第8話

 翌日は当然、二日酔いだ。

 不思議なことに僕はいつの間にか車に戻り、きちんとシャワーを浴びてきちんとベッドで仰向けになって眠っていた。車内は目覚ましタイマーですっかり明るくなっていて、何故か流行のポップスヒットチャートが大音量で流れていた。いつもの癖で僕は上空で寝ているつもりだったので、コンコン、コンコンと響くノックの音に仰天して目を覚ます。

「えっ」僕は飛び上がった。「えっ?」

 見るとパンツしかはいてない。服をどこで脱いだのか記憶がない。仕方なく新しい服を出す。着替える。音楽を消す。そして急いでドアの上の小窓から外を見た。

「えっ」窓の外にはユナが立っていて、首を傾げていた。「えっ?」

 時間を見ると午前11時。確かに待ち合わせの時間だ。ユナがここにいるなら多分そう。なんだっけ? どこだっけ。僕は車のサイドドアを開けた。

「あー…」

 腫れぼったい目を無理やり開き、頑張ってユナの顔を見る。

「コウキ! おはよう!」

「おはよう……」

 ユナは布を切って首に巻いただけの、びっくりするほどシンプルな黄色いワンピース姿。足元は当然のように裸足だ。髪はくしゃくしゃっと潮風に揺られ、顔は満面の笑み。

「えーっと……」僕はしばらく思考の中で迷子になった。「ごめん、顔洗ってくる。ちょっと待っててくれる……」

 身支度をするうちに、やっと頭が冴えてきた。

 僕は昨日、山口の海と雨を全身に浴びた。酒と海産物と知らない誰かの思い出話も一気に摂取した。もう山口通やまぐちつうと言っていい。自信が湧いてきた。いける。僕は持ってきた中で二番目に短いクロップドパンツの裾を更に入念に折り返し、黒く湿った浜辺に飛び降りた。そこへユナが近寄ってくる。

「コウキ、こっちで会えるなんて不思議な感じ。昨日は西浜で何か食べた?」

「色々。ハマグリ、日本酒、海鮮カレー、タイ、イカ、卵が入った魚」

「どうだった?」

「全部めちゃくちゃ美味しかったよ。味が濃いっていうのかな、深いっていうのか、さすが天然。さすが採れたて」

「よかった~!」嬉しそうに両手を胸の前で合わせたユナを見て僕も嬉しかった。「グルメなコウキなら何でも食べて楽しんでくれると思ってたんだよね! 想像以上に褒めてもらえて嬉しいな、苦手だったらどうかなって心配してたんだ」

「はは、別にグルメじゃないけど」

「いつも美味しいものに目が無いでしょ!」

 職場とは少し違う笑顔を見せるユナの睫毛まつげの先を、僕は上から盗み見るようにそっと眺めた。血色が良くて、明るく可愛らしい少女みたいだ。そんな印象を受けたのが自分でも意外だった。

 空と海は目に眩しくて、強い光がチクチクと目の奥を刺す。文字通りに真っ青な空がどこまでも広がっていて、白い雲が絵具のようにくっきり立ち上がり、見ている間にどんどん高く膨らんでいく。

 防波領は山口の南岸に東西に5キロ。

 一部は、地殻変動期に海底に水没した沿岸都市の上に形成されている。

 

 お父さんの家に案内してくれるというユナの小さな背中を追い、僕は前日と同じように湿った黒い浜を裸足で歩いてついて行った。紅茶のような明るい色をしたユナの髪は、太陽の下では普段よりもっと透き通って見える。柔らかいウェーブがぽんぽんと、リズミカルに潮風に躍っていて楽しそうだ。

 三軒並びの小屋には見覚えのある木のテーブルとイス。今は人の気配が無い。ユナが構わずどんどん先へ進んで行くので、僕は慌てて小走りになって離れた距離を取り戻した。

 そこから数分したところで、前方にぽつんと建つ掘っ立て小屋が見えてきた。僕はまさかあれじゃないよねと言おうとしてやめた。それだった。

 良く言えばシンプル。悪く言えば安物のコンテナ、長方形つぎはぎスクラップ。玄関横に生えた木が屋根の上まで枝を伸ばしていて、まるで森に食われかけているようだ。ユナがその家を「あそこだよ」と指差したので、僕は紳士的な返答を探して頭をフル回転させた。

 良い答えが出るよりも早く、横にスライドさせる玄関ドアがガタガタッと音をたて、中から白髪混じりの癖毛の男性が姿を見せた。

「あっ」僕は声をあげていた。「あの人? ユナのお父さん?」

「うん」

「昨日、さっきの店で一緒に飲んだんだ」

「聞いてるよ」

「そうなの?」

「都会からおしゃれな人が来たって大騒ぎだったんでしょ」

「いや全くそんな扱いじゃなかったけど」

 強い風に吹かれながら砂地の上に立つアツシさんの元へ、ユナはまだらに茂る緑色の下草の上を軽く飛ぶようにして近づく。ユナが僕を「コウキだよ」と簡単に紹介したので、僕も「コウキです」と簡単に言った。

「昨日はありがとうございました」

 頭を下げた僕に、アツシさんは「うん……」と小さく答える。昨日の陽気が感じられない。僕は急に不安になった。

「あの、実は最後の記憶が無いんですけど。何かご迷惑をおかけしました……?」

 お父さんは眉を寄せ、しばらく沈黙したあと僕に背を向けた。

「まあ上がって」

 

 入口の引き戸から中に入ると、すぐ左手に小さく区切られた部屋があり、個室はそれだけのようだった。右手は玄関から続く土間そのままのキッチン。キッチンと言っても水道と棚とコンロが集めてある一角があるっていうだけ。博物館で見た骨董品のようなプロペラ型の換気扇が壁にくっついていて、辛抱強くゆっくりと回転していた。

 正面には土間より一段高い畳の居間があり、どうやら居住空間はこれで全部だ。シャワーは家の裏にあるという。南国らしい奔放な作りだけど、じゃあユナは森の中でシャワーを浴びて育ったの? 虫が来るんじゃないのか?

