山口

第7話

 海岸の駐車スペースが近くなり、車は海面すれすれの高度に下がり、速度も人が走る程度に遅くなる。熱帯雨林の分厚い傘の下に、海に向って並ぶ三軒横並びの小屋が見える。全てが完全に森に覆われて海からしか見えない隠れ里だ。災害後も表向きには居住禁止だったことと関係があるのかな。

 小屋を少し過ぎたところで、車は浜の上に停まった。するとすぐに小屋のほうから、上半身が裸でハーフパンツ姿という海を代表するような中年男性が近寄ってきた。

 彼と話をするため、ついに僕は車のサイドドアを開いた。

 いざ、地表の外気!

 一気に流れ込んだ風にTシャツがぶわっと膨らむ。体が勝手にぶるぶるっと震える。風は生々しく湿っていて、濃厚な塩の匂いがする。苔のような、アクのある、何とも言えない匂い。海の匂い。

 僕は近寄ってくる男性に声をかけた。

「あのー、すみません! この近くに駐車場があると思ったんですけど」

「そこでいいよ! 適当だから」彼は白髪混じりの癖毛を潮風に遊ばせながら、細く締まった体で手を振りながら答えた。「はー、でかい車だな! こんなの初めて見たよ。観光?」

「そうです!」

「そうか!」

 彼がニカッと笑うと、右の前歯が一本抜けているのが見えた。僕もとりあえず同じように笑ってみる。

「案内するよ! 降りて降りて」彼は忙しそうに何度も手招きをした。「裸足になって降りといで! 靴下も靴もいらないから。車に置いていっていいから」

 言われたとおりに靴下を脱いで車内に残し、僕は裸足をゆっくりと浜に降ろした。砂はしっとり、ひんやりとしていて、場所によってはズブリと沈む。僕はすぐに車に戻り、持ってきた服の中で一番短いハーフパンツに着替えた。見慣れた自分の足がここでは異常な白さに見える。

 男性の後を追いかけて、僕は柔らかすぎる浜辺を歩き、先程見た三軒の前に辿り着いた。どうやら小屋は全て飲食店らしい。日焼けをした強そうな人たちが十数人、木のテーブルやイスを使って食事をしている。

「昼がまだなら、せっかくだからここで何か食べていったらいいよ。どうする? 焼きそば、オムライス、海鮮カレー」

「へえ、海鮮カレー」

 口にするとすぐに注文されてしまった。

「おーい、海鮮カレー! すぐ持ってきて!」

 迷う暇もない。周囲の人が「観光?」と声をかけてきて、色々な人に手招きをされて、自分の意志とは関係なく木のテーブルの前に座らされていた。丸太で作られた無骨なイスは、座面が優しい形に削ってあって案外座り心地が良い。

 案内の男性は僕の右隣に座り、さっきまで自分で食べていたらしい貝をひとつ、手に取って僕に差し出した。

「ほら、まずこれだ。ハマグリ。食べてみて」

 醤油を少しかけてあり、香ばしい匂いがする。貝殻ごと僕は両手でハマグリを受け取って、それから少し戸惑った。

「これ……。どうやって食べるんですか?」

「そのままだよ。口でいくんだ」

「このまま?」

 確かにまわりを見ると、貝殻にそのまま口をつけて食べている人がいる。僕も同じようにやってしまって大丈夫なんだろうか。

「そうだ! 酒も飲むだろ?」

 ハマグリをどうするか悩んでいるうちに、お猪口ちょこが出てきて目の前で酒を注がれる。

「これが世界一の日本酒だ。がっと飲んで、がーっと!」

「あの、でも……。大丈夫なんですかね、僕がこれ……頂いても」

「遠慮しなくていいよ!」

「いや、その」

 遠慮というわけではないんだけど。

 気が付けば周囲には何人もの人たちが集まり、期待した目で僕を見つめている。覚悟を決めるしかないらしい。

「じゃあ……。いただきます」

 貝にゆっくり口をつけると、周囲でわっと声が上がった。強い塩味が口と鼻に拡がって、さすがに少しひるむ。とはいえもう、ここまで来たら戻るわけにもいかない。あとは一気にかぶりつき、口の中にジュワッと汁気があふれる衝撃を受け止めた。

 噛んでいると目が覚めていく。食堂を通して胃に落とすと、もっと食べたいと感じている自分がいた。味が強い。旨味がすごく強い。

「うわ。うまい」

 周囲の大人たちは赤ん坊が初めて歩くところを見たかのように、ワッと嬉しそうに手を叩いて笑った。明るいうちからとっくに始まっていた陽気な酒盛りは、そんな風に僕を交えてもう一度始まった。

 

 こういう所の常だろうか、酒を飲む人たちには無限に話題があるらしい。山口といえば鍾乳洞、焼き物、歴史、巨大海鮮プラント、防波領。彼らには関東に家族がいたり、友人がいたり、知り合いの知り合いがいたりする。話をまとめるとここにいる全員が何かしら僕と接点があるということになった。

 最初に案内をしてくれた男性はアツシさんといって、長年地元で観光ガイドをしているんだと教えてくれた。言ったそばから自分でも「こんなところに観光客なんか来ないけどね」と笑っていた。収入は大丈夫なんだろうか。

「きれいな場所なのに勿体ないですね」と、僕は心の底からそう言った。「僕も友達に教えてもらわなければ知らない場所でしたけど」

 彼はパッと僕の目を見た。

「友達?」

「はい。こちらの出身で、今は沼がまだらに光って見える季節だって聞きました」

「そいつはつうだな」彼は赤ら顔で、はっはっと笑う。ずっと陽気だ。ここの人達はとにかく陽気だ。「コウキくん、明日もいるならガイドするよ。熱帯雨林のフルーツ、食べてみたいだろ」

「あ、お誘いはとても嬉しいんですけど、すみません。明日はその友達と会うんです」

「なんだその友達も今こっちか」

 アツシさんはお猪口ちょこをぐいっと上げて空にした。「ふうん」と言って、更に手酌で注いだ日本酒をぐいっと飲み干す。

「入り江っていう場所のことも聞いたんですけど、この近くですよね?」

 尋ねた僕に、アツシさんは答えもせず突然顔を寄せてきた。

「女か」

「え?」

「その友達って女だろ!」

 僕は固まった。まあ、そうなんだけど。

「えーと、僕の感覚だと、友達には女性も含まれるんです……」

 周囲の客がすかさず、「そうだ」、「女も友達だ」と同意してくれる。

 アツシさんは細くした目で僕をじっと見て更に距離を詰めてくる。

「女を追いかけてきたんだな」

「いや友達って言いましたけど、同僚なんですよ」僕は口を曲げながら返した。「会うのは仕事です」

「ふうん?」アツシさんはやっと顔を離してくれた。「面白くないな」

「申し訳ないですね、まともで」

 周囲の客は「嘘でもいいから派手な話も聞きたかったけどな!」、「仕事がんばれ!」と励ましてくれた。

 酒盛りの参加者は徐々に増え、それに合わせて僕の意識はどんどん曖昧になった。

「ほらこれも食べてみろ。ここが卵だ。うまいぞ」

「防波領には子宝の神様がいてな」

「おーい、おかわり」

「さっきの箸どこやった?」

 記憶もあやしい。ただただ僕は、彼らのように陽気になって機嫌よく飲んだ。

 

 どれくらい過ぎた頃だろう、突然足がピシャッと冷たくなって僕は丸太のイスから飛び上がった。いつのまにか海が近く迫り、足が波に洗われている。驚いて逃げ出そうとして転がった僕を見て、大人たちがゲラゲラ笑いながら「派手にいったな!」、「満潮だよ」と手を叩く。それだけじゃない、その後そこへスコールも降った。尋常じゃないほど巨大な雨粒が数秒で降り始めてバシバシと僕の頭や肩を打つ。僕は小屋に逃げ込もうとして、もう一度ふらふらと転がって歩くことを諦めて四つん這いになった。

 海面に雨水がビシャビシャと叩きつけて白い水飛沫が上がる様子を眼前に見ながら、僕は天地が混ざる異様な光景に寒気を覚えていた。

「もうだめだ」

 仰向けに転がった僕の手足を、誰かが引っ張って運ぶ。誰かがタオルで僕の頭を拭く。誰かが僕に水を飲ませ、二杯目は酒。気を取り直した僕は、改めて小屋から自然の奇跡の中に自ら歩み出て、ビシャビシャになりながら「山口最高」みたいなことを言って騒ぎ、それが自分でおかしくておかしくて笑った。

 僕が出会った山口は、夢でも現実でもない。何もかもが曖昧な怪しい場所だった。

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