その音色は夏の夜風に乗って

平賀・仲田・香菜

その音色は夏の夜風に乗って

 梅雨明けの夜。昼間の熱気が嘘のように風は冷たく、心地良い。屋台を離れ休憩とし、タバコをふかしに行った父を待つ。この待ち時間、僕は嫌いではなかった。夜風が運ぶのは夏夜の涼風だけではない。音を、音楽を、拙くも熱意あるバイオリンの音色を運んでくるのだ。十四になったばかり、さらに言えば庶民である僕に音の良し悪しなどわかるはずもない。しかし、バイオリンの君が熱意を持って練習を重ねていることはようく知っていた。

 聴き始めた四月の頃はきいきいと鼠の断末魔のように不快な音を奏でていたものだが、二ヶ月近くが経った今は違う。滑らかに、すべるように。その調べは上達の一途を辿っているのだ。しかし。


「そろそろだ」


 サビが始まってあと少し、三、二、一。妙に甲高い音を立てて演奏は中断した。バイオリンの君はこの部分が苦手なようである。毎日のように聴いているが、成功したところは終ぞ聴いたことはない。今日もダメだったか、などと苦笑していると、ペタペタと薄いサンダルを履き鳴らした父が帰ってくる。


 中学への進学を機とし、父は僕に、長田悠一にラーメン屋台の手伝いをさせるようになった。僕が部活もやらずにのんべんだらりとごろごろしていたのを見かねてのことだ。

 学校から帰ったばかりというに連れ出され、仕込みをさせられ、丼を洗わされる。さらには屋台を増設して勉強をするスペースまで作られ、僕は居残って補修を受けている阿呆な生徒のように客からは笑われていた。最初の内は嫌だった、いや、一年たった今でも本当は嫌だ。だが人は慣れるもので、僕もその御多分に洩れず文句を言うことも無くなっていた。

 実のところ、慣れだけが理由ではなかった。今年の四月から営業場所を父は変えたのだ。そして屋台を閉める夜の十時、父がタバコを吸いにいく十五分間。夜風がバイオリンの優雅な演奏を運んでくる。屋台で出しているドリンクを飲みながら、偶にカップ酒までをこっそりくすねて舐めながら、音色に聴き惚れる時間が至福となっていたのである。


「帰るぞ」とぶっきらぼうに屋台を引く父からはタバコの臭いが漂う。僕に煙を吸わせないよう父は離れてタバコを喫む。父子家庭なりの優しさなのかな、と僕はいつも感じていた。



 ある日、バイオリンの君を探そうと試みた。屋台裏手に見える、窓を開けた大きな家。不躾に家を押入る気などは更々ないが、何となしに君の家を正面から見に行きたくなったのだ。

 小雨が舞う中、住宅街を右往と左往。くねくねと多い曲がり角は僕に暗闇の冒険を思わせた。心に巣食うはバイオリンの君。彼か彼女か、子どもか大人か、はたまたさてはご老体。正体不明の人物ではあるが、その奏でる調べから僕は、深窓の令嬢を妄想していた。お屋敷に箱入る彼女が奏でるは嫋やかな調べ。なんと心躍るものか! と僕は一人興奮する。

 数分の後、僕は思しき屋敷の正面に立っていた。塀は高いが無骨でない。庭を覗けば季節がら、薔薇と紫陽花で満開である。お屋敷の扉までは遠い、とても、遠い。

 その距離を見た瞬間、僕は心が急激に冷えていくのを感じていた。バイオリンの君と知り合えるとも思っていなかったし、正体が分かるとも思っていなかった。それでも僕が此処にやってきたのは何かを求めていたのだろう。その希望は屋敷の大きさと距離により、とても届きそうにないなあと突然に自覚してしまったのであった。

 僕が屋台に戻ると、父も既に戻っていた。帰ろうと言われるのかと思いきや、父はまた湯を沸かし、一杯のラーメンを作った。チャーシューも二枚だ。僕はそれを受け取り、黙って食べ始めた。その様子を見る父もまた、黙っていた。


 そして明くる日もまた、父はタバコを吸いにいく。そしてバイオリンの音色が届く。

 屋台に腰掛け、ぼうっとしているとチャルメラが僕の目に入った。「屋台はこれが無ければ始まらないだろう!」と父が準備したものだが、夜中に吹き鳴らす迷惑さを省みて一度も使われたことのないラッパである。