 言われるままに素足をタオルで拭いて畳に上がり、小さな丸い座卓の横に胡座をかいて座ると、アツシさんが無言ですっと僕の目の前に水の入った湯呑みを差し出してくれた。

「コウキくん、いらっしゃい。ユナがいつもお世話になってます」

「こちらこそ、お世話になっています。僕は後輩なので、色々と指導をしてもらっています」

 言い終わらないうちに、お父さんはすっと塩昆布が入った透明なケースを差し出してきた。

「まあ食べて」

「いただきます」

 指で塩昆布をつまみ、口に入れてみる。ユナはキッチンに立っていて、しばらくこちらに来る気がないらしい。僕はもぐもぐと昆布を食べてから改めてお父さんに話しかけた。

「昨日僕、何か物を壊したりしてたりしていませんでしたか?」

「大丈夫だよ」

「お金払ってましたか?」

「払ってたし、みんなに奢るって言ってきかなかったよ。止めたけど」

「そうですか」僕はやっと安心した。「それなら良かった。昨日は本当にすごく楽しかったです。ありがとうございました」

 お父さんは眉を寄せた顔のまま、小さい声で言った。

「礼儀正しいなぁ」

 元気が無いのが気になったが、僕も頭痛がひどい。水を飲み、しばらく黙って頭痛に耐える。キッチンからはユナの穏やかな鼻唄が聞こえる。

 沈黙を破ったのはアツシさんだった。

「観光するなら一緒に神社に行って、熱帯雨林のフルーツを食べようってユナにも言ったんだ」

「神社ですか。近いんですか?」

「数キロ先かな。でもユナはそれより三条山タワーがいいって言うんだ。フルーツならタワーのレストランでも食べられるって」

 そこへユナが大きな皿を持ってやってきた。

「どうぞっ」

 ユナは僕とアツシさんの間に膝を立てて上がり、円卓上に湯気の立つ大皿を置いた。何だろうと覗き込むと、昆布をパリパリに揚げたような不思議な食べ物が乗っている。箸を受け取って口に入れると、ほくほくと熱く、塩味と旨味の染み渡る優しい味がした。一言で言うならつまり塩昆布の味だ。

 ユナは僕の隣に落ち着き、昆布を巻いた一口大のお握りを僕に渡しながら言った。

「三条山タワーは山口で一番高い上空タワーなんだ。海の下にある山の上に建ってて、色んなお店やレストランがあって、防波領が上から見える展望台があるの。上から見るとここがどんな土地かよくわかるよ」

 へえそうなんだ、いいね、という言葉は米が口に入っていたので発音できずに終わる。

「コウキは上空車で高いところから来たんだから、上空タワーなんてつまらないかもしれないけど」

「そんなことないよ」僕は慌てて昆布を飲み込んだ。「そういう場所から見るのは、車とはまた違うんだ。それにユナが紹介してくれるなら行ってみたい」

「そう? 地元の野菜のレストランもあるし私も行きたいからオススメ!」

 微笑んだユナを見て、アツシさんは小さな声を出した。

「コウキくん……。ユナをよろしくな」

「お父さんも一緒に行かないんですか?」

 アツシさんは急に首をブンブンと横に激しく振った。

「だめだめ! だめなんだ」

「へっ?」予想外の反応だ。「だめ?」

「お父さんはその……。行けないんだ。そう、高いところが苦手なんだ。そういうわけなんだ」

「お土産買ってくるからね」ユナが低く言った。「残念だけど、ごめんね!」

 お父さんはもぞもぞと肩を動かしている。

「コウキくん、ユナが言ってる三条山タワーのレストランは確かにこの辺じゃ評判が良いとこでさ。近所に住んでるユナの同級生の夫婦も、家族の誰かの誕生日になると必ずそこへ行くんだ。普段は気楽な格好してるのに、その日は子供たちにも少しパリッとした服を着て」

「地元でも愛されてるんですね」

「防波領を活かした野菜作りなんてのをこの辺の若い人たちが一生懸命やっていてさ、まあそうやって新しい家族がまたここで元気に暮らし始めているというか……。海苔プラントも最近はぐんぐん収益が上がってしょっちゅう求人を出してるんだ。ここいらの子は海苔関係の仕事に就くんだ。給料が良いんだ」

「お父さん、海苔プラントの話ばっかり」ユナは短くふぅと息を吐き出した。「高校を出る時に私にもすごく勧めてきたの。頑張れば数年後には一流海苔プラントの課長になれるかもしれないぞって」

 僕は想像した。結婚して子供が産まれ、山口の高地の交通の便の良い場所に家を持つ。夫婦揃って車で毎日海苔のプラントに仕事へ行って、家では小さな我が子を胡座の上に座らせ、自慢の海苔を食べさせる。そんな人生が僕にも有り得たのかな。

「就職しようかなと思った?」

 尋ねるとユナは首を横に振った。

「私は進学しか頭になかったから。その時も東京の叔母さんの家に住んでたしね。バイオテクノロジーに興味がない私なんて想像できないでしょ?」

 職場で見るユナとは少し違ったが、やっぱりユナはユナだった。一直線で情熱的、やるならとことんやるのがユナなんだなあ。

 でも海苔じゃなくて昆布のプラントならユナも少しは考えたかもしれない。この家で出されたものって、結局全部、昆布だったもんな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る