第10話
「意見書に書いてあることと同じ話を聞きに来るのがあんたたちの仕事か」
短く切った白い髪。襟がついた黒い半袖シャツ。タチバナさんは集合住宅のドアを開き、頭から足元まで僕をじっと見てからそう言った。そしてこちらに背を向けて室内に戻ってしまった。僕は予想外の事態に、振り返ってユナに助けを求めた。ユナは真顔でゆっくり左右に顔を振る。なに、どういうこと? もうだめってこと?
そこへタチバナさんの声が聞こえた。
「いつまで突っ立ってる。入ってドアを閉めなさい。風が入る」
そういうこと?
探るように、失礼します、と足を乗せた室内のカーペットは長年の生活で薄く踏み固められている。玄関から少し歩いたところがリビング、正面にスライド式の窓。右のドアはおそらく寝室で、左手前がキッチン。シンプルな間取りだ。
木製のしっかりした家具がどっしり配置されているからだろうか、窓から陽が射しているはずなのに全てが影の中にあるようだ。清潔ではあるが物が多い。生活用品の他にも機械のパーツが並ぶ工作スペースがあったり、片隅には電源の入っていない
暗いキッチンからコーヒーサーバーを手にして戻ったタチバナさんは、「そこに座りなさい」と背もたれのないベンチチェアに視線を投げた。ユナと一緒に腰をおろすと、木造のカフェテーブルに2つ並べてあったマグカップにコーヒーが注がれていく。お礼を言ってカップを受け取ると輪郭のある強い香りが目の奥を突いた。マグカップが置いてあったから、意外にも、用意して待っていてくれたらしい。
僕たちの正面にはリクライニングチェアがあり、タチバナさんはそこに座った。普段からそうしているんだろう、白と灰色が交差するチェックのタオルケットがアームレストにかけてある。
僕は改めて頭を下げた。
「本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
「嘘はいい。見ての通りだ、暇そうな爺さんだと思ったか」
「いえ、そんなことは」
「ドクター
反応に困ったら驚いておけばいいとユナに教わっていたので、僕は目を大きく開いた。
「あんたはアカデミーからずっと同じ研究を続けてきた。卒業プレゼンも記憶交換の手段、経営陣にも喜ばれて好待遇で手厚く育てられた」
「そんなに立派なものでもないですけど……。バイオアーツのアカデミー生は毎年何人も選ばれますし」
「ふん、しかし狭き門には違いない。ありがたいことだったな。だがこれからの人生は慎重に考え直すんだ。記憶と気持ちを分かち合う、あの謳い文句はあんたが考えたのか?」
話題の関連性がわからず、僕は内心首をかしげながら答えた。
「トランスデューサーのキャッチコピーは僕の発案ではありませんが……」
「だがそう信じている。そうだな」
回答は控えることにした。既に意見書からタチバナさんの見解は知っている。僕が自分の意見を言えば絶対に争いになる。
「バイオアーツはあんたが研究室に入る十年以上も前から人口頭脳の記憶を取り出す事業に力を入れてきた。しかし人類の脳でそれを再生しようとしたのが、あんたの凄いところだ。脳内現象のデータ分析はある程度は揃っていたが、互換性のある脳内再生記憶フォーマットは存在しなかった。そこは見事なもんだ」
「ありがとうございます」
「意味がわかっているのか? そのインパクトは凄いもんだった。あんたは世間に幻覚を売りつける詐欺の片棒を見事に担いだ」
幻覚だって。ふうん。
「人口頭脳に感情があるのかないのか、そんなロマンチックな口喧嘩をするつもりはない。
そうだ。しかし僕個人は、そんなに多くを望んでいるわけじゃない。妹が人生を選べるようにしたいだけだ。社会をひっくり返したいわけじゃない。
「
タチバナさんは僕を食い入るようにじっと見ている。
「いつから人工頭脳が人類と同じものだと信じるようになった? 子供の頃に言われたんじゃないか? あんたにそれを言ったのはバイオアーツの職員だったんじゃないか? あんたはすっかりそれを信じて成長し、今や
僕は落ち着くために少し目を閉じた。再び目を開くと、タチバナさんはまだ僕をじっと見ていた。
「バイオアーツがやっている商売は、誰がなんと言おうが結果的にはそういうことだ。何もわからない人類の手を引っ張って、お前たちが舗装した道を歩かせる。だが、今、あんたは目を覚ましなさい。あんたには自分の歪みを正す責任がある」
何も言葉が出てこない。決定的に考え方が違うから、嘘でも頷くことは出来ない。しかしユナはまだ、出来るだけ僕に任せるという約束をした通り、口を挟んでこない。
時間が流れていくので仕方なく、僕は用意していた質問をした。
