第四十四話 ただ一人の常識人
シンシアは扉を開け、サキヤノは部屋の外にゆっくりと顔を出した。建物全体をよく見ていなかったが、右には自身が通った曲がり角が、左には長い廊下が広がっている。廊下の奥に向かうにつれ、石壁に光る電灯は明暗し、周囲には不気味な冷気が漂う。
自分はこんな場所にいたのかと、サキヤノは驚きながら部屋を後にした。尋問に使う部屋と聞いたからか、入った時よりも空気は重い。
エリックに睨まれ、居心地の悪さを感じながら建物の外に出ると、安心する顔ぶれがサキヤノを待っていた。
「サキヤノさん!」
鈴の音のような愛らしい声で、ゲルトルードがサキヤノに飛びつく。ようやく気が緩み、サキヤノは安堵の表情を浮かべた。
やはりゲルトルードが一番落ち着く相手だと思う。まだ慣れないが、離れて会うたびに繰り返されるゲルトルードの抱擁も、今では有り難い。昔の自分なら、きっと安心より緊張が勝ったはずなのに。
サキヤノはゲルトルードの頭に手を伸ばしてすぐ、視界の端に影を捉えた。しかし、そちらを見る前に顔面に衝撃。
「あだっ」
ばさばさと聞こえた羽音で衝突物の正体を確信すると、サキヤノは顔を引き攣らせた。ゲルトルードに伸ばした手を自身の顔面に当て、影を引き離す。
「……ヴァル、何するんだよ」
「久しいな、サキヤノ。よくぞ生きていた」
「なんとかだけどな」
ヴァレリーは器用に喉を鳴らし、サキヤノの頭に飛び乗る。
ゲルトルードとヴァレリーの温もりに感激し、サキヤノは拳を震わせた。まさかこんな出迎えを迎えられる日が来るなんて、目頭が熱くなる。
サキヤノの胸に顔を埋めていたゲルトルードが、そっと目線を上げた。
「なんとか、ってことはまだ痛いところあるんですか?大丈夫ですか?」
「あっ、それは言葉の綾というか……と、とりあえず平気。いや、めちゃくちゃ元気」
「なら良いですけど。それはそうと、ここ、雰囲気最悪じゃないですか?……それに、私あの人と二人きりで、死にそうでした……」
じと、と半目で後ろを睨むゲルトルード。視線の先には、不機嫌そうに身体を揺するアンティークの姿があった。ゲルトルードは相当嫌っているようで、声から滲み出る嫌悪感にサキヤノは苦笑を洩らす。ここまで感情を剥き出しにするなんて、逆に仲が良いのではないだろうか。
アンティークは真顔でサキヤノ達を見ていたが、目が合うと呆れ顔を浮かべてシンシアの隣に並んだ。
「シンシア。聞いたか?」
「えぇ、きっと同じことでしょうけど。また後で共有しましょうか」
アンティークが頷くと、シンシアはすっと指を伸ばした。
「あそこが本部よ。早く向かわなきゃ、総統が怒っちゃうわ」
「怒らせるようなことしたのはアンタだろ?」
「だ、黙ってストレージ。いい加減にしないとその左目にフォークをぶっ刺すわよ」
照れ隠しなのかシンシアはそっぽを向き、サキヤノ達を置いて一人進んでゆく。サキヤノは離れていく背中をぼんやりと見つめていたが、ゲルトルードの「追いましょう」の一声で慌てて彼女を追いかけた。
早足のシンシアが足を止めたのは、ライノスのどこにでもあるような建物の前だった。強いて言えば、一回り大きく、壁沿いにフェンスが設置されている少し安全な家。
飾り気のない窓は全てカーテンが閉まり、中の様子は視認できない。壁の中央に位置するベランダに似た空間には豪奢な椅子が一つ佇んでいる。
そこで、サキヤノは建物が奥に長いことに気づいた。
全長は確かに、他の家と比べ物にならないくらい大きい。
シンシアが指差した方向とも一致することから、追いついたサキヤノは呟いた。
「まさか、ここが本部?」
「ご名答」
シンシアがサキヤノの独り言を拾う。
「やっぱりね、目立つ場所は危険なのよ。だからライノスの本部は時々移動するの。今はここ、ライノス有数の権力者の別荘!素敵でしょ?」
「見張りもいないんですか?」
ゲルトルードのもっともな質問に、彼女は続いて得意げに答えた。
「当たり前じゃない。見張りがいるなら、ここは本部だって、魔物に教えてるようなものよ」
「じゃあ、本部は限られた人しか知らないんですね」
「だから案内役がいるのよ」
