潰して、靴下を黒く

隙間風で眠れないようなアパートに、父と2人で住んでいた。長距離トラックの運転手の父は、家にいる時間が他の家庭よりも少なかったと思う。2人暮らしだったし、特に借金なんかがあった訳でもなかったから、こんなアパートに住む必要もなかったのだろうが、今思えば、人付き合いが極めて苦手だった親父は、外観のおどろおどろしさに起因してなのか、人が全然寄り付かないあのアパートに愛着があったのかもしれない。


 俺が高校に上がった春に、そのアパートの隣室に、若い女が越してきた。



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 外に出ると、缶が転がる音、酒の匂い、空き缶に囲まれる女。

「名前は?私ナオ」

 出会って一言目でなんだこの女。その形式の名乗り方が許されるの少年マンガの主人公だけだろ。絶対酔ってる。

 すると女は、ビールを口に含みながら、鼻で笑う。

「名前は?ねえ。ホントのじゃなくて良いからさ」

「は?」

「私はさ、自分の本名嫌いだから。呼んで欲しい名前、勝手に考えたの。ナオって。君も普通さ、なんかないの? 本名とかそういうのじゃなくて呼んで欲しい名前とか」

「無いです。ていうか…」

「私が考えてあげるよ」

 意味分かんねえ。

 その時ナオは何故か靴下を脱いだ。女にしては骨っぽくて長い足の指が、不覚にも綺麗だと思った。

 そして、こちらをじっと見つめる。女にこんなに見つめられたことなんてないから、思わず顔を背ける。するとナオはニヤッとして、童貞。と呟く。違うと言いたいが違くない。ナオはビール缶をベキッと潰す。

「決めたよ。君は砂糖だ」

「いや、俺橋本です」

「違うよ。苗字の佐藤じゃない。甘い方の砂糖。なんか人たらしな外見してるから」

「なんで人たらしだと砂糖なんですか」

 ナオは深く頷きながら、口を開いた。

「人たらしは、砂糖と一緒で中毒性があるんだよ」


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 それから高校から帰る時間帯に、週1ぐらいの頻度でナオが部屋の前でビールをあおっているからその前を通る度に絡まれるようになり、徐々に打ち解けていった。

 俺は唯一合格できた夜間の定時制高校に通っていて友達は出来なかったし、父親も家にはあまり家に居ない。話し相手が、欲しかった。


「酒ばっか飲んでないで、なんか食ったりせめて水飲んだりして下さいよ。悪酔いしますよ」

「あ? 砂糖うるさい。お前も飲め」

 そう言って彼女は靴下を脱ぐ。

「なんで靴下脱ぐんですか」

「砂糖うるさい。それくらい見て分かれ」

 ナオは、少し潤んだ目で遠くを見ていた。


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ナオと関係を持つようになるのは、とても自然な事だった。

 真っ直ぐで骨っぽい体に、くしゃくしゃした赤っぽく染められた髪、切れ長の目、そばかす、大きな口。キスした時に触れる舌のピアス。

 自分よりも歳上の女を抱く事から生まれる優越感。

 彼女は、服を脱ぐ時やっぱりいつも靴下から脱いだ。ある時その真似をしたら、たっぷり1分間程笑われた。

「砂糖、これは私がするから意味がある事なんだよ」

 そう言いながら押し倒された。


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 その日のナオはおかしかった。

 目が真っ赤に充血していて腫れていた。腕には誰かに思い切り掴まれた跡があった。首には、付けた覚えのないキスマークがくっきりと付いていた。

「何も聞くなよ砂糖。野暮な男は、嫌い」


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 次の日、ナオは自室で首を吊っていた。床には尿が垂れていて、その臭いがツン、と鼻をさした。

 清潔なテーブルに置かれた汚れたチラシの裏に、何か文章を書いて上から丁寧に塗りつぶして消した跡があった。


 靴下を履いたまま、彼女は死んでいた。

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モラトリアムと言えば聞こえがいい きりこねこ @kiriko05_

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