 僕はしめしめと笑う。悪戯を思いついたのだ。


「そろそろだ」


 サビが始まってあと少し、三、二、一。僕はバイオリンに合わせてラッパを吹き鳴らした。初めて吹いた割には上手に吹けた。音程を外すこともなく、バイオリンの君が失敗する箇所を適当に僕なりに吹き散らかしたのだ。

 バイオリンの音は止んだ。お屋敷の二階、カーテンが開く。人の気配を感じた僕は反射的に身を隠す。バイオリンの君がこっちを見ているのだろう。僕は心臓が早鐘のように打つのを抑えられず、その音で見つかりやしないかとひやひやしていた。

 窓が閉まると僕はようやく安堵できた。屋台に腰掛け「やってやったぞ」と妙な充足感に包まれ、しばらくの間ニヤニヤしていると。


「長田悠一じゃない」

「城山真妃……?」


 屋台に訪問者がいた。その正体は城山真妃。僕のクラスメイトだ。吊り目でちんちくりんで、一目見た人は生意気そうな女の子だと思うだろう。そして二目三目と見て、彼女と学業を共にすれば思うだろう、生意気な女の子だと。


「さっきの舐めた真似はあなたね?」

「なんのことかわからないけど」


 僕が惚けると、城山は屋台のテーブルを力強く叩く。この細い腕のどこにそんな力があるものか。


「私のバイオリンに変なラッパで乱入したでしょう!」


 きんきんと高い声で、城山は僕を指差してそう言った。驚くと同時に、少しほっとした。そして、ちょっと残念にも思えた。


「あの演奏は城山だったのか」


 ちょっと憧れていたバイオリンの君とは城山のことであった。僕は苦虫を舐めしゃぶっているかのように複雑怪奇な顔を見せていただろう。彼女は僕を指していたその指を思い切り弾く。いわゆる、デコピンだ。


「いたっ、何するのさ」

「私に変な顔を見せるからよ」


 僕の気も知らないで、などと口走りそうにもなったが思い止まる。『バイオリンの君』などと妄想していたことを城山に知られるのは、なんともシャクであるからだ。

 城山は薄茶色で大きな瞳を屋台のあちらこちらへと向けて、言った。


「ラーメンの、屋台? ってやつ? 長田がやってるの?」

「父さんだよ。僕は手伝わされてるだけだ」

「ふうん。ねえ、無礼のお詫びに一杯ご馳走しなさいよ」


 無礼とは何か、と僕が首を傾げると「変なラッパよ」と、城山にがなられる。席に座り込んでつまらなそうに頬杖を突く彼女を見ると、僕はため息を吐きながら湯を沸かし始めた。こうなると彼女は頑固だ生意気だ。クラスの様子から僕はそれをよく知っていた。だから仕方なしにラーメンの準備を始めたのだ。


「私は塩ラーメンが好きなんだけど」

「あいすみません。うちは醤油しかやってないので」

「つまんないの」

「夜中にラーメン食べたら太るぞ」

「そんな時間に屋台を引いてる人に言われたくはないわね」


 まったく口の減らない。僕は麺を茹でる。


「いつからここで商売してるの?」

「今年の四月」

「あら、結構最近なのね。あれ? ということはもしかして……」

「ああ、その頃は死にかけの鼠みたいな演奏だった」

「余計なお世話よ!」


 当時は全くの初心者だったのだろう。苦手な場所もあるようだが、それをここまで上達させたのだ。並々ならぬ日々の努力をしていたことだって僕は知っている。しかし恥ずかしいから口には出さない。生意気だし、口には出さない。

 僕は丼にカエシと温めた出汁を注ぎ、麺を湯切る。


「手慣れたものね」

「門前の小僧の見様見真似だよ。それでも仕込んだものを出すだけだから簡単なんだ。もちろん客に出すものは作らないんだぞ」


 カップ焼きそばの湯切り程度のことだよ、と僕は嘯く。城山はカップ焼きそばに合点がいっていないようだったが、僕は無視して調理を続けた。ネギ、メンマ、チャーシューをトッピングすれば。


「おまたせ」

「わあ……!」


 塩ラーメンが好きだ、なぞと言ってはいたが夜食ラーメンを目の前にした人間は皆こうもなろう。目を輝かせ、丼の熱を手から感じ、湯気に煙る。カロリーと背徳感たっぷりのスパイスは、ラーメンの味を何倍にもするものだ。

