Color of Sound

宮守 遥綺

01 ターコイズブルー

 それは、匂い立つ音だった。

 遠い遠い異国の海の匂いを、運んでくる音だった。

 夕暮れの廊下は西日と喧噪で溢れている。「授業を終えた」という開放感が漂うこの時間は、一日の内で一番騒がしい時間帯だ。窓を開けていると、外からはグラウンドを走る運動部の声が聞こえ、廊下を走るゴム底の音が聞こえ、時折机を引っ張る耳障りな音が聞こえる。校舎が音で溢れ、小さな音など誰にも拾われることなく消えていってしまう時間。その中で僕の耳は、微かな、聞き慣れた音を拾い上げた。

 ピアノの音。

 思わず足が止まる。開いた窓から音を追う。

 それは美しく、校舎内のどの音よりも鮮やかだった。

 白い砂浜に、穏やかに打ち寄せるターコイズブルーの海。

 眼前にそんな光景が広がった気がした。吹いてくる生温い風の中に、海の匂いすら感じられる。

『渚のアデリーヌ』

 ポール・ドゥ・センヌヴィルが自身の次女、アデリーヌのために作曲した曲。ピアノを始めて数年で弾けるようになるような曲で、高度な技術は必要ない。

 しかし、この『渚のアデリーヌ』は強烈に僕を引きつけ、離さなかった。


「……すごい」

 

 それは、美しい音が紡ぎ出す、圧倒的な表現。

 しっかりと粒が立っているにも関わらず、音のひとつひとつが柔らかく、調和して僕の眼前に波を作る。

 大きくなった波が戯れるように砂浜に打ち寄せ、引いていく。もう一度、波が来る。カラリと乾いた風が吹く。夏の海。遊ぶ少女の姿すら、見えた気がした。二度目の波が来る。

 音の波に背を押されたように、気が付くと僕は走り出していた。向かう先は音楽室がある学科棟。僕が今いる教室棟のちょうど真向かいにある建物だ。

 曲の時間を考えると、どう頑張ったって間に合わない。頭は冷静に考えるのに、足は止まらない。

 渡り廊下を駆け抜ける。靴裏のゴムが板敷きの床で滑って何度も転びそうになった。それでも走り続けた。音を追うように。周囲の生徒たちが驚いて道を開ける。視線が体に突き刺さる。しかし、そんなものを気にしている余裕はなかった。

 誰だ。

 去年の合唱コンクールで伴奏をしていた人間ではない。伴奏者にここまでの音を出す生徒はいなかった。

 誰だ。誰なのだ。

 この美しすぎる音の奏者は。 

 


 学科棟に着いたときにはすでに足は鉛のように重くなっていた。心臓が痛みを伴いながら激しく打つ。限界だった。

 重い体を引きずりながら僕は歩いた。ナメクジのようにゆっくりゆっくりと、階段を這うようにして上る。音楽室は三階。上から、音の雨が降ってくる。

 曲はすでにクライマックスに突入していた。右手が鍵盤の上で波を作る。左手が波の底に少しの変化を生み出し、やがて海は穏やかに鎮まっていく。穏やかな夕暮れ。凪いだ海。少女の姿はもうない。

 最後の音。余韻が空気を微かに震わせ、やがて空間に溶けていった。訪れる静寂の中にはまだ、甘い海の匂いがあった。

 最後の一音まで、泣きたくなるほどに圧倒的な演奏だった。

 僕は重さの残る足を上げ、今出せる最大の力で階段を上った。その先にいる、奏者を目指して。



 細かい音ひとつひとつを零さないように注意しながら音楽を紡ぐ。楽譜のクレッシェンド記号に従って、徐々に力を込めて鍵盤を叩く。息切れしそうなほど続く三連符。この独特の指運びに慣れたのは、練習を初めて何日目だったか。一日平均五時間以上。コンクールまでの半年、毎日練習を続けた今は、もう指が迷うこともない。

