魔法のオーケストラ
MenuetSE
俺はギシギシと音のする引き戸を開けた。靴を下駄箱にしまうと、自分の部屋にとぼとぼと歩いて行く。古い下宿屋なので共通の玄関があり、そこで靴を脱ぐ造りになっているのだ。短い廊下には左右に5部屋ずつ、合計10個の扉がある。俺はそのうちの一つを静かに開け、自分の「大四畳半」に入った。築55年にもなる平屋の木造は、音が響くので扉の開け閉めに気を使う。
この下宿屋に住むようになったのは、ひたすら安い家賃のためだった。駅からちょっと離れた住宅街だが、光熱費込みで2万円もしない。部屋は四畳半一間だけ、洗面は共用で玄関を入った所にある。その横には動かすとガタガタいう古い洗濯機が1台鎮座している。お風呂は無いので銭湯へ。とても快適な住環境とは言えないが、浮いたお金でささやかに飲み食いできるし、たまには旅行にも行ける。要するに住むところにお金を掛けたくなかっただけだ。
この下宿で感動したのは、玄関に今は使われていない「名札掛け」があり、部屋毎に2本の釘が打ってある事だった。つまり、かつては四畳半1部屋に2人ずつが住んでいたのだろう。労働者だろうか、学生さんだろうか。そんな時代に思いを馳せる。
こんな俺だが、両親は二人とも音楽家だ。今はウィーンに住んでいる。既に第一線を退いているが、時々現地で演奏のアルバイトをしているそうだ。昨日、その両親から小包が届いた。俺の成人を祝っての贈り物と思っている。まだ開けていない。週末の楽しみにとっておこう。
一方、俺は演奏はしない、というかできない。でも、音楽は好きだ。小さい頃から両親に連れられて、良くクラシックのコンサートに行っていたのだ。なので、いやでも一通りの有名な曲は知っているし、部屋で聞くのも好きだ。ただ、扉や隣部屋との壁がベニヤ板一枚で出来ているので、大きな音は出せない。音は筒抜けだ。普段はスマホとヘッドホンで音楽を楽しんでいる。ヘッドホンの音質は優れてはいても、やはりあのコンサートホールの響きは伝わってこない。たまにはコンサートにも行きたいが、なにせ高すぎる。端っこの席でも何千円もする。
部屋に落ち着き、いつものようにスマホにヘッドホンを接続した。俺は有線の、しっかり耳を覆うタイプのヘッドホンが好きだ。没入できる。
「さあ、『田園』でも聞くか」
お気に入りの曲をセットしようとした時だった。まだプレイをしていないのに、かすかに綺麗な旋律が耳に入ってきた。
「あれ、もう演奏始めちゃったのかな、まあ、いいや」
しかし、音楽配信サイトの選曲画面を見ても、まだ『田園』を選んではいなかった。
「隣の部屋から聞こえてくるのだろうか」
廊下にそっと出て見るが、そこでは何も聞こえない。部屋に戻ると聞こえてくる。聞こうとしていた「田園」の第一楽章の滑らで軽快な旋律だ。試しにスマホの電源を切ってみたが、依然として音楽は聞こえていた。しかも、音量が段々と上がってきている。どうしていいか分からなくて、俺は焦った。音量はやがてコンサートホール並みになって、狭い部屋の中で盛大に響き渡っている。
「ああ、これはまずい」
廊下では音が聞こえなかった事を思い出し、念のためにスマホを録音モードにして廊下に置き、自分は部屋に戻ってみた。その後確認してみたが、やはり廊下に音は漏れていなかった。俺はちょっと安心した。
「たぶん、外や隣の部屋にも音は漏れていないだろう。もし漏れていれば直ぐに言って来るさ」
古い郊外の下宿屋だけあって、都心のマンションとは異なり、住人はお互い顔見知りだ。だから、何か問題があっても悪気がなければ深刻な事態にはならない。これも安下宿のいいところだ。
部屋の中の大きな音が、ベニヤ板一枚隔てた外に全く出て行かないのは物理的には変だ。しかし、この時の俺は一安心でほっとしていて、この不思議さには思いが至っていなかった。それよりもその演奏の心地良い響きに聞き入っていた。これまでいろいろなオーディオを試聴した事があるが、そのどれよりもいい。まるでコンサートホールにいるようだ。小さい頃に良く聞いたオーケストラの響きが蘇っていた。
美しい旋律に浸っている内に、「田園」の最終楽章が静かに終わろうとしていた。ほのぼのとした心地良さが体に沁みるように残る。いい気分だ。