 薄色で透き通ったスープはチャーシューの油で輝く。城山は前髪を横にかき上げ、熱気で上気した頬が露だ。持ち上げた麺に息を吹きかける様は、どうにも艶っぽくて僕は目を逸らしてしまった。そんな様を城山に見られてしまっては笑いものだ、と焦りもしたがそれは杞憂だった。彼女は既に夜食ラーメンの虜であった。

 ラーメンは豪快に啜り食べるもの、というイメージを僕は持っていた。しかし城山が僕のラーメンを食べる様子はどうもそれとは違うように思えた。ふうふうと一生懸命に吐息で麺を冷まし、その小さな口でつるつると数本ずつ吸い込み、実に上品に食べる。いや、品はあるのだがその食べ方は小さな子どもをも連想させる。その必死な様子を、僕は見守らずにいられなかった。

 ふと、目が合う。彼女はラーメンに夢中だったことを恥じたのか、上気した頬をさらに赤く染めた。僕もばつが悪く、思わず話を振った。


「バイオリンはコンクールとかあるの?」

「……今週末。三日後の日曜日」

「上手く弾けてないところがあるみたいだけど大丈夫?」


 城山の手がピタリと止まった。どうしたのかと思っていると、今度はぷるぷると小刻みに震えて、あろうことか大粒の涙を流し始めた。それを見た僕といえば、おろおろと狼狽する以外に他なかった。


「大丈夫な訳、ないじゃないの」


 そりゃあそうだ。僕は軽率な発言を後悔した。どうして僕はそんなことを聞いてしまったものか。毎夜毎夜、彼女が必死に練習を重ねてきたことなんてようく知っていたではないか。愚かで無礼な自分の性分に気付き、消えてなくなくなりたい思いだ。


「毎週末には先生に教えてもらって、平日にも毎晩自主練しているのに全然出来ないの。もう嫌。コンクールなんて出たくない」


 嗚咽。そして慟哭。もともと背丈の低い城山がより小さく、延いては幼い子どものようにも見える。どうしようなくなった僕は、彼女の丼に煮卵を追加した。城山もそれに気付き、上目遣いで僕を見る。まだ鼻を啜っているが、恐る恐ると卵に箸を伸ばした。


「……美味しい」


 城山の頬少し綻ぶのを見て、僕は少しほっとした。


「僕は音楽なんて、ましてやバイオリンの良し悪しなんてわかりやしないけど、城山の演奏は毎日楽しみだったよ」


 恥ずかしくて目を逸らしたいけれど、じっと彼女を見て、言う。


「弾いている自分では分からないのかもしれないけれど、少しずつ上手になってた。無責任な発言だけど、城山ならきっと出来るよ」


 ぽかん、とした顔だった。そして涙を拭い、いつもの強気と生意気で僕に言った。


「そうよ。私は城山真妃。これくらいの困難はお茶の子さいさい。長田に言われなくてもわかってる。だけど」


 小さく。蚊の鳴くような声で。


「ありがと」


 城山は残りのラーメンを慈しむように食した。


「この卵もっとない?」

「僕の夜食用しかない」

「それでいいからちょうだい。あとチャーシューとネギとメンマも」

「欲張りすぎる」

「それと麺も」

「おかわりなの!?」


 ───

 ──

 ─


 慣れないことをするもんじゃあない、柄にもないことを言うもんじゃあない。あの後、僕は高熱を出して寝込んでしまった。城山に指で弾かれた額から波紋のように熱が広がり、今では全身が高熱を発している。父の屋台に連れていかれることもなく、僕は布団で一人だ。

 朦朧とした意識の中で気にするは城山真妃のこと。少し話しただけで意識が向いてしまうとは、我ながらどうしようもない阿呆である。しかし阿保は阿呆なりに考える、心配することもある。僕が寝込むは三日目、そして日曜日。そう、満帆に行っていれば彼女は今ごろコンクールに出場している頃合いだろう。あの時は子どものように駄々を捏ねていたように思えるがちゃんと出場したのだろうか、出場したのならば無事に演奏できたのだろうか、あの苦手な場所はどうなったのであろうか。

 心配の種は芽が出て膨らんで花が咲いて実がなる、そしてまた種を世界に撒き散らす。こうして心配の種は絶えることなく、僕の心を蝕み続ける。それはまるで、僕の心に根を張って栄養を奪っているかのようであった。