 力強く急速な怒濤の三連符を弾き終えたあとに待つ、静かで穏やかな調べ。楽譜を細かく確認し、記号のひとつひとつを落とさないように気をつける。

 譜面通りに。正確に。

 僕はずっと、それを必死にやってきた。どんなに難しい曲でも、完璧に弾くことができるように。それが間違いだったはずはない。譜面通りに弾くことができなくては、コンクールでの入賞などあり得ないのだから。

 頭の中に、恩師から言われた言葉が甦る。

 それとともに浮かんでくる、放課後に聞いた『渚のアデリーヌ』。

 指がもつれた。細かい連符ばかりの曲だ。一度指がもつれれば、曲に戻ることはできない。音が止まる。失敗など最近はしなくなっていたのに。


「……くそっ」


 握った拳で膝を叩く。ジン、とした鈍い痛みが広がって、すぐに消えていった。

 コンクールが終わって、すでに一週間。

 しかし結果発表のあと、会場の廊下で恩師に言われたひと言が、今も深く暗く僕の中心を蝕み続けている。


 

 全国中高生ピアノコンクール本選。結果発表が終わったあとの廊下には、一時間前までの緊張感が嘘のようにざわめきが広がっていた。父親や母親と結果が貼られた掲示板の前で写真を撮るドレス姿の少女もいれば、講師とおぼしき女性に縋って泣くスーツ姿の少年もいる。

 掲示板の僕の名前の横は、ただ空白だった。

 コンクールに出始めて早八年。今回もまた、入賞すらできなかった。

 ホール内での結果発表で名が呼ばれず、掲示板を見て現実を飲み込む。何時間もピアノの前に座り続けた日々を思い出す。「あんなに練習したのに」とは思わなかった。そんなことは、当たり前だと知っていた。

 中高生のコンクール、特に高校生ともなればコンクールの結果は文字通り将来に関わる。日本の音大に進学するにせよ、海外の音大を目指すにせよ、コンクールでの入賞実績は確実に入試で加味されるからだ。だからこそ、全員が必死になって賞を獲りに来る。

 周囲を見回す。

 結果に一喜一憂する人、講師や友人と話し込む人、さっさとホールを後にする人……。ざわめきは少しずつ小さくなっていく。

 僕はもう一度、掲示板に目を移した。

 全国から選ばれてきた百二十人の名前が並んでいる。そこから選ばれた入賞者三十人の名前の横には、赤色の紙花が飾られている。

 彼らは毎日どれだけの時間をピアノに費やしてきたのだろう。どれだけの時間楽譜と向き合い、どれだけの時間演奏してきたのだろう。人生のどれだけの時間をピアノとともに過ごしてきたのだろう。

 あとどれくらいの練習を積めば、僕は……。


「桐沢くん、お疲れさま」


 後ろからの声に振り向く。黒いスーツ姿の先生がいた。先生は悲しげな表情でこちらを見ていて、僕は少し頭を下げることしかできなかった。言葉が、見つからない。

 臨時のレッスンを何度も入れてもらった。それでも、入賞には届かなかった。これで八度目だ。申し訳なさと不甲斐なさが、先まで胸を占めていた悔しさを押しのけて体中に広がっていく。


「桐沢くんは、私が教えたことは完璧にできるようになった。練習を毎日何時間も頑張っていたこともお母さんから聞いているわ。だけど、それだけではダメだってことも、わかっているわよね」


 悲しい眼のままで、先生は口元だけで笑った。

 僕は両手を握り締めて俯くしかなかった。背後にある結果発表の掲示板が、重く背にのし掛かってくるような気さえする。

 

「桐沢君には才能がある。技術がある。だけど表現力が足りない。このままでは、これ以上の結果は望めないわ」


 ピアノを始めて十三年。ずっと連れ添ってきた恩師の言葉はあまりにも重い。背中から押し潰されてしまう。そんな錯覚すら覚える。

 何もかもが重い。結果も。先生の言葉も。何もかもがただ、重かった。



 わかっている。

 コンクールで入賞するために必要なのは、譜面を正確に弾く技術ではない。そんなものは出場する時点で持っていて当たり前なのだ。

 必要なのは、曲解釈に基づいた唯一無二の表現。

 審査員の印象に残るほど強烈な、表現力なのだ。

 音符のひとつひとつを確かめるように、僕は譜面台に広げた楽譜を指でなぞった。五線譜に並んだ連符は複雑に絡み合いながら段々とその音階を上げている。美しい譜面だ。このまま弾くだけでも十分に美しい曲なのだ。この曲は。

