常音寺静加とマッド・サッド・ピーポー

酒田青

 常音寺じょうおんじ静加しずかはアマチュア心霊研究家である。

「でさあ、何も音聞こえねえの。だんだん、ぶつ、ぶつ、って音が切れて、とうとうなんも聞こえなくなって、実は今、自分の声も聞こえねえの。でさあ、おれの影がおれの耳元にやって来てこう言うんだよ」

 お前は明日死ぬ。電話の男の声とは全く違う、笑いを含んだ女の声がささやいた。常音寺静加は眉をひそめた。

「それ聞いたあとはホント何にも聞こえなくてさあ。で、ここどこなんだろ。すごいお城みたいな洋館が建ってる。お金持ちの家みたいなんだけど人気がなくて……」

 女の笑い声がけたたましく聞こえる。ずるずる、べちゃべちゃ、と湿った音が聞こえる。

「うわ、何か体中濡れてる……。濡れてるのかな? わかんない。あの、何にも見えない。何で! 何にも見えない!」

 見る必要なんてないよ。あたしだけ見ればいい。女の声は笑いながら言った。

「あれ、女が見える……。うわ、キッカ!」

 あたしの名前を呼んでくれた。そうだよ。あたしキッカ。あんたの彼女。

「ええと、大学のサークルの地味女で一回寝ただけの女がおれの目の前にいて、笑ってる。笑ってる。うわあ! 笑ってる!」

 あたしはお前の彼女だろう? お前はあたしと永遠にここにいて、一緒に死ぬんだよ。女の声はげらげら笑った。

「生霊っすね」

 常音寺静加はポテチを箸でつまんで口に放り込むと、もごもごと口を動かしながらポテチの砕ける音と共に電話の男に伝えた。先程男が自ら言った通り、男は今音が聞こえないのでわあわあと電話口でわめくばかりである。

 常音寺静加は二枚目三枚目のポテチをまとめて口に入れ、ぎゅうぎゅうと箸で押し込むと、大きな音を立てて噛み砕いた。部屋を見渡す。そこは2LDKの楽しいわが家である。立ち上がり、スマートフォンから放たれる男の絶叫を耳から離し、ゴミ屋敷すれすれのモノだらけの部屋の導線上を自在に移動すると、書斎として使用している奥の間の壁全体に設置された本棚、その一番上の段を目指して梯子を用意し始めた。

「たす、助けて! 殺される! おれ巨大な女に、べろべろ舐められてるんだよ助けて! あんた心霊研究家だろ!」

 常音寺静加は大判の本を開いた。何しろアマチュアで、心霊研究は一年前に始めたばかりで不勉強なのである。内容を覚えていないのでまずは目次を開き、それに従ってゆっくりとページをめくる。古い本なので簡単に破れてしまう。ゆっくりとめくることが肝要である。

 あたしはあんたを許さない。あたしはあんたのことを生涯の恋人だと思ったのに本命、二番手、三番手までいてあたしはラストの本当に気まぐれに遊んだだけの相手。絶対に許さない。今からあんたを一口ずつ食べる。まずは小指の先から。

 ぎゃああああ、と男の叫び声が聞こえた。どうやら本当に小指の先を食べられたらしい。常音寺静加は耳を塞ぎ、目当てのページを開くと、とんとんと梯子段を降りて本を中央の読書用ローテーブルにそっと置いた。

「えー生霊はまず本体の心をほぐすことが肝心。生霊を作り出したその原因を取り除く」

 男がまた叫んだ。今度は第二関節まで行ったらしい。

「……のは今無理なので、生霊に語り掛ける。あのお、キッカさん。わたしと話してもらえますか?」

 何だよ。キッカの生霊が答えた。男は叫んでばかりである。

「わたしと話さない? 気分が晴れるかもしれないよ」

 あんたは女だろ。それもけっこうな美人だ。あたしは美人が嫌いなんだ。

「そんなことないよ。ブスと言われたことあるし。ねえ、わたしの部屋に来ない? その近藤とかいう男はろくでもないよ。わたしと話したほうが楽しいよ」

 常音寺静加は電話口の女の生霊に向かって微笑みかけた。するとスマートフォンは黒々と光り出し、常音寺静加は手がしびれた感覚に陥り思わずスマートフォンをフローリングの上の黒いラグに落とした。鈍い音を立ててスマートフォンは跳ねた。

 あたしは、嫌いなんだよ。きれいな女が。誰かに愛される、美しい女が! 話しかけるな呼びかけるなあたしを消そうとするんじゃねえええぞおおおお!

 スマートフォンから大きな女の顔が出て来た。顔だけの化け物だ。部屋いっぱいに顔は膨らみ、風船のように常音寺静加を壁の本棚に押しつけた。体の痛みと圧迫感に常音寺静加は顔をしかめる。それでもなお、彼女は生霊に語りかける。

「辛かったよね、悲しかったよね。好きな男の人に遊ばれたとわかって悔しかったよね。でも、あの男はそんな価値ないよ。人を呪わば穴二つって言うでしょ? あの人を死に至らしめて、あなたまで不幸な目に遭うのは理不尽だよ。この辺りでやめて、新しい恋人でも新しい趣味でも見つけたほうが、ずっと楽しいよ」

 うるさい! あんたなんて幸せなくせに! あたしの気持ちがわかるわけないだろ!

