて、そっと目を瞑る。そしてそっと目を開く。


 視界のすべてが、満点の星空だった。

 星の光が何かの絵を描いている。白い月が空を丸く切り取っている。

 海が夜空に浮かんでいる。


「あ」


 そこにはまったく果てがなかった。

 私はそのときやっと、この海が見たかったのだと、そのためにこの旅をしてきたのだとわかった。

 その光景があまりに綺麗で――。


「――あ」


「死にたくなってきた」


 なんだかそう、思ってしまうほどだった。

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