第9話

 車を取って戻り、気持ちも新たに掘っ立て小屋の前に立つ。アツシさんの自宅は木の板を縦に並べただけのシンプルな外壁に守られている。手で打った釘の姿も見える。これでも何十年も暮らせている人がいるんだから、僕という人間も自分で信じてきたよりずっとタフなのかもしれない。

 玄関横の木が家を包むように空に向かって伸びているのは、まるで家屋の一部として勝手に仕事をはじめているようだ。深い緑色の葉が5枚、扇のように開いて陽光を浴びている。それからこの土地を思い出すたびに、僕はこの5枚の葉の無言の生命力を思い出している。

 僕が「戻りました」と声をかけると、引き戸が開いてユナがちょこっと顔を出した。

「コウキ、来てくれてありがとね。行こうか」

「お、うん」

 アツシさんは早々に酒盛りへ出かけてしまったらしい。戸締りを終えたユナと一緒に歩いて車へ向かいつつ、僕は横目で改めてユナの姿を観察した。少し透けた美しいブラウスを着ているせいか、普段のユナとも、さっきまでの現地人のユナとも、更にまた違った雰囲気だ。落ち着いているが少し裾が広がったスカート。化粧をして髪も整えていて、柔らかくて美しい装い。

 そりゃそうだよな、きちんとした場所へ行くんだ。僕は車にジャケットがあるはずだと慌てて記憶を探した。

 トライアーの重い扉が開くと、ユナは飛び込むように嬉しそうに乗り込んできた。首を回して車内をぐるりと見渡し、「やっぱり広いね」と明るい声を出す。

「私、リフト初体験なんだ」

「リフトタイプのバスには乗るだろ?」

「ううん、電子路をぐるぐる上がっていくやつしか乗ったことがなくて。リフトは本当に初めてなんだ」

「お父さんは高所恐怖症だって言ってたけど、大丈夫?」

「高いところは苦手じゃないよ。それに私、似てないからね。あの人とは」

「あー……。そうかな……」

「では船長、宜しくお願いします!」

 かえって僕のほうが不安になってしまったが、車が上昇するとユナは「うわあ」と楽しそうな声を上げ、丸い瞳をもっと丸く開いて外の景色をずっと眺めていた。故郷の家々の屋根を見下ろす時には、きっと僕と同じように新しくて懐かしいノスタルジックな気分を味わったはずだ。

 

 三条山タワーは、ワイングラスのような支柱の上に伏せたサラダボウルのような半円型のドームが乗った形をしている。ドームの周囲にはぐるりと丸く羽のような駐車場がついていて、遠くから見ると帽子のつばにも見える。

 オートパイロットで空きスペースに停車が完了すると、ユナは満足そうに血色の良い頬で僕を見上げて笑った。

「あ〜、楽しかった!」

「何ともなかったね」

「当然だよ! 宇宙に行く時だって平常心で楽しめるんだから」

「行ったことないだろ?」

「将来いつか行く時の話だよ」

 駐車場から歩いて施設内部に入ると、底抜けに陽気な音楽に体が包まれた。ショッピングフロアには趣向を凝らした装飾が並び、人の声が空間中にひしめき合っている。

 最初に案内図を見ると、洋服、雑貨、食品、家具、あらゆる売り場の表記があった。ファストフード店、カジュアルレストラン、高級レストラン、美術館、シアター、エステ、スポーツ施設、中央には森林を再現した散策用の庭、屋上も緑化されている。

「すごい規模だな」僕は三条山タワーを甘く見ていた。「なんでもある」

「真ん中から上まで、この部分は全部ホテルなの。友達の結婚式で行ったんだけど、中央エレベーターを上がったところにドームがあって、2人と一緒にその中を歩ける本当にロマンチックな式だったよ」

