最終話 朝の色

 毎日こんなに疲れて、給料はキャバ嬢時代の四分の三ほどだった。

 この仕事にいて得たもの。日光を浴びる時間。眠気。淡い朝。

 失ったもの。給料の金額がいくらか。時事じじを追いかける気力、それに伴う少しばかりのやる気。


 今になって思い出すと、キャバ嬢の仕事が少しだけ輝いて思えた。なぜだろう。過ぎたから、もうやらなくていいから。

 過ぎてから気づくことがあるのだろう。

 じゃあ今後、再び転職をしたらこの工場での仕事もどこか輝いて思い出すのだろうか。信じられないけれど。そうか、つまり、いつでも「今」って貴重なんだ。あとから思い出すそのときの「今」はきっと、どこかが輝いて見えるのかもしれない。


 昼休み、トイレの鏡の前で身支度みじたくを整えてから食堂に来る女子社員。普段は帽子をかぶっているが製造ラインを出たら帽子は外す規則になっている。

 帽子のなかではバレッタに押さえられていたロングの髪の毛がここぞとばかりに主張している。昼休みが終わるとまた髪の毛を束ねて帽子をかぶるんだよなぁ。みなさんお疲れ様だなぁ。私はそう思い、知らない美人の毛先が丸まった髪の毛を見ていた。

 二度手間でも、髪の毛をおろしたい女心、か。めちゃくちゃ字あまり。

 女子はどこの職場でも女子なんだな。安心した。

 美意識が後回しにされるような余裕のない社会は嫌だな。ここの人たちは接客業でもないのに美意識を保っている。ああ私、仕事は辛いのにいつの間にかこの会社を認めている。

 リズム、習慣、そういうものが刻まれてゆく。どんな風に過ごせばいいか、自分の中にマニュアルが出来上がってゆく。



 そうしているうちに私は、朝の一人の時間がとても大事なものになった。期待も面白さもない流れ作業の仕事に入る前の儀式のようになっていた。

 部品を相手に、毎日同じ作業をひたすら繰り返す。お客の顔を覚えなくてもいいしお客の好きなものを覚えなくてもいい。時事問題も流行も追わなくていい。通勤服にお金をかけなくてもいい。月一でサロンに行かなくてもいい。気難きむずかしいお客の機嫌をうかがわなくてもいい。


 テレビの話や流行っているアニメの話。昨日の晩ごはんの話。合コンに行った話。コンビニの新作の話。そんなことを話して盛り上がっていると、軋轢あつれきなく人間関係をクリアできる。

 低く見ているんじゃない。それはきっと、ここの人たちが見つけたシンプルな過ごし方。

 精神状態の起伏きふくが起きないように、当たりさわりのない会話を選ぶ。毎日家で食べるごはんは美味しさと時短の情報が欲しい。気になる美味しそうな新商品。ときどきは色恋の話も聞きたい。

 そんな風に平和を保ってきたのだと知った。私もその平和を保ちたい。自分の精神状態の均衡きんこうを保つため、音楽の力を借りた。


 最初は時間つぶしで聴いていただけだった。気づいたら儀式になっていた。

 私のスマホにはたくさんの曲が入っている。小林さんが好きだと言ったバンドの曲がたくさん入っている。あの頃は知識が欲しくて聴いていた曲が、今になってみる。曲の良さと内容を理解している。


 そうか、なんとなく生きていた私には分からなかった。仕事の辛さも自由さも、自分の幸福を願う気持ちも、そういうことを知らなかったから。

 それらを覚えて、環境や感情とうまく付きあうことができたなら一歩前進。新しい曲をまた理解できる。いや、気づいたら理解しているんだ。



「深田健吾くーん、本当かっこいい」

 休憩室に人が増えてきた。音漏おともれしていないか、念のためにイヤホンを外して確認した瞬間に聞こえた。同僚の女子社員の声。

 深田くんは今、人気急上昇だ。一昨年おととし【ペイルカラー】というグループでデビューしている。

 グループ名の「ペイル」は、淡いとか蒼白そうはくという意味で、メンバーが「淡い」存在で、ライバルが顔面蒼白するほどの実力を持っているという意味を込めたらしい。淡い、にどんな意味を込めたかは分からないけれども。


 深田くんはバラエティ番組でインパクトのある発言が話題を呼んでいる。顔が綺麗なので世の女子が騒ぐのは当然だった。

 私が過去、深田くんに会ったことは誰にも言っていない。デビュー前といえど、あのとき深田くんはすでにプロだったから。

 現在いまは私が調べなくても、勝手に深田くんの情報は入ってくる。世間が彼を放っておかないから。淡いメロディのラブソングを聴いて、深田くんを思い出してしまった。深田くん、確かに淡い存在だよ。


 深田くんが所属するペイルカラーの次のシングルはドラマ主題歌。

 深田くんは「キャバクラに間違って入ってしまった大学生」役で主演を務めるらしい。

 そのシングル、買おうかな。

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淡色の朝 青山えむ @seenaemu

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