 その夜、僕はうんうんとうなされながら実に妙な夢を見た。昼だか夜だかわからない白黒の世界。知らない街の知らない場所。途上国の異国情緒に溢れた街並みは雑多であり、増築に増築を重ねた多くの建物は所々が通路で立体的に交差しながら繋がる。動物のお面で壁が彩られていると思えば、猫耳メイドロボットが客引きをしている。ただし、その尻尾は爬虫類である。

 よく見ても見なくても、その街には人がいない犬もいない猫もいない。無機質に宣伝を続けるロボットの声だけが無常に響く。建物の窓は全てカーテンがかけられ、中の様子も窺い知れない。

 僕は広場に出て時計台を見上げた。その不安定な頂上には一人の少女。袴を着て狐の面で顔を隠した少女はバイオリンを持っている。更にいえば裸足である。お面をしていてもわかる生意気さ、そしてちんちくりん。その正体は城山真妃とわかる。

 彼女は僕に気付く様子もなく、バイオリンを弾き始める。弓が弦に触れ音が響き始めたその刹那、モノクロだった世界が瞬時にしてカラフルに彩られ始めた。城山の赤毛も、細く生白い腕も、楽器も、空も、建物も。極彩色の世界を楽しむように演奏をする城山は縦横無尽に時計台を飛び回り、飛び散る汗さえも美しかった。いつも練習しているあの曲の筈であるのに、その印象は普段とは違うように感じられていた。そして何よりも、彼女が遠く、とても遠くにいるようにも感じられていた。面で隠され窺い知れない表情もまた、時計台が高すぎて見上げることしかできないでいた。


「そろそろだ」


 サビが始まってあと少し、三、二、一。


 そこで僕の目は覚めた。汗で張り付いたパジャマは冷たく不愉快だったが、お陰様でか僕の熱は完全に引いているのであった。


 翌日の月曜日。僕は完全復活を果たして登校した。なんとなしに城山を目で追ってしまう。相変わらずちんまいし、口を開けば高飛車な物言いを級友に見せている様子はやはり生意気を思わせた。

 僕と彼女はクラスの中で特段に仲が良いというわけでも、積極的に言葉を交わすというわけでもない。ただのクラスメイト、というのがお互いの総意であろう。それはあの夜の出来事こそが実は夢だったのではないか、などと錯覚するほどであった。


 授業が終わり、帰りのホームルームが始まる。大きな連絡事項もなく終わると思いきや。


「皆さんにお知らせです。城山真妃さんが昨日行われたバイオリンのコンクールに入賞をいたしました」


 思わず城山を見る。すまし顔で席に座る。まるでなんでもないことのように、だ。


「皆さんの前でも演奏をしてくださいとお願いしたところ、城山さんは引き受けてくださいました。今日、これから演奏してくださいます」


 では前に、という先生の合図を受けると城山は、ケースからバイオリンを取り出して教壇へ向かう。威風堂々、肩で風を切るように、彼女は衆目に立つ。少し大きめの夏服、長めのスカート。そこにバイオリンを構える彼女はどうも教室にそぐわなく見え、あろうことが失笑している愚かものまでいた。

 弓が弦に触れる。楽器が音を奏で始めたというに、教室は静寂に包まれたようだった。演奏が観衆を引き込んだのだ。教室中に響き渡っているにもかかわらず、僕には周りが飲む息の音までもが聞こえていた。

 夢で見た彼女とはもちろん違う。袴でもないし狐の面もない、裸足でもない。舞台は時計台でもないし、縦横無尽に飛び回ってもいない。新鮮な面持ちで、細く長いまつ毛が音に合わせて揺れる。どこもかしこも夢とは違うのに、その演奏が夢で聴いたものと似ているように感じるのは何故なのだろうか。

 もはやクラスは城山に夢中であった。誰も彼もが彼女に注目している。それなのに僕は思わず顔を逸らしてしまう。


『そろそろだ』


 どうしても城山が苦手としていた場所。サビが始まってあと少し、三、二、一。


 僕は顔を上げた。彼女の演奏は止まらなかったのだ。止まるどころかそれは勢いを増し、どこまでもどこまでも高く上る。あの夜の夢のように、時計台の上に登るように、高く、高く。それは遠くまで上るものだった。

 孤高という言葉が僕の頭に浮かんだのと、彼女の、たった一人の演奏会が終わったのは殆ど同じであった。城山は指で弦を一度、弾く、爪弾く。

 額から流れた汗は赤くした頬を伝わり、顎へ。雫となって床へと落ちる。息も上がり、薄手の夏服は彼女の肌にくっついている。城山は軽く頭を下げると、早々に片付けをして立ち去っていった。