ふと我に返った。今のはなんだったんだろう。もちろん夢ではない。この耳ではっきりと聞こえた。というか、盛大に聞こえた。俺は続けて何か聞こえて来ないか耳を澄ました。何も聞こえない。聞こえて来るとすれば、第6番の次だから第7番だろうか。でも、なぜ第6番から始まったのだろう。俺の本能はまだ「不可思議さ」を認めたくなくて、なんらかの説明を求めていた。
しばらく部屋の中で耳を澄ませていた俺は、何も起きないのに若干失望しながらも、気を取り直してヘッドホンを頭に被った。そして今度はスマホで別のお気に入りの曲を探した。
「えーと、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲っと・・・・・・」
その時、俺の耳に細くしかし情熱的なバイオリンの旋律が聞こえてきた。先程と同じで、まだプレイボタンを押していない。聞こえてきた曲は、まさに「メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲」、定番の作品64だ。俺は「田園」の時と同じ事をして、外に音が漏れていないことを確認した。心配だったのだ。音漏れが無い事を一通り確認でき、一安心したところで俺は改めてゆっくり考え始めた。協奏曲は第一楽章の壮大なエンディングに差し掛かっていた。
「これは、もしかすると」
何故そうなるのかはわからない。でも、どうやら俺が曲名を呟くと、その曲が演奏されるようだ。誰がどうやって演奏して、どこから聞こえてくるのかさっぱり分からない。でも、世界の一流のオーケストラの演奏を一流のコンサートホールのS席で聞いている気分だ。大きな音の広がりを感じる。目を開いていると「大四畳半」の汚れた壁とくすんだ色の畳が見えてしまうので、目は閉じていたほうがいいかもしれない。
一晩中いろいろな曲を試してみた。チャイコフスキー、モーツァルト、シベリウス、バッハ、ワーグナー・・・・・・ どれもすばらしい演奏だ。夜遅くなっても他の部屋から苦情が来ない所をみると、やはり音は外に漏れていないようだ。あと、不思議なことに、クラシック音楽しかダメだった。ジャズ、ポップス、歌謡曲、民謡などいろいろと試したが、演奏は始まってくれない。
家に帰るのが楽しみになった。こんなに楽しいことは無い。ある時、友人を連れてきて聞かせた。友人は特にクラシック党ではなかったが、その音の良さ、響きの素晴らしさは直ぐに理解し、感嘆のため息を漏らした。
「本当だ。お前の言う事だから半分も信じていなかったが、これは凄い。なあ、どんなオーディオか見せてくれよ。俺も欲しくなった」
俺は、この不思議な現象を秘密にしておきたかったので、あくまで「全財産つぎ込んで超高級オーディオを買った」事にしていた。また、「オーディオは押入れの中にあるが、訳あって今は実物を見せられないので、勘弁してくれ」という事にした。
「さぞかし高かったんだろうな、このオーディオ。臨場感のある素晴らしい音だ。それにしても近所迷惑にならないのか」
俺は慌てて言い繕った。
「ああ、完璧な防音工事をしたんだ。そっちにも随分お金を掛けた」
実際は「ベニヤ板一枚」なのだが、嘘をついて言い逃れた。その友人は冗談とは思うが、さらにこんな提案をしてきた。
「あー、いつも僕が聞いているポップスグループをこのオーディオで聞いて見たいな。いつもはイヤホンで聴いているが、ここで聴けば大迫力に違いない。このオーディオ高かったと思うから、有料でもいいよ。1曲100円でどうだ。クラシックばっかりじゃ、勿体無いよ」
《クラシック以外は、演奏できないんだけどね・・・・・・》
俺は内心そう呟いていた。ここで、はたと思った。友人の提案は面白い。これで金儲けはできないだろうか。適当にポツポツと就職活動をしていて、まだどこも内定を出してくれていない中だったので、これは魅力的に思えた。就職までの間、アルバイトくらいにでもなってくれたら嬉しい。早速、計画を練り始めた。
大家への交渉は思いのほか順調だった。日頃から仲良くしているお陰だ。他の住民も理解を示してくれた。俺がやる事だから、別に怪しい事はないと思ってくれている。隣人に感謝だ。部屋にお金を掛ける事はできなかったので、とりあえず座布団を5枚購入した。だから、お客さんの定員は5名だ。ろくに物の無い部屋だが、さすがに5人も客人を入れれば「大四畳半」もいっぱいだ。飲み物にはセルフサービスでインスタントコーヒーと紅茶を用意した。それと紙コップ。