「いやいやわたしは無職だしこのマンションは親戚の叔父さんのだし、心霊研究家も儲かるかなと思って始めたばかりの仕事だし? 何より失恋したばかりだし……ハハ。まあとりあえず」

 常音寺静加はポケットから油性マーカーを取り出した。書いた文字が金色に光る、文具店では少し珍しいマーカーである。常音寺静加はそれを生霊の大きな頬にとん、と載せ、きゅきゅ、と白抜きの十字のようなものを書き、周りに細かい文様を描いて行く。生霊が絶叫を始めた。常音寺静加は「よしよし効いてる!」とつぶやいた。生霊が破裂せんばかりに膨らみ、常音寺静加を更に本棚に押しつける。

 あああああ! あたしは消えたくない。消えたくない。近藤君を全部食べて、あたしのものにしたい!

「でもそれは依頼人は嫌だろうし、わたしは依頼人から十五万ほど受け取ってるし、それは叶わないんだな」

 常音寺静加が気のない返事をした瞬間、風船のごとき女の顔は破裂した。大きな音を立てたように思ったが、それは現実のものではなかった。

 部屋は元の通りだった。本棚も、梯子段も、ローテーブルも一人掛けチェアも元の通りだった。ただ一つ、男の指が落ちていた。小指の第一関節と第二関節であった。常音寺静加はそれを拾い上げ、

「今から手術したら繋がるかもな」

 とつぶやいた。その次の瞬間、

「でもめんどくせ」

 と部屋の隅のプラスチックのゴミ箱に放り込み、

「おっと生ゴミ」

 とキッチンのプラバケツにそれを入れ直し、再びリビングに戻ると、ポテチを箸でつまみ始めた。

「ありがとうございます! い、今いなくなったよキッカのやつ……。何かしてくれたんでしょ?」

「お祓いしましたよ。これでしばらくは大丈夫だと思います」

 常音寺静加は電話の向こうで安堵する近藤という男に見えもしない笑みを浮かべてやった。電話の向こうでは近藤がヒッと短い悲鳴を上げた。

「ここ墓地じゃん! んだよ洋館どころか墓地じゃん……。あの常音寺さん」

「はい」

「今度お礼に行きますので。小指一本で済んでよかった……。痛いけど命が助かってよかった。でもおれの小指、どこに行ったんだろう」

「お礼はいいです。前払いでお祓い料をもらってるし」

「そんなわけには……。とにかく今度行きますので! お土産はハーブティーの茶葉とかでいいですか?」

 何だか本当に女慣れしてそうなお土産のチョイスだ、と思いながら常音寺静加はもう一度断った。

「わたし、対人恐怖症ですので。必要なとき以外は人に会いたくないんです」

「そうですかあ」

 近藤は残念そうにそう言うと、

「じゃあ郵送しますんで住所だけ教えてもらっていいですか? 常音寺さんのデータって、ネット広告のフリーダイヤルしかないんで」

 実際この心霊相談所はフリーダイヤルのみで成り立っている。近藤がフリーダイヤル以外のことをしつこく訊くのにイライラしながら常音寺静加は言った。

「お土産はけっこうです。今回はご利用ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」

 機械のように常音寺静加は言い放つと、電話を切った。それからふう、と息をついた。対人恐怖症は本当であった。そのために中学校から引きこもりで、通信制の高校を経ての会社勤めが始まったがそれも長続きせず、様々な職を経ての心霊研究家なのである。これなら自分にできると思ったから。

 こういう社交的な依頼人は困る、と常音寺静加は思う。対応に困るので暗くて無口な人ばかりが依頼の電話をくれてほしい。しかしそういうわけにはいかないからこういう依頼人には塩対応で乗り切るしかないのである。

 夕方、マンションのチャイムが鳴った。常音寺静加はきっと通販だろうと思った。新しい本を買ったのである。魔術書や心霊研究の本ばかりだと飽きるので、楽しい大人向けの間違い探し絵本を買ったのであった。わくわくしながら迷いなく玄関に向かい、ドアを開けた。見知らぬチャラそうな男が立っていた。普通より少し高い程度の身長と、こげ茶の髪をワックスで撫でつけて大学生風のパーカーなどを身に着けたどう見たってチャラそうな男である。いい香りのする土産を持っていた。右手の小指がない。処置をした様子もない。

「病院行けよ!」

 常音寺静加は開口一番叫んだ。近藤はにやにや笑い、

「やっぱここだったかー。おれ人間GPS探査機なんて呼ばれるんですよね。ここが常音寺さんの部屋! へー」

 近藤はずかずかと部屋に上がってきた。常音寺静加は対人恐怖症を発揮して貝のように口を閉じていたが、近藤が振り向くと、沈黙が怖くて反射的に訊いてしまった。

「人間GPS探査機?」

「あー、電話した相手の居場所がわかっちゃうんですよ。スマートフォンのGPSがわかるというか。まあ特殊技能ですね」

「特殊すぎ……」

「お茶入れましょうか? 何か、女の子がローズペタルと紅茶の混ざったお茶はいいって言ってたから、来る途中で買ってきました」

「いいよ、帰って」

「そんなこと言わず! ……実はおれ、店長のお気に入りの女の子に手を出してバイトをクビになっちゃって。常音寺さんに渡した十五万八千円も厳しくて。バイトさせてくれません?」

「いや、一人でできるから……」

「外回りとかやりますよ。対人恐怖症でしょ?」

 それは助かるが、と常音寺静加は思ったが、ここで流されてはいけないとこらえ、首を横に振った。

「駄目です」

「わかりましたー」

「あっさりしてる……」

「でも時々ここに来ますね。常音寺さん元気かなーって感じに」

「来なくていい……」

 近藤はにこにこ笑っていた。小指を失ったことは、痛かったこと以外はどうでもいいようだった。常音寺静加は、この人早く帰らないかなあと思っていた。

 これが、心霊研究家常音寺じょうおんじ静加しずかと助手近藤露未雄ろみおのファースト・コンタクトであった。

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常音寺静加とマッド・サッド・ピーポー 酒田青 @camel826

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