第7話 アラベスク
♪ラシドシラ、ラシドレミ
レミファソラ、ラシドレミ
呆れるほど単純な音の羅列。大勢の人が行来する駅の構内で、稚拙なメロディーが響き渡る。いや、稚拙なのは私の演奏で、ブルグミュラーは立派な作曲家だ。
子供の頃、私はこの曲を得意になって弾いていた。誰よりも早いテンポで。だから、私は誰よりもピアノが上手いと思っていた。そして、えっちらおっいら弾いている友だちに、私の〝凄腕〟を見せつけていい気になっていた。
私の名前は相楽千代、今年短大を卒業した派遣社員だ。
今朝、出社しようとしたら、登録している人材派遣会社から呼び出された。
「お話というのは何でしょうか。今、仕事の方が忙しいので手短にしていただけるとありがたいのですが」
「実は……そのお勤め先から、相良さんとの契約を打ち切りたいと連絡がありまして……」
青天の霹靂だった。そんな筈はない。
「何かの間違いじゃないですか? 私は同期入社した正社員よりも、ずっと成果を出していましたよ!」
すると派遣会社の社員はいかにも面倒だと言わんばかりの顔つきで答えた。
「その、正社員の方々から苦情が出ているそうなんですよ、〝サポート〟のスタッフが扱いにくくて困ると……」
サポートというのは無論私のことだ。その発言には正社員たちのヒェラルキーを鼻にかけた皮肉を感じた。
🎓
私は就活で内定は得られなかったものの、短大を出て人材派遣会社に登録直後に、運良く外資系の総合商社での仕事が舞い込んできた。着任早々、会社では海外美術品の展示会が企画され、全社員にその動員が課せられていた。
私はここで頑張ればきっと認められると思い、知人や親戚に声をかけて必死に動員をかけた。その甲斐あって、動員数は社内で四位となった。もちろん新人の中ではダントツ一位だ。上司からは褒められ、私は有頂天になった。だがその時私の脳裏にあのメロディーが流れた。
♪ラシドシラ、ラシドレミ
私はそのメロディーが聞こえるたびに頭を振り払い、仕事に邁進した。同期入社の社員たちも、相楽さんすごいわね、とほめた。だが私はそのほめ言葉に苛立ちを感じた。彼女たちは正社員という安楽椅子に座って何も努力しないから成果が出ないのだ。人をうらやむ暇があったら、私みたいに努力すればいいのに。そんな生意気なことを考えてきた。
🏢
「可及的速やかに相楽さんの派遣先をサーチしますので、今しばらくお待ち下さい」
派遣会社の社員が取り繕うように言う。その〝今しばらく〟はどれくらい続くことだろう。
面接室を出ると、同じ派遣先に勤めていた久家さんとバッタリ会った。
「久家さん、今日は会社の方に出勤じゃなかったんですか?」
「あそこ、居心地悪くなったから辞めることにしたの。今日はそのことを言いに来たのよ」
「どうしてですか? 待遇は悪くなかったと思いますけど……」
すると久家さんの顔がキッと鋭くなった。
「相楽さん、あなたのせいよ!」
「え……私のせい……?」
私はたじろいだ。久家さんは話を続けた。
「あなた、社員からコピーやお茶汲みを頼まれても断ったりしていたそうじゃない。それどころか、人の良さそうな男性社員に振ったりして……それに、社員たちの仕事に何かとケチをつけては引っ掻きまわして……みんな迷惑してたわ。そのトバッチリが私たち派遣社員全員に向けられていたのよ、気づかなかった?」
「そんな……私はただ、私なりに一所懸命やっただけで……」
それなりに評価も受けていた。そんな私の思いを見透かしたように、久家さんは皮肉な呆れ顔をした。
「相楽さん、あなた本当におめでたい人ね。よくトイレであなたの噂話聞いたわよ。海外美術品展示会で動員数上げられたからっていい気になってる勘違い女だって。そもそもあのイベントは会社にとっては大して重要視されていなかったの。だから他の人たちは片手間にやってたんだけど、あなたったらあんなどうでもいいことに全力投球で……まあそれだけなら初々しいっていうか、微笑ましいけど、それで思い上がって高飛車になるなんてもってのほかだわ」
……またやってしまった。
♪ラシドシラ、ラシドレミ
ブルグミュラーのアラベスクがまた頭の中で流れた。これが上手に弾けたらすごいと子供の頃は思っていた。一所懸命練習して、誰よりも速く弾けるようになった。みんなはすごいね、と言ってくれた。だけど本当はみんなわかっていた。こんな曲弾けたって大したことないと。
🚉
♪ラシドシラ、ラシドレミ