 演奏の余韻に浸っていた教室の面々は声をかける暇すらなく、ただ彼女を見送ることしかできなかったのである。僕も含めてだ。

 まさに孤高、まさにバイオリンの君。何者も寄せ付けないようなその様は、先日僕のラーメンを食べながら幼い子どものように泣いていた城山と同一人物とはとても思うことができなかった。


 それからの僕はあまりにも酷かった。上履きのまま下校してしまうは、下校中にはドブにも落ちる。さらに犬の尻尾を踏んで追いかけられれば道端の空き缶に足を取られてすっ転ぶ。もちろん全ては上履きのままである。

 ぼかんと口を開けた阿保面を引っ提げて、うすらぼんやりと空ばかり見ていたからである。頭の中では何度も何度も城山の演奏と、ラーメンを食べている姿が繰り返し思い出されていたからである。

 有り体に言えば、僕は彼女に突き落とされてしまったのだ。恋に落とされてしまったのである。しかし落とされた先は奈落の底であり微かな光さえも見えずに僕はもがくばかり。僕の居場所から彼女までは遠く、そして高いということだ。

 ラーメン屋台で日銭を稼ぐ父に育てられる阿呆な僕と、バイオリンを嗜みお屋敷暮らしの城山である。あんなにも格好良く全力で楽器を奏でる城山に、ぐうたらでどさんぴんな僕である。一人で僕を育て上げる父は尊敬し、感謝こそしているが産まれの差からしてどうしようもない。

 だから僕がぼうっと空を見上げ、おぼつかない足元で大惨事を繰り広げてきたことは仕方のないことなのである。上履きがドブに汚れ、片方を犬に奪われてしまったことも仕方のないことなのである。

 だから今日は屋台について行かず家でごろごろしていたいと主張をしてみたものの、それは決して父に許可されず、僕はさめざめと泣きながら屋台で明日の宿題に取り組まざるを得ないのだった。半酔っ払いの野次にも負けず、隣から香るラーメンの誘惑にも負けず。僕は心を無にして方程式を解き続けた。


「父さん、屋台を閉める準備をしないの?」


 普段の父ならば締め始める時間をとうに過ぎた。だというのに父は素知らぬ顔で調理台に立ち続けている。喫煙者はタバコを吸わないと苛々するのではないか? タバコを切らしているのか? 僕にその八つ当たり被害が来たら嫌だなあ、などとノートに向かいながら考えていると、来客である。


「あなた、こんな所で勉強をするの?」

「別にどこでやろうと僕の勝手だろう」


 城山真妃であった。ラーメン屋台に増設された文机モドキで勉強をしている僕は実に滑稽であろう。ぶっきらぼうに応えてしまったのはその照れ隠しである。

 城山は客として来店したようだ。屋台の席に着くと、僕の父にラーメンを注文する、煮卵のトッピングを付けて、だ。煮卵は余れば僕の夜食にスライドする方式であるため、本日最後の煮卵を奪われた僕はうなだれる。


「食べ比べるとやっぱり違うものね。長田が作ったのと、あなたのお父様が作ったものには大きな差があるわ」


 異なことを言うものだ。城山が僕と父のラーメンを食べ比べた? この前まで屋台が出ていることも知らなかったではないか。まさかとは思うが。


「僕が寝込んでいる時も食べに来たのか」

「ええ。お父様のラーメンは一級品だけれど、あなたのは所詮模倣品に過ぎなかったわ」


 僕は普段ラーメンを調理するわけではないのだからその評価は至極真っ当なものである。とはいえその言い草に立てる腹を持つこともまた真っ当である。僕がぶすくれていると、彼女は言う。


「長田、私に何か言うことはないものかしら?」


 名指しで問われるたことに僕は心臓が強く打ったのを感じた。まさか僕の好意が明け透けにバレていて『私のことが好きなのでしょう、告白なさい』などと遠回しに誘導されていると妄想するほど僕の頭もおめでたくはない。『もっとラーメン作りに精進します』などという彼女の人生になんら関係のない宣言をさせるほど、彼女も暇ではないだろう。