俺はホームページを立ち上げ、宣伝を開始した。説明には友人に対してしたのと、同じ文言を使った。
「超高級オーディオ設置のクラシック専門音楽喫茶『クラシックの小部屋』堂々開店」
店の名前は本当は「クラシックの四畳半」にしたかったのだが、なんとなくしっくりこないので、この名前にした。とりあえず飲み物は無料にして、入場料という事でお金をいただこう。また、人の集まる繁華街に行って、宣伝のビラを配った。こんな事をするのは初めてだったが、やってみると意外と楽しい。くだんの友人も手伝ってくれた。それにしても、駅からちょっと離れた住宅街の真ん中にある古い下宿屋にわざわざクラシック音楽を聴きに来てくれるだろうか。実際、しばらくは全く反応がなかった。
何週間かが過ぎて、やっぱりダメかと落胆していた所、身なりの良い親子らしい二人連れが訪れた。初めての客を丁重に部屋の中に案内すると、新品の座布団に座ってもらった。古びた下宿の玄関、汚れた靴箱、ミシミシ言う廊下、そして薄暗くて天井の低い室内まで、子供の方は興味深そうにキョロキョロと見回していた。このような所は初めてなのかもしれない。親御さんと思われる男性の方も、心配していたような嫌悪感は示さなかった。座布団の上に正座していた二人を見て俺は言った。
「入場料は一人1000円お願いします。子供さんは半額です。それから飲み物はセルフサービスで、無料です。それではゆっくりと寛いでください。足も崩していただいて結構です」
二人がコーヒーを入れたのを見はからって俺は言った。
「本店はクラシック専門です。クラシックであれば、何でも演奏できます。ただし、ベルリンフィルがいいとか、ウィーンフィルがいいとか、演奏者の指定はできません。こちらで、一流の演奏者を予め選定しています」
実際には演奏者不詳なので、聞かれたら困る。どのように誤魔化すか、今後のためにも考えておかなければならない。そんな事を考えていると子供が言った。
「『展覧会の絵』お願いします。オーケストラ版で。お父さん、いいでしょ」
父親はニコニコして頷いている。
「では、演奏を開始します」
と言いながら、俺は慌てた。
《そうだ、「展覧会の絵」はピアノ版がオリジナルだ。ピアノ版が掛かってしまったらどうしよう》
俺は祈るような気持ちで呟いた。
「展覧会の絵、オーケストラ版」
静けさがいくらか続いた後、高らかに「オーケストラ版」の「プロムナード」が始まった。俺は安堵の胸を撫で下ろした。部屋の広さを大きく超えた、管弦楽の響きの広がりに、親子は目を輝かせた。「雛の踊り」の場面では、子供は両手を左右に振って楽しげだった。そして全曲が終了した。
「やあ、いい音楽を聞かせてもらいました。すばらしいの一言です。実は私は中学校で音楽の教師をしています。子供とコンサートに行きたいのですが、お金がかかるので困っていた所、この店を知りました。また、来ますのでどうぞよろしくお願いします」
音楽の先生に褒めてもらって、俺は自信を深めた。この親子が来て以来、ポツポツとお客さんが来るようになった。良い噂が広がったのか、気が付くとほぼ毎日満席の状態になった。午前と午後で入れ替えるが、満席が続けばそこそこの収益になる。時々手伝ってくれる友人には昼飯をご馳走した。下宿の他の住人にも手土産を忘れなかった。なにせ、毎日見知らぬ人間達が出入りしているのだ。住人の中には一人二人クラシックが好きなやつもいて、店に招待すると大喜びして、でも何故か無料のコーヒーを何杯もお代わりしていた。
客の中には、どうしても使っているオーディオセットを知りたいという人がいて、断るのに苦労した。自分も同じオーディオを揃えたいというのだ。ここでは、元々何の機器も使っていないのだから、無理な相談だ。また、心配していたように、是非演奏者を教えてくれという客もいた。これは「企業秘密」という事で丁重にお断りして切り抜けた。
