第5話 水面と大気圏を超えて
☼☼☼
「えー、ハル君って虫とか殺せるんだ、意外」
高い声で言われた言葉に、晴野江は一瞬固まる。「あーいや、逃がしても戻ってきそうだったんで、つい」と返した言葉は乾いて聞こえていないだろうか。顔はいつも通りの笑顔を取り繕えているだろうか。
自分では上滑りして空虚に聞こえる笑い声に、けれど先輩が気分を害しているような様子はない。でも、心の中ではイメージと違う事に落胆しているかもしれない。虫も殺せないくらい優しいはずの後輩が、なんの躊躇いもなくティッシュで虫を押しつぶした様を、この人はどんな風に捉えたんだろう。
「ハル君って、虫とか見たら悲鳴あげて逃げるタイプだと思ってた」
ぐにゃり、と先輩の輪郭が歪む。いつもの事だ。晴野江と他人の間には、水で出来た壁があるのだろう。プールの床が歪んで見えるのと同じ原理で、他人から見える晴野江はいつだって、晴野江の知らない形をしている。
それはいったい誰なんだと問いただそうにも、水面の向こう側に言葉が届くことはない。だから、曖昧に笑って、晴野江は息苦しさを飲み下した。楽しいはずの、さっきまでは確かに楽しかったはずのざわめきが、途端に耳障りな喧噪に変わる。ゆれて、ねじれて、苛立ちがさざ波のように広がる。
「あ、えり先輩、須見先輩が探してましたよ。なんか買い出しがどうのって」
先輩の後ろから顔を出したのは、主役のはずなのに何故かゴミ袋を持った新入生だった。伝言を聞いた先輩は「えー、もう、またジュース飲み切ったのかなぁ」とぼやきながら、須見の方へと駆けていく。
「はい、先輩、ゴミ貰いますよ」
歪んだ視界の向こうで、その後輩は晴野江にゴミ袋を差し出す。
「ゴミ集めるの代ろうか、今日は一年、主役でしょ」
「えー、いいですよー。お客さん待遇はちょっと緊張するので」
後輩は声を低めて、小さく笑った。
「それより、そのティッシュ。虫殺したやつなんでしょう? 早く入れちゃってください」
ゴミ袋をがさがさと揺らしながら、後輩は晴野江の手元を指さす。聞こえていたのか、と気が付いて晴野江は自嘲的に笑った。水の向こう側から見たら、人好きのする微笑みにでも見えているんだろうか。そう思うと認識の齟齬に吐き気がした。
「虫、殺せるの意外でしょ」
「そうでもないですけど……だって、晴野江先輩、この前部室で小さい羽虫殺してたでしょ」
後輩はきょとんと首を傾げた後で、柔らかく微笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「それに、意外かどうかが分かるほど、私、先輩のこと知りませんし」
まるで、落雷に打たれたような。初めて、同じ言語を使う人に出会ったような。強い衝撃が全身を貫くように駆け抜けて、次いで視界が滲んだ。後輩からしたら、きっと何でもない言葉で。この衝撃も、救われたような気持ちになったことも、恐らく伝わらない。何でもない言葉が水で歪んで、晴野江に届くときには柔らかな陽光に変わっている。
初めて、自分と他人を隔てる水の壁に感謝できるような気がした。
「ありがとう」
低くかすれた声で呟きながら、ゴミを袋に入れる。後輩は「いえいえ」と笑って袋を下げた。含んだ感謝の重さに、彼女が気づいた様子はない。晴野江は知らず笑みを浮かべながら、後輩の方に手を伸ばした。
「やっぱり、ゴミ集め手伝うよ」
もう少し、話がしてみたいから。そんな下心は、どうか伝わらないで欲しい。
☼☼☼
楽しい時間ほど早く過ぎるというのは本当のようで、ミナミにとっては瞬きの間に買い出しは終わってしまった。買った物が入ったビニール袋を揺らしながら、駅までの道を戻る。
「色紙と、クレヨン、と画用紙……ん、全部あるね」
部長のメモと袋の中身を照らし合わせて、晴野江は頷いた。買い忘れたものがあれば、まだもう少し一緒に居られたのに。未練がましくそう思って、短く息を吐きだした。