「演奏、よかったよ」

「そう」


 自ら問うておいて『当然』という顔をする。これが生意気と言わず何と言おうか。僕は彼女の演奏に気になる点があったことを思い出し、聞いた。


「教室で聴いたものと、僕が普段聴いていたものは違う曲かと思うくらい印象が違ったのだけれど」

「私はコンクール用の練習をいつもしているの。教室で弾いたのは違う。あれは私のリサイタルというべき場だもの」

「ふうん、演奏する場で変わるものなのか」

「コンクールは譜面通りに弾くの。楽譜の解釈なんて要らないわ。だけど教室では私が弾きたいように弾いたのだから、それはもはや別の曲に聴こえても可笑しくはないわね」


 そうなのか、と僕は一人納得した。


「私のバイオリンに乱入してきた無礼を覚えてる? 今思えば、あのラッパは実に自由で楽しそうに吹いていたわ。私ね、譜面通りに弾いてばかりだったからそれが羨ましかった。だから、真似じゃないけど、私も一度好き勝手に弾き散らかしてみたの。そしたらどう? 苦手だった場所もなんのその。通して弾き切ることはなんとも容易だったわ。その後は不思議なもので、譜面通りに弾いても失敗しなくなったの」


 僕は実に驚いた。軽い気持ちで、悪戯心で吹いたあのチャルメラが彼女に影響を与えていたとは。人間万事塞翁が馬とはこのことか。まっことこの世はわからない。


「長田。あなた、私の伴奏者をやる気はない?」

「ば、伴奏者?」

「そうよ。私が弾くバイオリンを引き立て盛り上げるピアノの伴奏者」


 城山は突然何を言い出すものか。僕は理解が追いつかずおうむ返ししかできないでいた。


「一緒に高め合いながらも私を引き立てるに値する伴奏者を探していたのよ。その点、あなたは悪くないわ。私と並んだら誰もあなたが主役とは思わないものね」


 城山はケラケラと笑う。流石の僕も少しムッとした気持ちが湧き上がってきたが、彼女は続けて言った。


「私の曲に合わせてあんなにも自由で楽しそうにラッパを吹いていたんだもの。音楽の才能だってもしかしたら長田にはあるかもしれないわ。それに」


 目を背け、ちょっと歯痒そうに。


「私がスランプを抜けたのだって長田のおかげだもの。あなたなら、あなたとならできるわ」


 面を食らい泡も食った。城山からそのように殊勝な言葉を受けるとは思ってもいなかったからだ。学校で見る城山とはどうにも違って僕はどきまぎと狼狽えてしまう。


「でも、僕はピアノを弾いたことがない」

「私だってバイオリンは始めたばかりだし、これから練習するんじゃないの」

「ピアノを弾く環境だってうちにはない」

「学校で借りればいいし、なんなら私の家で弾けばいいわ」

「父さんの仕事の手伝いだってある」

「どうかしら? お父様?」


 いいよ、と軽い返答。

 困ったな。断る理由もない。そもそも困ってなどいないのではないか。僕は城山が好きなのだ。僥倖を素直に受け止めるべきではないのか。


「さあ、はっきり答えなさい。私の伴奏者をやる気はあるのかしら?」


 城山は僕に向かって手を差し伸べた。

 目の前に垂れ下がるまさに蜘蛛の糸ではないか。


「僕でいいの?」


 城山は答えない。曖昧な返事など、もはや求めてはいないのだ。


「──やってみたい。いや。僕は君の伴奏者をやりたい」


 城山はゆっくりと頷く。僕は城山の手を取ろうと腕を伸ばした。

 が、父の「できたよー」と言う間の抜けた言葉に城山の腕と心は引っ張られ、城山は丼を、僕は空を掴むのであった。


 ───

 ──

 ─


 その夜、僕はまた夢を見た。奇妙奇天烈な街並みはそのままであるが、始まりから彩色済みである。空は高く晴れ上がり、雲一つない。広い広い街に、やはり僕と城山真妃は二人きりであった。

 知らない街の時計台のてっぺんで、僕と城山は手を繋いで踊る。下から見上げていた僕は城山に引っ張り上げられ、気付けば狐の面も消えていた。背の低い城山に合わせてステップを踏むのは大変に骨が折れたが、それもまたよし。

 這い上がり、並び立ち、互いが互いを引き立てている。その関係に上下はなかったが、やはり城山はおすまし顔で生意気であった。

 僕は彼女の肩に手を置き、顔を近付けて唇が触れる距離に迫る──ところでやはり目は覚める。こんな夢を見てしまう僕はやはりどうしようもない程に阿呆であった。

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その音色は夏の夜風に乗って 平賀・仲田・香菜 @hiraganakata

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