第4話 可愛さに実態があったら、押しつぶされて多分死んでた
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飛ぶように時間は過ぎて、なんの心構えも出来ないまま買い出し当日がやってくる。ショーウインドウで前髪を確認して、ミナミは意識的に深く息を吐いた。ゆるく巻いた髪も、クローゼットの奥から引っ張り出してきたワンピースも、何度も塗りなおした爪先のペディキュアも。
纏っている全部がいつもと違うせいで、さっきからずっと落ち着かない。
スマホのスリープ画面で風に崩された前髪を直して、また深く息を吐き出す。緊張と不安と、何度殺しても蘇ってくる期待のゾンビが胸の中で暴れまわっていて苦しいくらいだった。
たぶん、きっと、こんな風に出かけることはもう二度とない。
恋心を殺す前に与えられたたった一回きりの夢。
今日が終わって、夢から醒めたら、その時は──
「おはよ」
思考の外から突然かけられた声にミナミは勢いよく顔をあげた。いつも遠くにある晴野江の瞳と真正面から視線がぶつかって、時間が止まったような気分になる。
髪型がいつもと少し違うことだとか、正面から見た瞳はことさら綺麗に見えることだとか、頬をかく指にシルバーのリングが嵌っていることだとか。そういう細かなところばかり気になって、返す言葉が出てこない。
あぁ、だめだ。夢、みたいだ、本当に。いつもは寝ぐせも直さずに学校に来るくせに、今日に限って髪の毛をセットしているのはずるい。それじゃあまるで。
まるで、晴野江も今日を楽しみにしていたみたいだ。いつもより楽観的で浮ついた思考がはじき出す希望的な答えを心のなかでめった刺しにして、ミナミはなるべく平静を装って声を出した。
「おはようございます」
なんでか視線をそらして、口元を覆った晴野江は呻くように「おはよ」と同じ言葉を繰り返した。
「待たせてごめん。もう来てると思わなくて……そこのカフェには居たんだけど、あいや、どうでもいいか。ごめん」
心なしかいつもより早口に告げられる言葉にミナミは小さく笑った。夢のような状況に、自覚している以上に舞い上がっているようだった。でも、そう、これは一度限りの夢だから。それなら、酔いしれてしまっても明日の自分は許してくれるだろう。
「先輩、緊張してます?」
晴野江は一瞬目を見開いて固まった後、ふい、と顔を逸らして低く呟く。
「そりゃあ、初めて……だし」
絹じゃなくて、木綿の声。ミナミの好きな、仮面の奥の晴野江の声。そんな声が朝から聞けたことが嬉しくて、ミナミはまた小さく笑った。晴野江の前でこんな風に笑えるのは、随分久しぶりな気がした。
あぁ、なんて幸せな最期だろう。こんな素敵な夢で終われるなら、届かないと知りながら手を伸ばしていたことにも、意味があるのかもしれない。浮ついた思考のままに、ミナミはまた笑みを浮かべた。
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その姿が視界に入った瞬間。心臓が止まったんじゃないかと思った。風をはらんで膨らむ小花柄のワンピースとか、ゆるくウェーブを描く艶のある髪の毛とか、ストラップで止めるタイプのローファーとか。
いつもと随分、雰囲気が違う。私服の一ノ瀬を見るのは初めてなのに、どうしてか一目で彼女だと分かった。そのまま、ぼう、と見惚れる。
ショーウィンドウを見て、携帯の画面を見て、なんども手櫛で前髪を整える仕草が可愛らしくて呼吸が止まった。今日、自分は死ぬんじゃないかとか、もしかしたら今のでもう死んだのかもしれないとか、そんなことを本気で考えて。ああ、これは随分浮かれて馬鹿になっている、と気が付いた。
徹夜で洋服選びに付き合ってくれた須見が朝から「うわ、頭の悪そうな顔」と言ってきたのは、あながちただの悪口でもなかったらしい。
人差し指につけたシルバーのリングを何度か回して、深く呼吸をしてから、晴野江は一ノ瀬に声をかけた。
「おはよ」
スマホを見つめていた一ノ瀬が顔をあげて、正面から視線が絡む。長いまつ毛、仄かなオレンジで縁どられた瞼、淡く色付く唇。
もしかしなくても、これは、結構浮かれているのは、彼女も同じなんじゃなかろうか。なんて、夢みたいな、あまりに馬鹿々々しい考えを慌てて頭の隅に追いやる。
頭の悪そうな顔を一ノ瀬に見られるわけにはいかない。どんな顔かしらないけれど、たぶんほぼ間違いなく、格好いい先輩の顔ではないから。
「おはようございます」
思わず呻き声をあげそうになって、晴野江は視線を逸らした。鏡を見なくても、自分が真面な顔をしていないのはよく分かる。もう思考回路はオーバーヒート寸前で、なにも考えられないまま言葉を返す。日本語を喋れたかどうかも怪しかった。
待たせたことは謝れたような気がするけれど、どうにも余計なことを口走った気がする。だめだ、浮かれるな、落ち着け。ちょっと一回深呼吸でもした方がいいんじゃなかろうか。いやでも、待ち合わせていきなり深呼吸する先輩ってどうなんだ。
脳内会議は意見の大渋滞で一向に結論が出ない。出ないまま奇行にはしるところだった晴野江の耳を柔らかな笑い声が揺らす。視線を向けて、文字通り固まった。
「先輩、緊張してます?」
そうだ、彼女は、こんな風に笑う人だった。さっきまでとは比較にならないくらい心臓がうるさくて、格好いい先輩なんて仮面を被っている余裕もなくて。うっかり低い声が出た。
「そりゃあ、初めて……だし」
いつだったか、告白されて付き合った人に怒っているみたいで怖いと言われた声。それからずっと意識して柔らかい声を作ってきたのに。怖い人間だと思われたらどうしよう。怒っていると勘違いされるのは困る。違うと言葉を尽くせば分かってくれるだろうか。
空回りしてばかりの思考でどうにか言い訳を探す晴野江の視界の隅で、花が綻ぶように一ノ瀬はまた笑った。
その微笑みが、あんまり綺麗で優しいから。晴野江はうっかり泣いてしまいそうだった。
あぁ、そうだ。一番弱いところを的確に射抜いて照らし出されるように優しくて、無条件に泣きたくなるような暴力的な、その微笑に。晴野江は、あの日、恋に落ちたのだ。
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