第9話 ジムノペディ

「ぼく、いかない!」

 5歳の息子・裕太の突然の発言に、沢田麻里は戸惑った。これまで家を出るまで愚図ることはあっても、一旦出かけてしまうと裕太は逆らわずに塾までついて来てくれた。

「なに言ってるの、もうすぐそこまで来ちゃったわよ。塾だって行けば楽しいから、ほら」

 裕太は自宅から電車で30分かかる、遠い塾に通っていた。麻里にとってそれは面倒には違いなかったが、ご近所に〝お受験〟のことが知られたくないために、わざわざ遠路はるばる足を運んでいたのだ。

「いやだったらいやだ!」

 グズグズ言いながらその場に座り込む裕太。なだめたりすかしたり、無理やり引っ張って行こうとするが、5歳の男の子の力は存外に強く、非力な女性である麻里には歯が立たない。

 そのうち麻里は周囲の視線が気になり始めた。バカにしてニヤニヤする者、批判的な鋭い視線で突き刺して来る者……いずれにせよ好意的とも親切とも言いがたい。

(いやだ、恥ずかしい……)

 麻里は力の限りを振り絞って、嫌がる息子を必死で引き摺り出した。ところが塾まであと数十メートルというところになって、裕太は握られていた手を振り解いて逃げ出し、駅の方へと走って行った。

「裕太! ちょっと裕太、待ちなさい!」

 麻里が大声で呼び止めるのも聞かず、裕太はトコトコと駅へと駆け出して行く。生憎ヒールを履いた麻里の足では、本気で逃げる男の子には追いつかない。駅構内にたどり着いた時には、すっかり見失なった。

「裕太! 裕太! どこにいるの?」

 麻里は大声で呼びかけるが返事はない。通りがかりの人たちにも声をかけてみる。

「すみません、5歳の男の子なんですけど、見かけませんでしたか?」

「いいえ」

「見てないです」

 つれない返事しか返って来ない。中には申し訳なさそうに言って来る人もいるが、それで麻里が安心出来るわけではない。

 駅員に言おうかと思ったが、「裕太君という迷子のお子さんを探しています」などとアナウンスされたら恥ずかしい……そう思った途端、足が動かなくなった。

(私って、ひどい母親ね……)

 とその時、背後からウィーンというモーター音が聞こえ、それが徐々に近づいて来た。

「ボンジュール」

 振り向くと、セニアカーに乗った高齢の男性だった。

「はい……?」

 麻里は訝しげな目を老人に向けた。老人は陽気に言葉を続けた。

「ケス・ク・トゥ・シェルシュ、マドモワゼル?」

「あの、何言ってるのかわからないんですけど」

「ああ、すまんな。教養ありそうに見えたから、フランス語くらい分かると思ったわい」

 〝教養〟と言われて麻里は気分を害した。

「あいにく私は三流の短大卒でして、ついでに言えば夫も三流大出の冴えないサラリーマンです」

「そう自己卑下しなさんな。ワシはそもそも大学も出とらん。さっきの質問はな、何か探し物かと聞いたんじゃ」

「……迷子になった息子を探しています。見かけませんでしたか?」

「はて……それらしき子供は見とらんのう」

「そうですか、それではこれで」

 足早に立ち去ろうとする麻里を老人は呼び止めた。

「お待ちなされ、少し手伝ってくれんかね」

「申し訳ありませんが、こうしている間にも子供が危ない目にあっていないかと心配なのです」

「なあに、子供の足じゃそう遠くへも行っとらんじゃろう。少し年寄りの世話をしたところでバチはあたらんじゃろうて」

 確かに、高齢者の世話を断るなんて恥ずかしいことだ。そう思ってる間に老人はセニアカーを出発させたので、麻里はそれについて行った。そしてセニアカーはピアノの前で停止した。

