本の虫
ジロギン
前編
教室の後ろから2番目、窓際の席で本を読む彼に、私は惹かれた。小学5年生だった当時、休み時間になると男子のほとんどが校庭でサッカーをしていた。でも彼だけは、一人教室に残って本を読んでいた。
彼の「本の虫」っぷりは、地元の中学校に進学してからも変わらなかった。彼は周りの男の子とは違う、独特な雰囲気を持っている。私はそう感じていた。
そんな彼、野崎 雪也(のざき ゆきや)くんが中学校に来なくなったのは、2年生に進学してすぐのことだった。クラスに友達と呼べそうな子はいなかったけど、雪也くんは欠席したことはほとんどなかった。
私自身、彼とは小学校からクラスが同じというだけで、特別仲良しというわけではない。それでも、雪也くんのことが心配になった。
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「神田(かんだ)さんって、瑠璃(るり)ちゃんよね?雪也と同じクラスの?久しぶりねぇ、すっかり美人になっちゃって!」
私は放課後、雪也くんの家を訪ねた。学校から徒歩15分くらいの場所にある2階建ての戸建て住宅。
雪也くんのお母さんが元気よく出迎えてくれた。彼女とは何年か前に少しだけ話したことがある。PTAが主催した餅つき大会の時だっただろうか。当時の印象とほとんど変わらなかった。
「突然すみません。雪也くん、もう1週間も学校に来てないので、どうしたのかなと心配になりまして……体調を崩されたりしてないでしょうか?」
「あらそうだったの!?ごめんなさいね、余計な心配かけちゃって。大丈夫、雪也は健康よ。ただ、学校に行きたがらなくて……立ち話もあれだから、よかったら上がって行かない?」
「あっ……はいっ!お邪魔させてい、いただきます!」
男の子の家に入るのなんて、何年ぶりだろう。私は少し緊張しながら、雪也くんの家に上がった。
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リビングのソファに座り、紅茶とモンブランケーキを食べながら雪也くんのお母さんと話していた。話すというより、「最近の雪也は反抗期で言うことを聞かない」とか、「将来どんな大人になるのか心配だ」とか、半ば愚痴のようなものを一方的に聞かされただけだったが。
私はお母さんのカウンセリングに来たわけではない。雪也くんの安否を確かめに来たのだ。機関銃のような愚痴がひと段落したタイミングで、私は切り出した。
「あの……雪也くんはどちらに?お家にいないんですか?」
「雪也は……地下にある書庫にいるわ。」
「地下……?」
「この家には地下室があるの。50畳くらいのかなり大きなスペースで、そこに本がぎっしり置いてあってね。もともとこの家は、私の父、つまり雪也のおじいちゃんが建てたの。本はそのおじいちゃんが集めたもの。数年前、おじいちゃんが亡くなって、そのすぐ後に私の旦那も病気で亡くなってしまって……私と雪也には、この家と大量の本だけが残された。」
「雪也くん、教室ではいつも本を読んでました。それはおじいさんの影響だったんですね。」
「そうかもしれないわね。雪也のおじいちゃんも読書が好きだった。大学教授という仕事柄、本に触れる機会が多かったというのもあるのでしょうけど。そんなおじいちゃんの性分が、雪也に遺伝したのかもしれない。」
お母さんは話を止め、私を地下にある書庫へ案内してくれた。
廊下の突き当たりにある扉を開けると、地下へと続く階段があった。海外の映画でこのような作りの家をよく見る。お母さんと私は階段を下り、書庫の扉を開けた。
中はまるで小さな図書館だった。本の独特の匂いが空間いっぱいに広がっている。天井まで届くほど巨大で横長の本棚が、等間隔に9列並んでいる。見る人が見れば、宝の山だろう。
本棚の3列目と4列目の間に、立ったまま本を読む雪也くんがいた。
「雪也、お客さんよ。同じクラスの神田瑠璃ちゃん。」
「こんにちは、雪也くん。」
雪也くんはこちらに目もくれず、本を見つめたままだ。
「雪也!本を読むのはいい加減にして挨拶くらいしなさい!」
お母さんが叱ると、雪也くんは本をパタンと閉じ、こちらを向いた。
「……申し訳なかったね、つい夢中になってしまって。神田さん、久しぶり。母さん、2人だけにしてくれないか?同じクラスの女の子の前で母親と一緒だなんて、マザコンだと思われてしまうじゃないか。」
雪也くんの口調は中学生らしくない。10歳くらい年上の人が喋っているようだ。
「……そうね!私、おじゃま虫よね!じゃあ買い物に行くわ。何かあったら、ケータイに連絡ちょうだいね!」
