第6話 エリーゼのために

 倉田真由美先生


 おたやかな小春日和となりました。先生にはますますご清祥のことと存じます。


 私も就職してはや一年が過ぎました。先生よりご指導いただいた頃は、「宜川さんは音大に行ったらたくさん恋をしないといけませんね」と度々言っていただいたきましたが、在学中ついぞ一人の恋人もできませんでした。私は恋には不器用なようです。

 そんな私が近頃体験した、少しお恥ずかしいお話をご報告として認めたいと思います。


 以前にお話しした通り、私はお店のピアノ売り場を担当しておりますが、その業務の一環としてチケットレッスンのインストラクターも務めさせていただいております。音楽教室と違い、チケットレッスンの対象となるのは大人の方で、経験者の方もいれば、全く初めての方もおられます。その背景は様々で、趣味をひとつ持ちたいという方や、子供にキーボードをプレゼントする際にサプライズで弾きたい、恋人やご家族の記念日に演奏したいなどなど。

 加賀秀樹さんもまたそういった一人でした。

「娘の15歳の誕生日に、エリーゼのためにを弾きたいんです」

 娘さんのお誕生日は三ヶ月後とのこと。加賀さんはこれまでピアノを弾いたことはないそうです。比較的時間に余裕のある学生さんならまだしも、普段仕事で忙しいサラリーマンの方がこの曲を三ヶ月で仕上げるのは厳しいと思いました。そこでいくつか他の曲を提案してみたのですが、加賀さんは首を横に振ります。

「娘が小さかった頃、エリーゼのためにを弾いていたんです。その時『お父さん、この曲好きだよ』というと、娘は『じゃ、お父さんのために頑張る』といってくれました。その日から娘は発表会に向けて、私のために一所懸命に練習してくれました。それがいじらしくて、私も発表会で娘の演奏が聴けるのを楽しみにしていました。ところがその当日、どうしても外せない仕事が入ってしまい、結局娘の発表会に出席することはできませんでした」

「そうでしたか、それでエリーゼのためにを……」

「ええ。恥ずかしながら、先日別居中の妻から離婚を申し立てられてしまいまして……せめて娘の15歳の誕生日だけは祝わせて欲しいと弁護士を通して願い出たのですが、娘を会わせたくないと断わられてしまいました。それならば、その日の午後6時に川渡中央駅のピアノで娘のために弾くから聴きにこさせてほしいと言いました。すると彼女の弁護士は『一応お伝えしておきます』とだけいってくれました」

 一見誠実そうな加賀さんがどうして離婚を切り出されたのか気になるところですが、私は立場上それ以上深入りするわけにはまいりません。ともかく、加賀さんの娘さんの誕生日に間に合うよう、私は全力でサポートしようと心に決めました。


 ところが初めてみると、思った以上に難航しました。最初は鍵盤上のどこがドなのかミなのかも分からず、それを覚えるところからスタートでした。お家のピアノならシールを貼るという手もありますが、駅のピアノを弾くという前提でしたので、それもできません。

 また、小指と薬指がいつも一緒に動くので出だしの部分がなかなか弾けず、また手は大きいのにあまり開かないので、左手のアルペジオが弾けません。そんなこんなで、始めの数小節がなんとか弾けるようになるまでに一ヶ月もかかりました。

(娘さんの誕生日に間に合わせるのは無理かもしれない……)

 私がそう思った頃、加賀さんがこのようにおっしゃいました。

「この頃、ピアノをやってみてつくづく良かったなと思うんです。きっと宣川先生のご指導が素晴らしいのだと思います」

 その言葉に私はどれほど励まされたことでしょう。ご存知の通り私は指の力が弱く、音大ではプロになるには致命的だとまで言われました。結局それを克服出来ずに卒業を迎えてしまった私は、どこか人生に対して諦めの感情を持っていたのです。


 その頃から加賀さんは飛躍的に上達し始めました。きっと不断の努力の賜物だと思います。その姿を横から見て、私自身も励ましを受けました。指導にも熱が入り、つい失礼な言い方をしてしまったこともありました。でも加賀さんはそんなことはものともせずに邁進して行きました。


 そしていつしか私の心の中で、加賀さんは大切な存在となっていました。たどたどしく鍵盤を探る指の動きさえ愛おしく思えたのです。


 こうして娘さんのお誕生日がいよいよ来週という頃になって、加賀さんはエリーゼのためにを見事に完成させました。ゆっくりでしたが、難しい中間部もちゃんと弾きこなしました。でも、加賀さんはなんだか浮かぬ顔です。