『クライスレリアーナ』

 シューマンが作曲し、かの有名なショパンに献呈したという全八曲からなるピアノ曲集。僕がコンクールで弾いたのはその一曲目だった。激しい分散三連符が続く、どこか仄暗くしかし華やかさを持った不思議な曲。付けられた主題は『激しく躍動して』。

 しかし、美しい曲をそのまま美しく弾いてもダメなのだ。それでは、ダメなのだ。

 譜面の中にはいくつもの書き込みがある。運指や間違う頻度が高いところに付けている丸印。見落としがちな記号に引いた赤線。そのどれよりも多いのが、曲解釈だ。何度も消しては書いた跡が残っている。主題はどこか。何を思い浮かべたのか。ネットや本や……さまざまなものから得た情報を書き込んでは、譜面の音符とつなぎ合わせた。自分だけの『クライスレリアーナ』を求めて。

 楽譜を閉じる。一度目を閉じ、頭の中で響き続ける音に耳を傾けた。

 海の音。美しいヨーロッパの、暖かな風とターコイズブルーの海の、音。


「……教えてくれ」


 指で、音を辿る。


「教えてくれよ……」


 表現とは何だ。

 なぜ、あんなにも美しい音が出せる。

 なぜ、お前が見ている景色を僕も見ることができる。

 なぜ、こんなにも僕は泣きたくなる……?


 

 僕の両手は、必死に頭の中の音を辿った。

 あの美しい音を、手に入れられやしないかと。

 音に合わせて鍵盤を叩いた。

 海を求めて。景色を求めて。

 しかし、違う。何かが違う。

 手が止まる。

 鍵盤から指が滑り落ちる。

 

 どれだけ弾いても。

 頭の中に浮かんだ海を、僕は音に乗せられない。



 夕陽に染まった階段を上る。

 降り積もる音を見上げながら、静かに、ゆっくりと。

 ホームルームを終えてすぐ、僕の足は学科棟に向かっていた。きのう駆け抜けた渡り廊下をほかの生徒たちに紛れて歩き、一階に着いたときにはすでに演奏は始まっていた。

 階段を上りながら数曲を聴いた。この奏者はどうやら、練習をしているわけではないらしい。グランドピアノをただ弾きたいだけなのか、同じ曲を繰り返すのではなく、人気アニメの曲やオリコンチャートに入っていた曲を気の向くままに奏でている。そのどれもが美しい音で、圧倒的な表現力を持って、静まり返った棟内に響き渡る。

 三階に至る三段手前。

 僕は足を止め、座り込んだ。

 目を閉じる。

 直後、求めていた海風が吹き始めた。

 穏やかに、柔らかに紡がれる旋律は、波だ。ターコイズブルーの海を揺らす波。波間で少女が遊ぶ。透き通る笑い声をあげながら、白い砂浜を駆け回る。時折大きくなっては勢いよく打ち寄せる波が、少女の足を濡らしてはからかうように引いていく。

 右手と左手がともに混ざり合っては溶け合って、波が大きくなってゆく。

 どこからか、風が吹く。

 風はやはり生温く、遠い海の匂いを孕んでいる。

 僕はもう、奏者の姿を見ようとは思わなかった。

 姿を見たところで、どうにもならない。この圧倒的な音を手に入れられるわけではない。

 この音は、間違いなく「才能」だった。

 僕がどれだけ欲しても決して手に入らない、「才能」だった。

 それを認識した途端、不思議と心が穏やかになる。何だか晴れ晴れとすらしていた。

 目を開く。ポケットから携帯を取出す。

 電話帳を開き、迷い無く名前の文字に触れた。


『桐沢くん? どうしたの?』


 数コールの後、柔らかな声が耳殻を打つ。

 大きな波が、僕の背中を押した。


「先生、僕……」


 海の匂いのする音が、僕を通り過ぎていく。




01 ターコイズブルー Fin





 


 



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