シンシアは階段を上がり、木製の扉の前で振り返った。腰に手を当て、手招きするシンシア。サキヤノはゲルトルードとヴァレリー、アンティークの顔を見てから、自身が呼ばれたことを理解した。俺か、とサキヤノが自分を指差すと、誰かに背中を叩かれる。
「お前が呼ばれてるんだよ」
最後にアンティークに言われ、サキヤノが階段に足を掛けた、その時だった。
どぉん、と衝撃音が耳を
シンシアは斜め上に視線を送っていた。その瞳は僅かに揺れ、何かを考え込んでいるように見える。
「だから、タイミング最悪なのよねアイツ」
爆発音に遮られ、シンシアの言葉は聞き取れなかった。だが彼女の動揺した表情と、急いで自身に近寄る姿を見たら、聞き返すことはできなかった。
サキヤノはシンシアに助け起こされ、「良い?よく聞いて」と肩を掴まれる。
「話したわよね、魔物のことは」
「う、うん」
「こうやって、本当に予想できないタイミングでやってくるの。今もね、南の方で襲撃があったみたい。危険なのは、分かる?」
サキヤノは無言で頷いた。
「なら良いわ。感覚が麻痺してる勅使さんだったらどうしようかと……でも、うん、自然な震えね」
言われて、サキヤノは自身の手を見た。小刻みに揺れる身体の、心臓の鼓動は早い。
どん、ともう一度爆発音。
サキヤノは肩を揺らし、反射的に耳を塞いだ。
「大丈夫大丈夫。普通の十八歳なら、正常な反応よ」
シンシアは落ち着いた声で、穏やかにサキヤノを宥める。
怖いんだ、とサキヤノは背中が粟立ってようやく分かった。
「そうそう、サキヤノは『死の病』って聞いたことある?」
シンシアが何気なく放った単語に、サキヤノの頭がずきりと痛んだ。芯から響くような頭痛に顔を顰め、サキヤノは思わず動きを止める。
「サキヤノ?」
シンシアが眉を寄せた。
それは、どこかで聞いた覚えがある。
一体どこで、と頭痛を無視してサキヤノは記憶を遡った。ミリと出会った後で、ルーと出会う前。まだ霞がかった記憶の中で、サキヤノは『死の病』を聞いた。
あれは、そう。ミリの家に向かう途中だったか。サキヤノは誰かと話した。目を閉じ、記憶を探る。
……確か、老人がいた。髭を蓄えた口から飛び出た、『死の病』という単語。そして、自身に歩み寄って——。
「あっ……」
思い出した、とサキヤノは目を見開く。目の前には、シンシアの真に迫る表情があった。
「サキヤノ、今は考えている場合じゃないわよ」
肩を掴んだシンシアは、早口で言った。
「前まではそう呼ばれていたのだけど、今は変わったらしいの。帝国で行われた会議の結果、あたし達はそれを『
「『夢現』……」
「どうしてこの言葉になったのかは分からないけど、そう呼べと帝国皇帝からの伝令なら、従うしかないわよね」
「な、なんで今、その話を……」
シンシアはサキヤノを凝視した。真剣な眼差しを逸らすことなく、彼女は口を開いた。
「貴方は聖都からの訪問者。客人よ。そんな貴方を、魔物との争いに巻き込むわけにはいかない。私は仕事だから様子を見に行くけど、貴方は本部で待っていて」
「うん、それは分かった。でもさ、別に死の病……いや、夢現は関係ないよね?」
「関係あるのよ。でも、貴方に話す必要はない。だって貴方は魔物と戦わないんだから。さ、早く中に入って。あたしもすぐに戻るから」
「ちょ、待っ……うわっ」
シンシアは核心に触れず、サキヤノを強く押した。いつのまにか扉は開いていて、サキヤノは建物に転がり込むことになる。派手に侵入したサキヤノの後に、ヴァレリーを抱いたゲルトルードが控えめに入室した。
「サキヤノさん、今は言う通りに」
「ホントだぜ」
続いてアンティークが敷居を
「その一言は要らないわ……こほん。とにかく、早く面会しないとですね」
少しも怯えないゲルトルードが、ドアに手を掛けた。閉まるドアの隙間から、シンシアが走っていくのが見える。
「ほっとけ。お前には関係ねえ」
肩を竦め、アンティークはサキヤノの首根っこを掴んで立ち上がらせた。
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