後編

 もうすぐ3年生になる。校庭には桜が咲き始め、体育館からは卒業式の練習をする学生たちの歌声が聞こえてくる。


 あれから1年、結局雪也くんは1日も学校に来なかった。私は彼のことを考えないようにしていた。無意識に、彼の家の周辺にも近寄らなくなっていた。


 でも、ふと彼のことが気になった。彼はまだ本を読んでいるのだろうか。あの地下書庫で。


 一度彼のことを考えると、頭から離れなくなる。やっぱり私は、まだ彼のことが好きらしい。


 気がつくと私は、彼の家のインターホンを押していた。


 ガチャリ、という音とともに玄関の扉がゆっくりと開く。


 扉の隙間からミイラがこちらを覗いていた。


 私は「わぁっ!」と悲鳴を上げ、2〜3歩退いてしまった。しかしよく見ると、ミイラではない。目元が大きくくぼみ、頬はこけ、肌は褐色を帯びているが、生きている人間だ。


「……瑠璃……ちゃん?瑠璃ちゃん……よね?久しぶり……ね……また……美人になったん……じゃない……?」


 その正体は、雪也くんのお母さんだった。1年前と同じような文句で出迎えてくれたが、昨年と比べ物にならないほど声に元気がない。機関銃のように喋っていたお母さんの姿は完全に消えていた。


 お母さんがこの様子なのだ、雪也くんの身にも何かが起きてるかもしれない。少し恐怖を感じた私だったが、再びこの家に足を踏み入れることに決めた。


「お母さん、雪也くんはあの書庫にいますか?会わせて下さい!」


「……いるわ……でも会わない方がいい……今の雪也を見て……瑠璃ちゃんがなんて思うか……」


「私なら大丈夫です!どんな雪也くんでも受け入れる覚悟でいます!だから会わせて下さい!彼に、もう一度学校に来て、普通の学生生活を送ってもらうよう説得します!!」


「……そうね……私の言うことは聞かなくても、瑠璃ちゃんなら雪也を説得できるかも……」


 お母さんは枝のように痩せ細った手で扉を開き、私を中へ入れてくれた。


----------


 地下へ続く階段を下り、書庫の扉を開けた。私の目に飛び込んできたのは異様な光景だった。


 1年前は図書館のように整えられていた本が床に散乱している。書庫自体もキレイだったのに、ホコリや蜘蛛の巣まみれ。


 私は雪也くんを探した。


 本棚の7列目に、巨大な何かが張り付いていた。


 人間のような髪が生えた後頭部。胴体から伸びる3対の腕。左右の上から2本ずつの腕はそれぞれ1冊、計4冊本を持ち、顔に近づけて読んでいる。残りの下2本の腕で本棚の淵を掴み、張り付くように体を支えている。

服は着ていない。まるで昆虫のようだ。


「雪也くん……?」


 私は彼の名前を読んだ。


 「昆虫のような何か」は、本を顔から離すと、グルリと首を回してこちらを見た。顔に雪也くんの名残があるが、目が6つ。眼球は半分ほど飛び出している。人間であれば白目にあたる部分が黄色く光り、黒目はゴマのように小さい。


 「何か」は私を見るなり、耳元まで裂けた口でニタリと笑みを浮かべ、話し始めた。


「キミは……そうだ、神田瑠璃。覚えてるよ、神田瑠璃だ。ようやく来てくれたんだね。お察しの通り僕だよ。ずっとキミを待っていたんだ。」


 「雪也くんだったもの」は、本をそこら辺に放り投げ、蜘蛛のような動きで本棚から床へ降りた。6本の腕を床に突き、腕立て伏せのような姿勢で立っている。


「雪也くん……どうしたの……?その姿……」


「この体は僕の究極系だよ。僕は本を読み進めるうちに、限界を感じていた。数万冊ある本はいくら読んでも読みきれない。読み終わった本はしばらくすると内容を忘れてしまう。それを解決したのがこの体なのさ!僕は本を読むのに最適な体へと進化したんだ!」


 私は「雪也くんだったもの」から距離をとる。


「キミは僕を見て『虫のようだ』と思ったんじゃないか?その通りだよ!虫になることこそ、この数万冊の本を読むのに必要なことだったんだ!」


「何言ってるの……?わけがわからないよ……」


 私の声は震えている。自分の感情がわからない。


「この腕を見てよ!6本!虫と同じだろう?虫の場合は足だが……とにかく、この6本の腕で本を持てば、人間だった頃の数倍の速度で読書ができるってわけさ!」


 もう彼を好きという感情はない。


「そしてこの目!人間の時は2つだったが6つに増えた!これで複数冊の本を同時に読める!しかも目はそれぞれが数百個の複眼になっている!6つ合わせて1000個以上の目で本を読むから、繰り返し読み直さなくても1回で内容を記憶できる!」


 あの頃の雪也くんはもういない。


「そうなると問題は、脳の容量だ。脳の大部分を記憶のために使わないと、同時にたくさんの本を読めても意味がない。それもこの虫の体が解決してくれたよ。」


 覚悟を決めていたはずなのに。


「すべての腕の付け根にコブがあるだろう?これは神経節と呼ばれるものだ。神経が集まった束で、脳から独立して腕を動かしてくれる。つまり脳は体に命令する働きをしなくて良くなったんだ。かつて足だった部分の神経を腕に集中させたことで足は退化し、使えないほどまで小さくなってしまったが、腕だけで動くことに何ら不便はない!これで脳は本の記憶に専念できるんだよ!」


 私はここに来たことを後悔した。


「以前キミに話したよね?『引き寄せの法則』。覚えてるかい?僕は本を読むための最適な肉体を求めた。その結果、僕はこの体への『進化』を引き寄せたんだ!」


 すぐにここを離れなければ。


「見た目は変わってしまったけれど、僕の気持ちは変わらないよ……神田さん、いや瑠璃!キミはここに残って僕と同じ体になるんだ!そして一緒に本を読もう!祖父が残してくれたこの本を!!」


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!」


 私は悲鳴を上げ、書庫から飛び出た。階段を駆け上がり、玄関に向かって一目散に廊下を走る。


「待って!待ってくれぇ瑠璃!僕と一緒にいてくれぇ!」


 背後から「雪也くんだったもの」の声と、ドタドタと床を鳴らす音が聞こえた。彼が6つの腕を使い、1000個の目で私の背中を見つめながら追いかけてきているのだろう。


 今になって、彼の興味を本から私に移すことができた。でも振り返る必要はない。そこには恐怖と、変貌した「大切だった人」の姿しかないのだから。


----------


 私は息を切らしながら玄関の鍵を解除して、雪也くんの家を出た。彼は家の外までは追ってこなかった。「自分の姿を周りの人が見たらどう思うかわからない」、そのように考えるだけの人間性はギリギリ持ち合わせていたのだろう。


 私はそれ以降、彼を思うことはなかった。本の虫になってしまった彼のことを。


<完>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

本の虫 ジロギン @jirogin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