「ひとつ教えてください。タチバナさんには、バイオアーツの宮城ファクトリーにお勤めだった頃から長く連れ添われた奥様がいらしたかと思います」
「ああ。20年間一緒だった。聞きたいことはかる。あれは人じゃない。電子回路だ。学習機能の付いた電子回路だった」
「しかしその定義は
「意地にならずに事実に向き合いなさい。その意識なんてものは、メーカーが設計したものだろう。電源のオンオフが出来ない
タチバナさんは人差し指で、彼の耳の後ろあたりをトンと軽く叩いた。ジュリの右耳の後ろにも銀色のリングがある。対災害法で定められた
「仕方ないことですが、そんな風に奴隷の刻印のように言わなくてもいいじゃないですか」
ユナが小さな咳払いをした。ヒアリング中には反論をしないように、だっけ。でも黙っていられなかった。
「
背中をぽんと小さな手に叩かれた。息を吸う。タチバナさんは揺るぎのない目つきをしている。僕はその目を睨み返す。するとタチバナさんは乾いた唇の端を持ち上げてニヤっと笑った。
「妻が死んですぐ、おれは頭を開いた」
ああ。違法行為だが、妙に納得した。
「何度もデータ破損に苦労したが、2年後にはバイオアーツのロックを
優しくて、可愛らしい顔つきの子犬。
「するとどうだ、その犬があいつだよ」
タチバナさんの表情を見ると、今までとは違う複雑な色をしていた。
「あいつは、自分が死んでいたこともわからず、天気や食事の話をする。だが体が人間じゃないとわかると料理や買い物が出来ないと言い出す。仕方ないから普段は電源を切ってやっている。
「あなたは……」
何もわかっていない。
気がつけば僕は立ち上がり、子犬に歩み寄ってその顔に手を触れていた。掴んでやればタチバナさんも慌てるんじゃないかと思った。ユナが慌てたように腰を浮かせたが、僕は「あっ」と拍子抜けして声を上げていた。
暖かいじゃないか! タチバナさんは、さっきまで奥さんと話をしていたんだ! その証拠に顔を見るとバツの悪そうな表情をしてる。
「タチバナさん、僕は」と彼を睨んだ。「僕は5歳から
タチバナさんが眉をピクリと持ち上げたのを見て僕は、どうだ、と少し得意になった。
「妹が人ではないという考えには共感できません」
「ふん。してやられたんだな。あんたは。意見をすっかり支配されているよ」
「タチバナさんも何だかんだ、奥さんを大切にされている。僕が今ここでこの子犬を破壊したら叫ぶでしょう」
「バックアップがあるよ」
「申し訳ありません」ユナが立ち上がってタチバナさんに頭を下げた。「今回のインタビューでは
反撃できたことに満足していたので、僕は大人しくユナの隣に戻った。タチバナさんはユナには僕よりずっと穏やかな顔を向けている。
「あんたも大変だ。こんなのに付き添わされて」
「いいえ、私が上席なんです。元気が過ぎたことをお詫びします」
ユナが冗談のように軽くため息をついて微笑むと、不思議なことに空気が少し変わった。何かがすっと吸い込まれたようだ。ユナは仕事の声で続けた。
「人工頭脳が
「そうだ。あんたは多少、物分かりがいいらしい」
「そうした人工的なものが見聞きした情報を、記憶や感情だと言って、人の脳で再生させるのは危険だというお話でした」
「技術としては、限定的に扱われるなら落としどころもある。しかし世間一般に命だ価値だと吹聴するのはやめなさい」
「反対の意見として、減少し続ける人口を補い、社会や家族の一員となっているという話もありますが」
「そう期待させている黒幕がいるからだ。制限付きなら社会で飼っても家で飼ってもいい。だが人権なんてものは過剰だ」
「そうしたご意見を何度もくださったのは、バイオアーツには社会を変える力があると評価してくださっているからですね」
タチバナさんは複雑な顔で沈黙した。調子が狂ったんじゃないかな。ざまあみろ。僕の口はへの字に曲がっている。こんな奴と、もう同じ時間を過ごしたくない。
「タチバナさんの最終的なご要望は、バイオアーツが担う
「正しいことをやれ。経営にはそう言え」
「伝えます」
「偽るな。騙すな。あんたたちはなんの権利があって人間を食いものにする? 恥を知れ。正しいことをやれ」
意見書と同じだ。どんどん繰り返しになっていく。苦行みたいな時間の果てに、タチバナさんは僕に突然こう言った。
「
「は?」
「アダムとイブだよ。あんたでも知っているだろう。人類には男女2人分の遺伝子があればいいんだ。今日を限りに目を覚ますんだ」
空の家 伊藤 終 @ende110
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