そう言い残し、雪也くんのお母さんは書庫を後にした。
「ところで神田さん、どうして僕の家に?今までほとんど会話したこともないのに。」
雪也くんは持っていた本を棚に戻し、喋りながら別の本を探し始めていた。
「えっと……心配になったの!1週間も学校に来てなかったから……」
「1週間……そんなに経っていたのか。地下室に篭りっぱなしだったもので、何時間、いや何日経ったのか全くわからなかったんだ。」
「ずっとここにいるの?」
「そうだよ。トイレの時だけ書庫を出て、食事は母さんに運んでもらってる。ここにある本、全てを読むのが僕の目標なんだ。数えてないけど、数万冊はあるんじゃないかな。ほとんどが僕の祖父が集めたものだけど、彼自身、死ぬ前に読めなかったものがかなりあるみたいなんだ。」
「数万冊って……そんなの何時間かかるかわからないよ……」
「多分、年単位でかかるだろうね。でも、だからこそ燃えるのさ。祖父が達成できなかったことを孫の僕が成し遂げる!そして、ここにあるすべての本を読み終えた時、僕は世界のあらゆる知識を手に入れられるだろう!」
これまで見たことがないほど生き生きとした表情で、雪也くんは語った。
「……すごい目標ね……でも、それは大人になってから達成すればいいんじゃない?本はいつでも読めるけど、学校に通えるのはこの3年間だけだよ?」
雪也くんは一瞬、本を探す手を止めた。
「学校か……実にくだらないよ。時間の無駄さ。学校で学べることくらい、この書庫にある本を読めば充分まかなえる。学校なんて僕にとっては猿山だ。猿と同程度の知能しかないクラスメイトどもがワイワイ遊んでいるだけ。そんなところに行くなら、動物園に行った方が100倍有意義だよ。」
「先生も心配してると思うし、少し顔を出すだけでも……」
「先生なんて呼ぶべきじゃないよ、神田さん。アイツらは大学で教育課程を専攻したってだけの一般人。先生と呼ばれる資格なんてない。先生っていうのは、後世に名を残すような研究・創作をしてきた人たちにこそ相応しい呼び名さ。」
「そこまで言わなくても……」
「第一、先生を名乗るならキミより先にウチへやって来るべきじゃないのか?僕の様子を調べるために。確かキミは学級委員だったよね?そういう役職についてるからって、生徒一人を派遣して教師ヅラするのはどうかと思うよ。少なくとも、僕はそんな人間を敬うことなんてできない。」
「わ、私は自分の意思でここに来たの!先生とか学級委員とか、そんなの関係ない!」
雪也くんは棚から本を取り出そうとする手を止めた。私の視界は涙でぼやけ始めていた。
「そうなのか……ではキミは心の底から僕を思って来てくれたってことかい?」
「……」
私は黙って頷いた。
「そうか。そうだったのか。本当に失礼した。僕はキミの気持ちを踏みにじってしまったようだ。お礼……と言うのはおこがましいが、今の僕の気持ちを正直に伝えるよ。」
「……」
私は雪也くんを見つめた。
「僕の気持ちはキミに傾きつつある。これは好意、つまり好きってことだ!キミとは小学生時代から同じクラスだったよね?当時は気づかなかったが、こうやって話してみてよくわかった。キミには他のアホなクラスメイトどもとは違う聡明さがある。ぜひ僕の恋人になってもらいたい!」
突然の告白に私は戸惑ってしまった。決して気持ち悪いなんて思っていない。むしろ嬉しい。
「『引き寄せの法則』って知ってるかい?簡単に言うと、頭で願い、行動するとそれが叶うという法則のことだよ。僕はずっと求めていた……一緒にこの本を読んでくれる存在を!そして今日、キミが僕の元を訪れた!」
私も心のどこかで雪也くんのことが気になっていた。だからこの家までやって来たのだ。
「キミも僕と、この書庫で暮らそう!学校なんて行く必要ない!キミもこの本で知識をつけるんだ!10年かかるか、20年かかるか、それはわからない!でも僕たちなら絶対に成し遂げられる!その自信がある!だから僕と一緒に添い遂げてくれ!」
この言葉を最後に、私は書庫から立ち去った。私は雪也くんのことが好きだ。一緒になりたいという気持ちもある。
でも、あの書庫に閉じこもって一生の大半を読書に費やすのはイヤ。いろんなところに出かけて、楽しい経験をたくさん積む。そんな人生を雪也くんと送りたかったから、私は彼の家へ足を運んだのだ。
私は自宅へ帰り、荷物を自分の部屋に放り投げ、ベッドに入った。
いつのまにか眠っていたようで、気がつくと朝を迎えていた。
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