「クラシックの小部屋」が軌道に乗り始めた頃、ご多分に漏れず少し欲が出てきた。今のままでは、5人しか入らない。いっそのこと大家と協業にして下宿屋全体を建て直してはどうだろう。そうすれば100席くらいは作れる。俺は大家と交渉を始めた。大家は電卓で収支計算をしながら、あれこれと考えていた。大家にも「秘密」は教えていないが、俺がいい商売をしていることは知っている。近所に迷惑も掛けていない。俺は例によって計画を具体化し始めていた。今の平屋の下宿を取り壊して、二階建てにしよう。一階は下宿にして今の住人に住んでもらう。一時的に出て行かないといけないが、もちろんその補償はしてあげよう。二階は店舗だ。下宿人に迷惑がかからないように外階段を取り付ける。店舗は今よりずっと大きくなるので、「クラシックの小部屋」はちょっと変だが、折角名前も知られてきたし、謙遜の意味も込めて店名は変更しないことにした。
具体的な計画を前に、大家はとうとう合意してくれた。しかも、利益は折半なのに、建て替え費用の3分の2を出すという。俺が残りの3分の1だ。大家曰く、
「いやあ、この年になってこんな面白い事に参画させてもらって嬉しいよ。お前さんまだ学校だから、蓄えも少ないだろう。俺が3分の2出してやる」
やはり、日頃の人間関係に勝るものは無い、と俺は思った。
ただ、3分の1といっても一千万円以上になる。このところ「クラシックの小部屋」が順調なので、若干の蓄えは出来たが、まだまだ足りない。もちろん、定職の無い俺にお金を貸してくれる銀行など無い。サラ金は絶対にいやだ。という事は必然的に親に頼るしかない。ちょっと思う所があった。俺はこれまで「秘密」を守る為に、確かに周囲に嘘をついてきたが、元来は正直な男だ。だから、親に全くの嘘を言ってお金を借りるのはいやだ。いろいろ考えた末、「秘密」は明かさないまでも、こんな説明をした。
「就職をせずに、音楽喫茶を開きたい。下宿の大家さんと共同出資だ。今、試験的に前身となる店をやっているが、連日満席でうまくいっている。だから、開業資金を工面してもらえないだろうか」
まともに「秘密」を明かしたところで信用してもらえるはずもない。俺だっていきなりそんな話を聞いたら俄かには信じられない。ただ、そもそもたった5席しかないので「連日満席」と言うのには若干の抵抗があったが、まあ、嘘ではない。仮に大嘘を付いてお金を借りた場合、もし大失敗したら言い訳も何もできなくなってしまう。実は、「そこそこ正直」に話す決心をしたのは、そんな懸念が頭をよぎったからだ。これは後日、現実の事として俺の前に立ちはだかる事になる。
しばらくして親から承諾の返事が来た。おまけに、決して裕福という程の親ではないのに、資金は提供してくれるという。つまり、返済しなくて良いというのだ。俺は小躍りして喜んだ。考えてみれば親だって、普通の勤め人をやらずに音楽家になり、さらに海外移住するような人間だ。俺のこんな我がままを、もしかしたら面白くさえ思っているのかもしれない。それにしても、こんなに順調で良いのだろうか。ついこの間まで、頭をよぎっていた言いしれぬ不安はの事を俺はすっかり忘れていた。
工事は順調に進み、1年と少しで完工に至った。赤や黄色の原色で塗られた建て屋は、さながら「芸術の館」。以前の下宿屋を知っている者が見たら驚くだろう。店舗は広く、予定通り100席が設置された。舞台は要らないが、なんとなくコンサートホールの雰囲気を出す為に小さな舞台が作られ、背景にはフルオーケストラの大きな写真が掲げられた。音楽演奏用のホールは普通は吸音設備や非対称壁など、ホールの響きを良くする専門的な構造をしているのだが、この部屋はただの四角い箱だった。これで問題の無いことは「大四畳半」時代に実証している。
建物の前には「〇〇下宿」という名前と並んで、大きく「クラシックの小部屋」と書かれた看板が掲げられた。以前の、部屋の扉に張られていた手書きのものとは雲泥の差だ。また、外から見ただけでは分からないが、「壁」はペラぺラで、防音処置など全くしていなかった。必要ないからだ。これは建設費削減にも寄与していた。
まだ開店してもいないのに、俺はいっぱしの事業家気取りになっていた。早速、完成した建物の写真を両親に送った。大家も満足だった。下宿部屋は建て替えを機に、四畳半から六畳間に「大拡張」された。しかも、以前から住んでいる人は料金据え置きだ。これには住人達も喜んだ。俺は関係者全員が満足してくれているのが嬉しかった。