「ふうん。六本木の空中歩道もキラキラで綺麗だけど、あっちには木が無いもんな」

「植物は人間にとって本当に特別だよね。伝統的な親友だから」

 僕はうんうんと頷いた。よく言われていることだが本当にそうだ。あ、そういえば。

「ユナのお母さんは植物学者だったっけ」

「そうそう! 地殻変動前後の植生変化を研究していて、山口に来たの」

「ユナがバイオコースにしたのもお母さんの影響?」

「そういうつもりは無いけど……。生き物に囲まれて育ったから、マシンよりは興味があったかな。でもそれを言うならコウキのお母さんはコウキと一緒でバイオアーツの人工頭脳技師でしょ?」

「そうだけど。僕は家にジュリがいたから、どっちかというとその影響かな」

「あっ、見てあの飾り」

「おおー、すごいなあ。空中が光ってる」

「行ってみよ」

 職場での付き合いの気楽さもあって、僕たちは互いの興味に沿って気ままに行きたい場所を散策した。僕は地元の食材が並ぶ店でほとんどの時間を使い、ユナは服やアクセサリーを見てまわり、お互いに感想を言い合って楽しんだ。僕は一人で行動するのが好きだけど、離れたりまた会ったりしながら気楽に過ごせるのは悪くないアイデアだ。

 昼は屋上に出て、植物が吐き出す酸素を味わいながらベンチでサンドイッチを食べた。ここには地殻変動期以前の、昔の山口に生えていた木が植樹されているんだという。

 日没が近くなると、ユナのプランに従って買い物を終わらせ、僕たちは展望ラウンジへと移動した。ラウンジの入口近くには、防波領の歴史を紹介する動画が流れている一角があった。防波領が何層もの土で埋め立てられていく様子、人と自然との攻防の歴史。そういったもの何度も繰り返し再生されている。わかりやすい映像と文章の前を、現代を生きる多くの人たちが軽やかに笑いながら通り過ぎる。

 展望ラウンジ内は淡い落ち着いた照明で、景色がよく見えるように工夫されていた。おかげで人が増えてあたりが混雑してきても、混雑に従ってユナの体が次第に僕に近づいてきても、ゆったりとした落ち着いた気持ちでいられた。

 ここで日没を見るのはお決まりのコースらしい。ラウンジにもどんどん人が入ってくる。ユナはそれを気にすることもなく、見渡せる水平線や黒く広がる防波領を指さして地理の解説をしてくれる。その声に耳を傾けているうちに、太陽はじっくりと赤く焼けていった。

 僕は夕焼けを、ユナと一緒に、そして全く知らない大勢の人たちと一緒に眺めた。車にいる時はいつも静かに見ている日没。それがこの日は見知らぬ家族やたちがワイワイガヤガヤ喋っているのをBGMに眺める。

「あっちが萩かな」

「今日は防波領が見えにくいよね」

「コウキ、見えないけど多分あの辺がうちだよ」

「ねえー、お父さーん」

「人形落ちてるじゃない。しっかり持ちなさい」

 左隣では、女性が連れの男性にしなだれかかって甘えた声を出している。

「ねぇ……。後でもう一度、さっきのお店に行こうよお、おねがい」

 右隣のユナはキリッとしていて、何があってもそんなことは言いそうにない。

 こんな群衆の中に立つのは何年ぶりだろう。

 

 いよいよ夕飯という時間になり、ユナが予約をしてくれた噂のレストランに入った。高級感のある内装に、昼間のアツシさんに聞いた話を重ね合わせる。

 ユナが山口の夏野菜を楽しめるフルコースというのを僕に見せて「食べたいでしょ」と誘惑してきたので頷いた。

「でもユナ、このメニューは事前予約限定って書いてある」

 ユナはふふっと笑った。「実は予約してあります」

「さすが……!」

「あとはメインと飲み物を選ぶだけだよ」

 外は一面、紺色の星空。オーダーを済ませたところで、僕は姿勢を正した。

「ユナ、今日は家に招待してくれてありがとう」

「こちらこそ来てくれてありがとう」

「お父さんにも本当によくしてもらったし、ユナにも今日はずっとお世話になったし、すごく良いレストランだ。お礼にここは僕が払うよ」

「そう? じゃあ遠慮なくご馳走になります。明日のインタビュー、一緒に頑張ろうね」

 食事は前菜からデザートまで文句なしだった。とにかく食材が良い。調理も上品に素材を扱っていて、繊細な味わいの合奏が絶妙の一言だった。ユナは僕と同じような感想を、僕には思いつかない擬音語や擬態語で説明してくれた。カクテルを何杯か飲んだユナの赤い顔は酔ったアツシさんによく似ている。