「手伝いというのは、ワシをピアノの前に座らせて欲しいんじゃ」

 麻里は言われた通り、老人をピアノの椅子へと座らせた。老人はしばらく深呼吸してからおもむろにピアノを弾き始めた。それは麻里もよく知っている、エリック・サティのジムノペディだった。簡単な曲ではあったが、老人のピアノの腕前が確かなことがわかる。

「ピアノ、お上手なんですね」

「そりゃそうじゃ。何しろワシはパリ音楽院コンセルヴァトワール一等賞プルミエ・プリで卒業しとるんじゃからな」

「……さっき大学出てないとおっしゃいませんでしたか?」

音楽院コンセルヴァトワールは大学ではない。だが卒業すればそこそこ立派な音楽家になれる。ワシだって若い頃はショパーンなんかバリバリ弾いとったんじゃぞ」

 老人のショパンの発音は「パ」にアクセントのついた妙なものだった。これが真正なフランス語風なのか麻里には見当がつかない。もっとも老人がパリ何某を卒業したと言う話だって怪しいものだ。

「ところで今弾いた曲、あんた知っとるかね」

「サティのジムノペディ……ですよね」

「さよう。ジムノペディの語源は、ギムノペディアという古代ギリシャの祭りじゃ。スパルタの神々に捧げる子供たちの裸踊りだったんじゃよ」

「スパルタの神々に……」

 自分の子どもを全裸にして公に晒し出す? なんて恥ずかしい……と思いつつ、〝スパルタ〟と言うワードで麻里は身につまされる思いがした。麻里がやっているのは、はたから見れば立派なスパルタ教育だろう。

 恥ずかしくない生き方をしなさい、そう親から言い聞かせられて育った麻里にとって、〝恥ずかしさ〟は最大の罪悪であった。それが子育てにも反映された。裕太も一流の大学を出て、一流の仕事につけば恥ずかしい思いをせずにすむ。

 そのためには今この時期が大切。ところが彼女曰く〝ゆとりボケ〟の夫は「子供はのびのび自由に育てたい」などと言う始末で、自分がしっかりしなければと麻里は気負っていた。

 高価な教材を定期購読し、名門校合格率を誇る塾にも通わせ、おもちゃも食べ物も全て〝頭が良くなる〟というお墨付きのものを与えた。子供の好むと好まざるとに関わらず、それら全てを半ば強制的に押し付けて来た。

 全ては子供の将来のため。

 だけど本当にそう?

(私……スパルタの神々に取り憑かれて、裕太を捧げようとしていたのかしら)

 そんなことを思っていると、突然プップーとブザーの音が鳴った。見ると、逃げていた裕太が老人のセニアカーのクラクションをいたずらして鳴らしていたのだ。

「裕太! そんなことしたら恥ずかしいでしょ!」

 裕太は母親に咎められて、硬直した。その表情はまるで能面のように無機質だ。

「エー、ギャルソン(おい、こぞう)!」

 と今度は老人が言った。「いたずらはそんな仏頂面でするもんじゃない、イヒヒと笑いながらするもんじゃ!」

「……はい?」

 麻里が眉をひそめて聞き返す。それに構わず、老人はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「ほれ、こうして笑ってみろ、こうじゃ」

 老人が口の両端を指で引っ張った。すると裕太はところどころ抜けた歯を見せて、

「うきゃきゃきゃ」

 と笑い出した。

「やめて、そんな恥ずかしい笑い方!」

 麻里が思わず声を上げると、老人が呆れた顔をした。

「マドモワゼル、さっきから恥ずかしい恥ずかしいって……もっと好きなようにさせたらどうかね。ワシの見たところ、このギャルソンは大物になるぞい」

 そう言って老人は自分の足でスックと立ち、セニアカーに乗って去って行った。その後ろ姿を麻里と裕太はしばらくボーッと見つめていた。

「裕太、塾行くの……やめる?」

 麻里が言うと、しばらくボーッとしていた裕太が、さっき老人から教わったように、イヒヒと笑った。


第9話 終わり

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