いよいよ来週の土曜日に開業だ。既に、前身の「クラシックの小部屋」からのファンから予約が次々に入っていた。当面は予約客だけになりそうだ。俺は店内の椅子に座り、いよいよ試験演奏に入ろうとしていた。立派なホールも、もちろん演奏がなければ何も始まらない。この広いホールで聞くあの演奏はどんなにすばらしい事だろう。おれは期待にワクワクしていた。俺は、この店のきっかけとなった曲名を小さな声で呟いた。
「田園交響曲」
俺は耳を済ませて、心を落ち着かせて待った。が、何も起きない。もう少し待った。でも何も起きない。
「あれ、おかしいなあ。久しぶりだから調子が出ないのだろうか」
俺は何も疑うことなく、別の曲を試してみた。
「新世界」
やはり、何も起きなかった。少し焦り始めた。もう開店日は決まっているし、客席も予約でいっぱいだ。
「英雄」「トルコ行進曲」「モルダウ」「ボレロ」「歓喜のうた」・・・・・・
俺は次々と曲名を口走った。段々声が大きくなり、広い店内に響き渡った。しかし、店内は無常にも静まり返ったままだった。喉が渇いてきた。荒くなった俺の呼吸だけが聞こえる。
「えっ、いったい何なんだ。これは困る。ああどうしよう」
開店までは何日かある。今日の所は一旦やめて、気持ちを落ち着かせて明日もう一度やってみよう。何かの間違いに決まっている。そこをちょっと直すなり、工夫すれば、きっと演奏が始まる。そう自分に言い聞かせつつ、俺は眠れない床についた。
非情にも、翌日も結果は同じだった。店内には俺の声だけがこだまし、演奏の始まる気配は全く無かった。
「おかしい。建物が変わっただけで、場所もおれ自身も同じだ。じゃあ、以前は建物が演奏していたというのか。それなら、俺の部屋でしか演奏しなかったのは説明が付かない」
無駄な事とは知りつつ、何が起きているのかを断片でも理解したかった。そうでもしないと落ち着かないのだ。開店前日になっても状況は同じだった。俺は半ば諦めかけていた。
《両親にお金を求めた時に頭をよぎった不安の正体はこれだったのだろうか》
とりあえず、予約を全てキャンセルしてもらい、ホームページで開店の延期を掲示しよう。俺は友人の助けを借りて、事務的な手続きを大急ぎでこなした。
全ての処理が終わる頃、窓の外は既に白み始めていた。朝焼けが薄っすらと綺麗なあかね色の帯を作っていた。まだ下手くそな鶯の声が遠く聞こえる。幸い借金を背負うことは無いが、大家や親にどう説明しよう。それを考えると、このままどこかに消えてしまいたい気分だった。
それから何年かの歳月が流れた。早いものだ。結局「演奏」は、一度もできなかった。今でも何が悪かったのか全く分からない。しかたなく、今はバイト暮らしをしている。店のホールは、大家の好意で俺のねぐらとして使わせてもらっている。大家の寛大さに頭が下がる。造り付けていた小さな舞台にふとんを敷いてベッド代わりにしている。ホールは時々、演劇や演奏の練習スタジオとして貸し出し、僅かながら収入を得ている。しかし、壁がペラペラなので、大きな音も声も出す事ができず、従って評判は余りよろしくない。親に言った「普通の音楽喫茶」に改造しようとも思ったが、テーブル、キッチン、防音などで何百万円もかかる。今の俺にそんなお金はないし、誰にも借金を頼める状況には無い。そんな俺よりも大家の方が頭を抱えていた。多額の借金をかかえているからだ。しかし、俺に悪く当たる様子は無い。ありがたい事だ。
そんな時、両親からいつものように誕生日カードが届いた。律儀だ。親は俺の失敗を知りながら、実に寛容な態度で接してくれている。俺自身が一番落ち込んでいるのを良く分かっているからだろう。誕生日を祝う明るい言葉が並ぶカードを見ながら、ふと思い出す事があった。
「そういえば何年か前、俺の成人祝いに送ってくれた小包、入っていた『Zauberer Orchester』は結局どこにいっちゃったんだろう」
「Zauberer Orchester」は日本語で「魔法のオーケストラ」。それは手の平に乗るくらいの小さく精密なオーケストラの模型で、舞台の上にちゃんと、バイオリン、チェロ、コントラバス、ティンパニーなどが並んでいる。指揮者もいて、指揮棒を振っている。良く出来ていて、今にも演奏が聞こえてきそうだ。そこまで思い返していて、俺は、はっ、と思った。
「魔法の・・・・・・」
もしかすると、この「魔法のオーケストラ」が音楽を奏でていたのかもしれない。それに添付されていた親からの手紙にはこう書かれていた。
「成人おめでとう。あと少しだけど学業、頑張れ。お祝いに『Zauberer Orchester』を送る。これは近所の骨董屋で見つけたもので、18世紀の代物らしい。名前の通り、素敵な魔法の力を与えてくれるように祈っているよ」
なぜ今までこれに気付かなかったんだろう。これなら全て説明が付く。まず、このお祝いをもらった頃から、音楽の演奏が聞こえるようになった。さらに、下宿屋の建て替えのドサクサで、俺はこいつを無くしてしまっていた。つまり、建て替えた後のこの店内に「魔法のオーケストラ」は無い。そして演奏は聞こえなくなった。いくら探しても見つからなかったので、どうやって両親に言い訳しようかと悩んでいたが、新しい「クラシックの小部屋」の開業準備とその後の失敗で、「魔法のオーケストラ」の行方などすっかり忘れていた。俺は、一縷の望みを託して当時の建設業者をあたった。廃棄物をどこに捨てたか、廃棄業者は誰か、最終的にどこに行ったのか、産廃の最終処分場はどこにあるのか・・・・・・ などを一生懸命調べた。しかし、何年も前の事だし、焼却処分されているかもしれない。しばらくは、取りつかれたように「魔法のオーケストラ」探しを続けたが、手がかりも得られず、やがて諦めの心が勝るようになってきた。見つけ出すのはもう絶望的だった。
「魔法のオーケストラ」探しを諦める決心が付いた後、俺は単価の高い夜勤のバイトを始めていた。夕刻に家を出て行き、帰りは駅に早朝の電車で着いて、そこから歩いて家路に付く。今朝方、駅から家に向かう頃には外はもう明るくなっていた。日が長くなったらしい。黎明の濃い青色に染まった空に気分を良くした俺は、少し疲れてはいるが新しくできた公園に寄ってみる事にした。駅からは少し遠回りになる。
「あれー、ここは大きな沼地があった所だ」
住宅地の外れの谷あいだった場所は沼も谷もすっかり埋め立てられて、平らな広い台地状の公園になっている。緑の芝生で覆われていて気持ちいい。開けた先には、今来た駅と、住宅街の広がりが見渡せる。
「はあー、いい気分だ。ぜーんぶ埋め立てちゃったんだなあ。そういえば、昨年まで、家の近くをダンプカーが頻繁に行ったり来たりしていたっけ。ここの埋め立てをやっていたんだろうな。いい迷惑だったよ。まあ、それも終わってこうして静かな公園になっている訳だし、使わせてもらっているのだから、まあ、いいか」
芝生の上に仰向けに寝転がって、誰もいない公園の、まだ少しひんやりする朝の空気を楽しんでいた。
「下宿屋の大家さんには本当に悪い事をしたよな。両親にも会わせる顔が無い。あーあ、これも俺の運命なのかなぁ」
そう呟いた時、何かが起き始めているのに気付いた。
「何だろう」
回りを見廻しても、あるのは広い緑の公園とひたすら青く広がった空。でも、何かが違っていた。
「夜勤で疲れているからかな」
そんな時、俺の耳にかすかに音楽が聞こえてきた。最初はそら耳かと思ったが、それはだんだんとはっきりしてきた。オーケストラだ。のどかな朝の公園には似合わない鮮烈な旋律だった。どこか悲壮感を秘めているが、躍動的でもある。重厚な弦楽器群のフォルテッシモとティンパニーの雷鳴のような轟きが何かを訴えるように畳み掛けて来る。俺は呟いた。
「第5番だ」
まぎれもない、「あの」演奏だ、「あの」響きだ。大地全体から湧き上がるように響いて来る。再会の嬉しさに俺の目からはゆっくりと涙が溢れ出た。
「懐かしい、やっとまた会えたな、ありがとう」
俺は、泣いたり笑ったりしたこの何年間かを振り返っていた。いろいろな事があった。同時にいいようのない幸福感が静かに俺を包み込んでいた。体中が音楽で満たされ、もうこれで十分な気がした。
「『魔法のオーケストラ』を商売なんかに使っちゃいけないよな」
曲は明るく歯切れの良い第二楽章に移っていた。
魔法のオーケストラ MenuetSE @menuetse
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