「こういう食事は久しぶりだから」と言い訳をしていた。

 僕は首をかしげた。

「せっかく東京に住んでるのに。外食しないの?」

「今は仕事ばっかりだからね。断ってたら誘われることも少なくなっちゃった」

「ユナは仕事人間だからな」

「研究室にいた頃のコウキほどじゃないよ! 週に何日家に帰れてた?」

「覚えてない」

「コウキは夢中になるとそればっかりっていうタイプだよね」

「横浜研究所の職員はみんなそんなタイプだろ。僕も自分が特殊だなんて思わなかったよ」

 あの日までは。

 ユナも思い出したのか、言葉を切った。

 皿に残った魚の切れ端にソースをつけて口に運び、よく味わう。本当に何を口に運んでも、様々な味のバランスが絶妙で驚く。

 少しの間のあとに、ユナは顔を上げて僕を見た。

「ジュリちゃんとは、時々外食に行ったりしてる?」

「あんまり行かないな。ジュリには夜勤があるし、休みの日は部屋で手芸とか工作みたいなことしてる。誘って外に出したほうがいいのかな。そんなんだから出会いが無いんだよな」

「でも落ち着いてるなら安心だね」

「うん。好きなことして元気に暮らせてるなら、それだけで今は感謝だよ」

「通院は続いてる?」

「本人は熱心じゃないけど。僕が声かけて連れ出してなんとか。また同じことがあったらと思うとこっちも必死だし、ジュリもそれはわかってるみたい。前は好きな人が出来たら一緒に暮らすといいよって言ってたんだけど、出会いもなさそうだから今は言わないようにしてる」

「ジュリちゃん本人も、パートナーと暮らすことに憧れはないのかな?」

「昔は頼りになる人に大事にされたいって言ってたけど……」

「今はいろいろと違う気持ちになってそうだね。時間が必要だろうし、コウキも焦らないで」

「ありがとう」

 メインが終わりデザートを待つ最高の時間が訪れる。銀色の食器を見ていると、ジュリの右耳の裏にある銀色のリングが思い出された。ユナはじっと僕の顔を見て「疲れた?」と聞いてきた。

「どうだろう。そうかもしれないけど、山口に来て本当に良かったよ。機会をくれたハルにもユナにも感謝してる。でもやっぱり緊張はしてる気がするな。明日は戦いだから」

「知らない人と話すんだから、緊張するのが普通だよ」

「タチバナさんって、昔ながらの人間 オーガニックしか認めてないわけだろ。ジュリは完全に否定されてる。僕には何も理解出来ないだろうな」

「コウキ、争う必要は無いんだよ。明日はタチバナさんがどんな風に過去と現在を認識しているのか、その情報を貰いに行くだけ。理解出来ないことを言っているのを聞くだけだからね」

「絶対、共感出来ない」

「会話を媒体に、相手の心理情報にアクセスするだけ。それをどうにかしようとするのは違うからね。変更しなくていいの。コウキならきっと上手く出来るよ」

「そうだといいけど」

 ユナの力強い瞳は、キラキラ光るものが混ざった水色のシャーベットが運ばれてくると「見て、美味しそう!」と輝いた。

 小さなスプーンでシャーベットをすくって口にいれると、星の形をした粒状のものが口の中でパチパチと弾ける。人参の甘みが弾けるキャンディが入っているらしい。

「タチバナさんにはタチバナさんのストーリーがある、身勝手なストーリーでも何かあるんだよ」

 ユナは微笑んでいた。

「タチバナさんの内側からそれを追体験して観察するのがインタビューだよ」

 なるほど、と言っていた僕は、言いながらも口の中のスパークに意識をさらわれていた。

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