夢はいつか醒める物で、今日は必ず終わるものだ。だから、仕方がない。終わらないで、と願うことも、ましてや縋りつくなんて。星に手をのばすばかりで、大気圏を突き抜ける勇気もない人間には、とても、許されない。
「これ、明日学校にもっていけばいいんですよね?」
ビニール袋を持ち上げて、首を傾げる。晴野江は「あー、うん、そう、だね」と歯切れ悪く頷いて、すぐに目線を下げる。
あぁ、夢が終わってしまう。楽しかった気持ちが急速にしぼんでいって、どうやって歩いているのかも、分からなくなる。こわい、いやだ、このまま時間がとまってほしい。醜い願いが胸の中で零れ落ちて、唇をかみしめる。今日のために塗ったグロスが苦かった。
☼☼☼
終わってしまう。駅に着いたら方向が分かれるから、タイムリミットはそこまでだろう。何か。何か、言わなければ。そうしないと、このまま、何も進展しないまま、終わってしまうから。
晴野江は水を通しても歪まない言葉を考えながら、どうにか足を動かす。普段よりも歩幅が小さくなっているのが分かった。ここまで来て怖気づいている自分に気が付いて、舌打ちをしたくなる。言わなきゃいけないことなんて、ひとつしかない。ないのに、言葉が出てこない。深い水の奥から、揺らめく一ノ瀬を見る。唇をかみしめたその表情に、思わず足を止めた。
だって、まるで、この時間の終わりを惜しんでいるような。言いたいことを我慢しているみたいな。そんな顔はあまりにもずるい。浮ついたままの思考が期待を膨らませる。勘違いかもしれない。水で歪んで、全部、見間違えているのかもしれない。
でも。
でも、もしかしたら、期待通り、かもしれない。
晴野江は衝動的に手を伸ばした。水を突き破って、一ノ瀬の細い指に触れる。緊張で心臓が痛くて、触れ合った指先が熱くて、気を抜いたら涙が出そうだった。
「いちのせ」
ゆるく繋がった手を見ながら、言葉を吐きだす。どうか、この言葉は、まっすぐに伝わってくれたらいい。
☼☼☼
「いちのせ」
いつもより低い声で囁かれた名前に呼吸が止まった。晴野江の顔は耳まで真っ赤で、初めて触れた星の体温は想像よりもずっと熱かった。痛いくらいに心臓が波打っている。何を言われるのかと恐々とした期待が膨らんで、弾けるのを待っている。
「おれ、が、今日髪の毛、とかセットしてんの、一ノ瀬に恰好いいって思ってもらいたい、からなんだけど」
はく、と吐息が零れた。それは。そんな言葉は、心臓にまっすぐ届きすぎてだめだ。もう目の前の晴野江しか視界に入らない。彼の声しか聞こえない。その瞬間のミナミの世界は、ぜんぶ、晴野江で出来ていた。
「いちのせが、可愛い恰好してんのも、俺のためって、自惚れても、いい?」
ゆるり、とあげられた視線に囚われて、声が出てこない。赤い顔も、触れた指の熱さも、告げられた言葉の甘さも。何もかもが許容量も越えていて、はく、と息を吐き出すことしかできない。答えをねだるように、指先に小さく力が込められた。星の引力に寄せられて、どうにか口を開いた。
「先輩の、ためですよ」
震えた声が落ちるのと同時に、晴野江が深く息を吐き出して座り込む。繋がれた手が小さく震えていて、ふと、気が付く。
あぁ、そうか。この人も、きっと同じくらい臆病なのだろう。
人に触れるのも、触れられるのも、近づくのも、離れるのも、全部怖くて。でも、求めて、止められない。臆病な、恋をする人間なのだろう。
そう気が付いたら、なんだか可笑しくて、笑みがこぼれた。
「にこにこしてんのは可愛いですけどね、笑われんのはちょっとばかり腹立たしいもんですよ、お嬢さん」
ふざけた口調でそう言って、座り込んだまま晴野江は上目遣いでミナミを見やる。その拗ねたみたいな顔が、知っている晴野江よりも随分子供らしくて、また笑ってしまった。
一番星はきっと星じゃなかった 甲池 幸 @k__n_ike
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます