第6話

 ノート上にペンを転がし、僕は血流が悪くなった首を交互に左右に傾けた。少し休憩しよう。耳にかけた端末 イヤーフックを外し、ケーブルで首からぶらさげたまま立ち上がる。コーヒーサーバーに手を伸ばし、マグカップに中身を注ぐ。

 透過した車の壁から雲海を見下ろすと、沈んでいく太陽がちょうど雲の湖面にさしかかるところだった。青くて黄色くて、白い空。今日という日の最後の光が遠くへ染みていく。上空にはぐるりと宇宙が透ける。毎日空はこの調子。僕はじたばたとしている。

 時間の経過について考えずにはいられない。手を伸ばしても届かない光景がある。人生のどこかの時点に戻るなら、君ならいつを選ぶ? もちろん何を言ったって、実際にはどこかに留まり続けることなんて出来ないんだけど。

 

 ***

 

「じゃあジュリ、向こうに着いたら連絡するから」

 玄関で僕が靴をはきながらそう言うと、「お兄ちゃん、私は大丈夫だから気にしないで」と返された。

「まあでも連絡するから」

「好きな人と仲良くなれるチャンスなんじゃないの? 妹に連絡してる場合じゃないよ」

「仕事で行くだけだって! それに出先から家族に連絡するなんて当然だろ」と、言った自分を少し笑う。それもせずに失踪みたいな旅をしてたのが僕だ。

 ジュリは黒い目を少し細く伏せるようにして、「お兄ちゃん」と言った。「話聞いててお兄ちゃんがユナさんのこと好きになってるのはわかってる。ここで頑張ればうまくいきそうなら、頑張ったらいいと思う」

「あのねえ。山口に着いたら連絡する。わかったね」

 僕はジュリの頭に手を置いて、子供の頃から母がいつも僕たちにそうしていたように、額に軽いキスをした。

「この話は終わり」断言するとジュリは黙った。「また連絡した時に話そう」

「わかった。気をつけて」

 玄関を出て庭に停めたトライアーに乗り込み、行き先を指定する。車はゆっくりと浮き上がっていく。交通可能高度にたどり着くまで小さくなっていく自宅を見下ろす。ジュリが立っている。細い肩だ。こんな風に自宅を離れる時、僕は不思議と胸がつまるようになっていた。こういうのってなんて言うんだろう? これっきりという訳じゃないのに。

 交通可能高度に入ると、僕はクリーム色のソファに座って正面の空を眺めた。都市間を繋ぐ電子路が何本も空を這い、粒のような車両があちらへこちらへと渡り歩いていく。自宅を離れるのは心配だけど、整然としていて美しくて、やっぱりこの光景は好きだな。

 変化を急がなくてもいい。今はまだこのままでいたい。そんな気持ちが僕にだってあった。

 

 一足先に休暇をとって山口に向かったユナとは、彼女の出発前日に横浜研究所で話し合った。僕にあまりにも地表の知識が無いことに気づいて、ユナは困ったような顔をしていた。

「言うなれば……。災害後の混乱の中で出来た、既成事実の集落かな」

 ユナは地元をそんなふうに言った。

「防波領は今でも人が住んじゃいけない地区だけど、被災した人たちが勝手に家を建てて、それなりに町になってるの。土地の権利なんて誰にもわからないまま、私もそこで育ったからそんなもんなのかなと思ってたんだ。でもさすがに今から家を建て替えたりしようとすると、強制的に立ち退きになるんだって。引越し補助のお金が貰えるから損するわけじゃないんだけど、父は自分で建てた家が大好きで、死ぬまで絶対諦めないで改築もしないで暮らすつもりみたい」

「すごいなぁ。僕なんか自宅を売って車に住もうとしてたのにさ」

 ユナの横顔は、研究所の向かいの棟の2階あたりを見ていた。僕もなんとなくそちらに目を向けた。丸くて大きなその瞳には故郷の美しい熱帯雨林が見えていたんだろう。僕の眠たい両目には、横浜研究所の廊下を顔見知りの職員が歩いていく様子が見えた。

 

 広島上空あたりでトライアーは一般道の高度まで降下し、雲の下へと戻った。西から東へどっしりと横たわる、大きな大地をいざ実際に眺めると本当に広大だ。それなのに一定以上の高度がなければ住居を建てられない。

 地表に今もいくらか滞留している有害物質ダンティアキシトリンは、孫の代まで体内に残留して危険だと言われている。本当かどうかは知らないけど、そういうことになっている。地表生まれのユナはもちろん何も気にせず実家に滞在しているが、僕については短期の滞在で良いと言われた。

 高層都市で育った人は、地表に行くとしても一度に3日以内、年に8日以内というルールを守っている人が多い。この基準の出処はよく知らない。科学的なのかもしれないし、迷信なのかもしれない。よくわからないが僕にも、やっぱり地表はまだ怖いというイメージがある。僕は長く家を離れたくないからと言って、さりげなくこのルールを守った。

 車が目的地に近づくと、防波領の上空を滑るように低く走行しはじめた。確かに海岸は白い砂浜ではなく、黒い泥のような湿った砂で埋め尽くされている。かつて地表走行車が山を登るために使っていたらしいアスファルトの道がぷつりと途切れ、沼と海に飲み込まれているのが見えた。この道の先にはきっと、かつての山口の町が埋まっているんだろう。

 ぞっとしたのをごまかすように、僕は早速ジュリに連絡を入れることにした。ジュリは勤め先の菜の花の家で食後の小休憩をしている時間だった。

「ジュリ、カメラの景色が見える?」

 フロントガラスから眺められる景色を送ると、「海だね! 森も見える」と明るい声が聞こえた。

 ジュリの声と一緒に、隣の部屋で遊んでいる子供たちの声も聞こえる。小さな物音、大きな叫び、何かの騒音、ちょっとやめてよ、と誰かが誰かに言う声。

「ここが山口防波領」

「どこが?」

「何も無いじゃん」

 ジュリの元にやってきた子供たちの声。

「海すごい!」、「なにこれ?」と続く。休憩時間とはいえ、やはり長時間は手が離せないようだ。僕はジュリに声をかけた。

「忙しいのにごめん。見せたかったんだ」

「ありがとう。お兄ちゃんが帰ってきたら続きを聞くよ。今日はユナさんには会わないの?」

「明日会うよ」

「ふーん。明日がデート」

「いちいち大袈裟だな」

「私はもう仕事に戻るよ。楽しんできてね」

 話した時間はそう長くはなかった。

 

 ひとつ目の山口防波領の南端、火の山は見てすぐにわかった。上空の駐車スペースには他にも観光目的らしい先客がたくさんいる。

 山肌に人工的な赤い色が見えたので壁の景色を拡大してみると、鉄の小屋の欠片みたいなものが落ちていた。傾いたまま半分地面に埋まっている。その窓枠から内部に詰まった白いものが少し見えていた。

 さらに景色を拡大すると、白く見えていたものは不法に投棄されたAI労務者の身体ボディだった。上空車で運ばれて、空から落とされて廃棄されたんだろう。白い身体ボディは何層にも折り重なって、何十体分も詰み重なっている。

 地殻変動の時代には、正攻法の処分方法なんてもちろん無かったんだろうけど。今でも放置されて人の目に触れているのは、なんでなんだ? 「悔恨かいこん傷痕きずあと」は、生々しく残された社会の痛みのようだ。なんとも言えない。

 しかし僕はそう、この現実を経験するために地表まで来た。だから眉を寄せながら長い間投棄場所になったその小屋を見ていた。ただAI労働者と目が合うのが怖かった。何かを見透かされて責められるような気がして……。

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