第8話 雨だれのプレリュード
ポンポンポンポン
外から聞こえてくる雨音に合わせて、俺はピアノを弾く。曲はショパンの「雨だれのプレリュード」。天候の移り変わりを思わせる展開は、俺の中にある何かをいつも掻き立ててくれる。そして静かに静かに、エンディングへと向かう。
「もしかして、安藤魚春さんですか?」
急に名前を呼ばれて、俺はギクッとした。名前と言っても本名ではない。ポップアートの旗手アンディ・ウォーホルにちなんでつけた、俺の漫画家としてのペンネームだった。
「え、いや、その……」
「やっぱり『眠ヒヒ』の作者、安藤魚春さんですね!」
その少女……たぶん俺の娘と同じ年頃の少女が嬉々として言う。「眠れるヒヒ」、通称「眠ヒヒ」は俺の生涯唯一のヒット作。テレビアニメ化され、各国の言葉に翻訳されて世界中に広まった。ところが「眠ヒヒ」は知っていても、「安藤魚春」という作者名なんて、ましてその顔なんてほとんど知る者はいないだろう。
「人違いだろう。俺は名もなきただのゴロツキさ……」
すると少女はスマホを取り出してSNSの画面を見せた。そこにはこう書いてあった。
[失踪中の安藤魚春、川渡中央駅に出現!]
[川渡中央駅のピアノマン、正体は失踪中の眠ヒヒ作者!]
いやはや、ネットの魔力。恐ろしい時代になったものだ。
「だったらなんだ。放っておいてくれないか。俺は一人になりたいんだ」
しかし少女はマイペースに話を切り返す。
「安藤さん、マンガだけじゃなくてピアノもお上手なんですね」
「いや、俺が弾けるのはこの『雨だれのプレリュード』だけさ」
「へええ、でもどうしてこの曲を弾こうと思ったんですか?」
「俺は若い頃、藤子不二雄の『まんが道』というマンガを読んで漫画家になろうと思ったんだが、そのマンガの中で手塚治虫がこの曲を弾いている場面があったんだ。その情景がなんとも魅力的でね、俺は自分でもその曲が弾きたくなって、知り合いのピアノ教師に頼み込んで教えてもらったのさ。でも俺の生涯を通じて、ピアノで弾いた曲は後にも先にもこの曲だけだ。ちょうど眠ヒヒが俺の生涯唯一のヒット作であるようにな」
「眠ヒヒ以外の作品、描こうと思わなかったんですか?」
俺は少しムッとした。純朴な少女の疑問はしばしば大人の神経を逆撫でする。
「読者も編集者もみんなそう言ったよ。眠ヒヒを超える作品を生み出せとね。藤子不二雄はオバケのQ太郎を超えてドラえもんを描き、鳥山明はDr.スランプを超えてドラゴンボールを描いた。俺だってそういうのを生み出そうとしたさ。だけどそうやってもがけばもがくほど、俺は追い詰められて気がおかしくなった。そして気がつけば、仕事も家庭も捨ててフーテンのさすらい人になっていた」
少女は黙って俺の独白に耳を傾けていた。そしてしばらく沈黙が続いた後、顔を上げて言った。
「安藤さん、もう一度雨だれのプレリュードを弾いてもらえませんか?」
俺は頷き、鍵盤の上に手をかざした。そして雨だれのプレリュードを弾き始めた。弾きながら、色々な思い出が脳裏に甦る。
アシスタントとしての下積みの日々、眠ヒヒの雑誌連載が決まった時のこと、アニメ化もされて一躍人気漫画家として躍り出たこと、結婚し、娘が生まれたこと……。
弾き終わると少女は拍手しながら言った。
「すごく素敵でした。安藤さんが、手塚治虫の弾いたこの曲に魅了されたのがよくわかりました」
「そう、よかったね。それじゃ……」
と俺が立ち去ろうとすると、少女が引き止めた。
「ちょっと待って下さい。実は私、高校の漫画同好会部員なんですけど、これを安藤さんに見て欲しいんです」
そう言って少女が取り出したのは、マンガの原稿だった。俺は老眼鏡をかけ、その作品に目を通した。荒削りだが、面白い。何か光るものはあると思った。
「……どうですか?」
上目遣いに恐る恐る尋ねる少女。
「うん、悪くないな。率直に言って面白い。だけど商業作品となるといくつか改善すべき点があるな。具体的に言うと……」
と俺が言いかけると、少女は手をかざして制した。
「実はこれを描いたのは私ではありません。同じ同好会の部員なんです」
「ほう、なかなか才能のある子だね。会ってみたいものだ」
「是非会って下さい。その友達の名前は……久本由依ちゃんと言います」
俺はその名前を聞いて衝撃を受けた。少女は俺に原稿を預けたまま立ち去った。
久本由依は俺の娘の名前だ。まさかマンガを描いていたなんて。娘はさっきの少女に託して、自分の作品を俺に見せようとしたのだ。
もう一度俺は娘の描いたマンガをじっくり読んだ。言わなければならないことは山ほどあった。
会わなければ、会って直接彼女に伝えなければ、そう思った俺は立ち上がって改札口へと向かった。
かつて捨てた、俺の家族の元へと向かうために。
第8話 終わり
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