第10話 エコセーズ
最近、ピアノ教師を〝定年退職〟した平井美智子のところに一本の電話がかかってきた。
「あ、もしもし? オレ、悟だけど……」
「まあ悟!? 久しぶりね、たまには連絡しなさいって言ってるでしょう?」
美智子の息子、平井悟は音大を出るとヴァイオリンでドイツ留学し、その後もヨーロッパ内のオーケストラを転々として実家には戻ってこない。
「ごめんごめん……今、フランクフルト空港の税関にいるんだけど、困ったことになっちゃってさ……」
「困ったことって何?」
「ヴァイオリンが税関で引っかかっちゃってさ。付加価値税と追徴課税合わせて8000ユーロ払うまでここから出さないって言われたんだ。でもそんなに手持ちはないし、カードだって限度額超えてるし……」
「ええ!? じゃあどうしたらいいの?」
「知り合いの弁護士に相談したら、仲介してくれるらしい。母さん、悪いけどその弁護士の口座に百万円振り込んでくれる?」
「わかった。百万円くらいならなんとかなるわ。その銀行の口座番号教えて!」
美智子は〝タンス預金〟を引き出し、電話口で聞いた関東勧業銀行川渡支店へと赴いた。発券機で整理券を受けて待っていたが、ほどなくして窓口に呼ばれた。
「百万円のお振り込みですね。失礼ですが、どのようなご要件でしょうか?」
テラーの若い女性が尋ねた。
「実は息子がフランクフルト空港の税関で止められまして……救済のために弁護士に費用を振り込まなくてはならないのです」
「そうですか……実は最近振り込め詐欺が多発しておりまして、当行も警戒態勢を取っております。お手数ですが、念のため息子さんにご確認いただけませんか?」
美智子は息子の携帯にかけてみた。だが、即座にドイツ語のアナウンスが流れた。
「なんかつながらないみたい。あの、空港でいつまでも足止めされていたら可哀そうだから、出来るだけ早く振り込みお願いします」
美智子が強く言ったので、テラーは不審に思いながらも振り込み手続きを遂行した。
銀行からの帰り道、駅の方からピアノの音が聞こえてきたので、美智子はふと足を止めた。曲はベートーヴェンのエコセーズ・WoO83。
「……まさか、あの子!」
美智子は慌ててピアノに向かって一目散に駆け出した。そしてピアノを弾いていた男に向かって言った。
「悟! フランクフルトにいるって言ってたのに、どうしてここにいるの!? 今弁護士先生の口座に振り込んだのよ!」
男はピアノを弾く手を止め、キョトンとして美智子を見つめる。
「あの、人違いではないでしょうか?」
「……え?」
「私は悟ではなくて、金村俊彦と申します」
「あらごめんなさい、私ったら……最近すっかりもうろくしてしまって……」
「いえいえ。ところで先ほど口座に振り込んだとおっしゃっていましたが……もしかして〝振り込め詐欺〟に引っかかっていませんか?」
「まさか……だってちゃんと海外から電話が来たのよ。息子が海外にいること、詐欺師が知っている筈ないじゃない」
「詐欺師は金になることなら何でもしますよ。ターゲットの家庭の詳しい事情を調べるくらい、彼らには造作もないことです」
「そんな……いくらなんでも子供の声を聞き違える筈はないわ!」
現に私を息子さんと間違えたじゃないですか、という言葉は飲み込み、金村はまたピアノを弾き出した。美智子は目をつぶり、遠い昔に思いを馳せる。
「ベートーヴェンのエコセーズね。この曲、苦い思い出があるの。息子がこれ弾いてる時、私、ちょっとスパルタになってた。少し間違ったら定規で手をピシャリと叩いたりね。それで息子はピアノがすっかり嫌いになってしまったわ」
「ははは、それは苦い思い出ですね。ところでこの曲、作曲したのはベートーヴェンじゃなかったって説もあるんですよ」
「ええ、嘘でしょう?」
「嘘かどうかわかりませんが、ハイドンが作曲したと思われたおもちゃの交響曲とか、モーツァルトだと思われていたアデライド協奏曲とか、後に違う人の作品だったと判明した名曲は結構ありますよね。間違える筈はない……そう思っても一旦思い込むとなかなか間違いに気がつかないのが人間じゃないですか」
「まあ、若いのにわかったようなこと言って! ……なんだかあなた、私の息子に似ているわ」
「それはまた光栄と申しますか……ともかく一度、息子さんに確認したほうがいいですよ。もし詐欺だとわかったら振込先の銀行に連絡して下さい。そして警察に通報です。もし私にお手伝いできることがあったらご連絡下さい」
金村は名刺を渡した。そこには行政書士・金村俊彦と書いてあった。
「ありがとう。何かあったら連絡するわ」
🏠
家に帰った美智子は、仏壇に線香を供えて合掌した。そして目を上げて遺影に語りかけた。
「さっきの電話、……あなたじゃなかったのね」
第10話 終わり
ピアノのある終着駅 緋糸 椎 @wrbs
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