「実は……娘が聞きに来てくれるかどうか、まだ返事がないのです」

 幾度か奥さんの弁護士に問い合わせたそうですが、「その旨はお伝えしております。来られるかどうかはご本人の意志です」と言ってそれ以上とりあってもらえなかったそうです。

 その様子ですと、娘さんが聞きに来てくれる可能性は高いとはいえません。でも私は、加賀さんの努力を無駄にしてはいけないと思いました。それで、その日私はこっそり聞きに行くことにしました。娘さんが来られなくても加賀さんが寂しい思いをしないように、これまで加賀さんが娘さんのために頑張った、その尊さを諸手を挙げて祝福したい、そう思いました。


 そして当日午後6時前。

 私は川渡中央駅に着いた私は、加賀さんに見つからないようこっそりとピアノに近づいていきました。すると加賀さんは既にピアノの前に座って待ち人の来るのを静かに待っていました。娘さんはやはり来ていないようです。時計の針が6時ちょうどを指した時、加賀さんはピアノを弾き始めました。


 ミレ♯ミレ♯ミシレドラ


 たどたどしくても丁寧に、加賀さんは1音1音心を込めて鳴らします。楽譜は見ずに完全暗譜で。私は物陰から固唾を呑んで見守っていました。後半になっても間違えることなく、順調に曲は進みます。通りがかりの人たちも足をとめてその演奏に聴き入りました。

 ところが、〝ラドミ〟のアルペジオが入る段になって、手が止まってしまいました。加賀さんの表情を見ると、明らかにパニックになっていました。

 私もどうしようかと迷いました。出て行って助けてあげたいけど、それをしたら台無しになる気がしました。


 とその時、一人の少女が突然現れてピアノに駆け寄りました。加賀さんは驚いた顔で少女を見ます。きっと加賀さんの娘さんだ。私はそう思いました。とても美しい少女で、どこか加賀さんに似ています。

 そして少女は加賀さんの隣に座ると、エリーゼのためにの続きを見事に弾きました。加賀さんは立ち上がり、少女が弾くのを愛おしそうに眺めていました。そしてその演奏が終わると、加賀さんは嬉しそうな顔で拍手をしました。少女と加賀さんは何か楽しそうに言葉を交わしています。

 するとそこに一人の婦人がやってきました。加賀さんはさっきよりもずっと驚いた顔で婦人を見ます。そして婦人は何か加賀さんに懸命に話していましたが、だんだんと加賀さんの顔が優しくなっていくのがわかりました。そして……二人は抱き合ったのです。


 ハッと我に帰った私は、加賀さんたちに見つからないように姿を消しました。私の役目は終わったこと、そして彼に必要なのは私ではないことを悟りました。すると、私の目から涙がとめどなく流れ出て、それが人に見られないように顔を伏せながら、私は出口へと歩いて行きました。


 駅舎を出ようとすると、雨が降っていました。頬を濡らしているのが雨のしぶきなのか涙なのかわからなくなりました。私は傘を持っていませんでしたが、たぶん通り雨だと思って止むまで待つことにしました。

 ところがその時、向こうから見覚えのある人が傘をさしてやってくるのが見えました。同じ会社の、矢島隼人さんという調律師でした。私に気づいた彼は何度もペコペコしながら言いました。

「あ、宣川さん、お疲れさまです」

「お疲れさまです……こんな時間までお仕事ですか?」

「ええ、ピアノの調子が悪いからすぐに来てほしいとお客様から連絡ありまして……行ってみたら蛍光灯のビリつきだったんですけど」

 矢島さんはいかにも人の良さそうな笑顔で言いました。聞くところによると腕は良いそうなのですが、口下手で大人しい性格なのでお客様からクレームを受けやすいタチのようです。もう少し要領良く振る舞えばいいのに、とかねてから思っていたのでついポロッと本音が出てしまいました。

「矢島さん……いつも大変ですね」

 言ってから失礼だったかなと思いましたが、矢島さんはニッコリ笑ってこう言うのでした。


「僕、ピアノが好きですから」


 私はその言葉と屈託のない痺れる感覚を覚えました。

「宜川さん、もしかして傘持ってないんじゃないですか? これ使って下さい」

 そう言って矢島さんは改札口の向こうへと行ってしまいました。その傘をさしてみると、把手に彼の手の温もりがまだ残っていました。それはポッカリ空いた私の心を充分に温めてくれました。私はそれを逃がさないように、ぎゅっと握りしめました。


 これが私の、語るのも恥ずかしい近況でした。お目汚しで恐縮です。末筆ながら、倉田先生もどうかお健やかにお過ごし下さい。


 かしこ


 宜川祥子

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