久々に弾いたけど、なんて冴えない曲なんだろう。
今でも速く弾けるだろうか。そう思ってどんどんテンポを上げてみた。結構速く弾ける。でも音楽性も何もあったものじゃない。時々指を滑らせながら、マシンガンのように音を連射する。
「ピアノ、上手ですね」
突然声をかけられた。見ると、この曲と同じくらい冴えないオッサンだった。
「いえ、昔とった杵柄で……」
いやいやその表現おかしいでしょ、と自分で内心突っ込んでみる。そもそも杵柄なんか取ってないのだ。
「それだけ指が動くってことは、今でもピアノを弾いているんですか?」
たぶんこのオッサン、ピアノのことほとんど知らないんだ。指が速く回っていれば、上手いと思う。ああ、みんなこのオッサンみたいだったらなあ、と思うと、オッサンは意外にも「私もちょっと触ってみていいですか」と言う。
私は席を立って、オッサンに譲った。驚いたことに、オッサンは静かに弾き始めたのだ。何というか、ヒーリング系で東洋的な響きを持つ曲だった。
「すごい、何ていう曲ですか?」
するとオッサンは照れながら答えた。
「実はこれ、デタラメに弾いただけなんです」
いやいや、こんな素敵な曲がデタラメの筈はない。
「つまり、即興演奏ということですか?」
オッサンは首を振る。
「私はこれまで音楽を学んだことはないんです。でも若い頃見ていた伊東家の食卓という番組で『誰でも坂本龍一になれる裏ワザ』というのが紹介されていましてね、その通りやってたらそれっぽく弾けるようになったんです」
「どうするんですか?」
「簡単ですよ、黒鍵だけ使ってデタラメに弾くんです」
「まさか、それだけで……」
「やってみますか。コツはその気になることですかね……」
私は再びピアノの前に座る。鍵盤に手をかざし、黒鍵だけを鳴らしてみる──適当に。すると、たしかにそれっぽい曲になった。
「素敵じゃないですか」
オッサンは拍手してほめてくれた。ピアノを弾いて素敵なんて言われたの、初めてだ。なんだか私は笑いが込み上げてきた。
「アッハハハ」
「どうかしたんですか?」
「アラベスク、子供の頃、ものすごく練習したんですよ。だけどデタラメに弾いた方が素敵だなんて……皮肉もいいところ。みんな、アラベスクなんか適当にこなして、もっと素敵な曲に本腰入れてました。モーツァルトとかベートーヴェンとかショパンとか……。私っていつも、どうでもいいところで頑張って、肝心な時にはエネルギー使い果たしちゃってるんですよね」
オッサンは静かに微笑みながら聞いていた。すると角の方で座っていたホームレスが、駅員に追い出されているのが見えた。オッサンがそれを見ながら言った。
「……実はあのホームレスの人、この駅を建てた鳶職人の一人だったんですよ」
「ええっ!?」
いつも何気なく利用している駅だけど、それを作った人があんなゴミのよう扱われているなんて、とてもショックだ。でもオッサンの言葉はさらに驚かせた。
「実は私もこの駅の開発に携わっていたんです。色々な企業が出資した第三セクターが作ったんですけどね、私も出向で参加していました。あの頃はそれこそ寝る時間も削って仕事をしていましたよ。みんな必死で働いていました。でも出来上がると、スタッフは用済みになってほとんどが閑職に追いやられました。私も左遷で僻地行きでしたしね。まあ、人生そんなもんです。でも私は、時々ここへやって来ては懸命に生きていたあの頃を思い出すんです」
私は駅構内のあらゆる部分を見た。これまで気づかなかったダクト類、鉄格子などが目に入る。この駅は色んなアラベスクの集まりなんだ……。
「人間は飽きっぽい。そんな人間の評価なんていつまでもあてにしていたら、いつか失望します。作り手本人が精魂込めて作ったのなら、その思い出を誇りにすれば良いんです」
オッサンはそう言って、駅構内のあちこちを愛おしそうに眺めた。「さっきあなたが弾いてくれたアラベスクっていう曲、私はとても素敵だと思いましたよ」
そう言ってオッサンは帰っていった。
私はあらためてピアノの前に座り、アラベスクを弾いた。すると、稚拙だと思っていたこの曲が、不思議と素敵に聞こえた。
♪ラシドシラ、ラシドレミ
私の奏でる旋律は、駅構内の壁という壁に、あたかも幾何学模様の反復となって溶け込み、壮大なアラベスク壁画をなしているようだった。
第7話 終わり
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