第3話 呪いは飲み込んで激励を
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よく、夢を見る。深い海の底でひとりぼっちで息をしている夢だ。遠くに光る水面には手が届かなくて、吐き出す気泡だけが簡単にその光の中へと混ざる。大事な人はみんな水面の向こう側に居て、晴野江の気泡には気が付きもしない。
海の底では、誰にも届かない気泡と冷たい孤独だけが晴野江を包んでいる。
いつも、そんな夢を見る。ふらりと起き上がって、目元の涙を拭ったころにようやく、気泡は言葉だったのだと思い当たる。心臓が無くなってしまったみたいな、肋骨の内側がまるまる空洞になってしまったような。そんな感覚に耐えられなくて、晴野江は布団の上で膝を抱えた。丸くなった自分の体が温かいことが気に食わなくて、奥歯を強く噛んだ。
いっそ、夢の中みたいに冷たい場所に居たら。
そうしたら、たった一人に焦がれる熱さなんて、知らずに済んだのに。
深く息を吐き出してから、立ち上がってくたびれた制服に袖を通す。一ノ瀬の制服はもっと新しくて、パリッとしている。爪の形は綺麗で、右の中指にペンだこがある。そんな些細な特徴ばかり覚えていると知られたら、今よりずっと距離が出来てしまうだろうか。「え、先輩きもち悪いですね」とか言われたら、ちょっと立ち直れる気がしない。
朝から重たいため息を吐き出して、代わりに朝ご飯を胃に詰め込んで、晴野江は家を出た。ちょうど隣の家から須見が出てくる。目があった瞬間に「うげぇ」と顔をしかめられた。夢の名残でいつもの顔にもざっくり傷つく。痛い。
「朝から辛気臭ぇ顔してんなよ、俺まで運気が下がるだろうが」
なんとも理不尽な文句だ。
「俺の顔の辛気臭さくらいで下がる運気ならもともと大したことないでしょ、潔く諦めろよ」
軽口を返して隣に並ぶ。律儀にもそれを待っていてくれた友人と揃って、通学路を歩く。ついこの間まで桜が咲いていたはずの街路樹は青々とした葉をつけている。当たり前だ。もう七月も終わりに近いのだから。進んでいく時間に反して、好きな子との関係性は退行の一途を辿っている。深く吐き出したため息に隣から「ははッ、辛気臭ぇ」と乾いた合いの手が入った。
「もう一足飛びでデートとか誘って来いよ」
無理難題を押し付けてくる友人をジト目で睨む。
「一足飛びでデートに結びつくような距離にいねーよ、飛んでも精々連絡先の交換とかだろ」
「お前、まだあいつの連絡先知らねぇのかよ、亀かよ」
須見は「俺でも知ってるぞ」と付け足して、足元の小石を蹴った。小さな石はコロコロとアスファルトの上を転がって、側溝の中に落ちていく。ぽちゃん、と水が跳ねたのが遠目に分かった。「あーぁ」と低い声が重なる。「下手くそ」と続けたのは晴野江だけだった。返答の代わりに脇腹を結構本気で殴られて「ぐえ」と短く悲鳴をあげた。痛い。
「あ、そういや今度の部活の買い出し、俺行けなくなったから」
「は? 明後日なのに今から代役探せってか?」
「安心しろ、俺が探しとく」
晴野江はぱちくりと瞬きを繰り返して、それから友人の思惑に気が付く。
「お前、すっげーくだらねー事考えてない?」
「本気で下らねぇと思ってんなら、とっとと諦めて次探せよ。ヘタレ」
片眉をあげて得意げな顔で笑う須見に晴野江はぐっと言葉を詰まらせた。返す言葉は見つからなかったが、ひとつだけ。この案外子供っぽい友人はさっきの「下手くそ」によほど腹を立てているらしい。
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須見康太がミナミのいる教室にやってきたのは、昼休みが始まって二十分ほど経ってからだった。静かな動作で教室の扉が開き、入ってきた人物にそれとなく視線が集まる。
やってきたのが須見だと分かると、一部の女子が湧きたつように小さな歓声をあげた。「須見先輩だ」「かっこいー」「誰に用事なのかな」教室の端の方から彼を見つめる視線は気にも留めずに、須見はまっすぐに一ノ瀬の方にやってきた。
「一ノ瀬」
弁当の卵焼きを突いていたミナミは低い声に顔をあげる。目の前の友人が小さく悲鳴をあげたのが視界の端に映った。大人っぽい顔をして意外とミーハーなのだ、彼女は。
「須見先輩こんにちは、どうかしました? 今日の部活中止とかですか?」
「んや。今日はいつも通り外集合」
「なんだー」
「無い方が良かったのかよ?」
「えー、だって今日、欲しかった本の発売日なんですもん」
「そりゃあドンマイ」
苦く笑った須見に「それで、どうしたんですか?」と本題を促す。
「お前、明後日空いてるか?」
友人が飲みかけのお茶を吹き出しそうになって盛大にむせる。須見は「うおっ、大丈夫か、お前」と言いながら背中をさする。たぶん逆効果だろうなぁと思いながらも、止めたら後で三割増しで怒られるのは目に見えているので、放っておく。
「空いてますよー」
「一日?」
「一日」
「んじゃ、駅前に十時半集合な」
友人がまた激しくむせた。ゴホゴホと咳をしながら、視線はしっかりミナミを捉えている。「あんた、須見先輩と一体どんな関係なのよ」と強く問いかける視線に、苦笑いを返した。
「先輩、デートのお誘いみたいになってますよ」
笑いながらそれとなく言葉足らずで誤解を生んでいることを伝えてみたが、返ってきたのは想像の斜め上を行く言葉だった。
「おー、可愛くしてこいよ」
友人の背中から手を離して、須見はゆるりと口角をあげる。その表情と声色だけで友人をはじめ、クラスの女子の大半は即死だ。
「あはは、須見先輩、なに言ってんですか。明後日は普通に部活の買い出しの日でしょう?」
「なんだ知ってんのかよ、からかって損したな」
「晴野江先輩は用事ですか?」
本来なら次の買い出しは須見と晴野江の当番のはずだ。それが一年に回ってくるということは、晴野江にどうしても外せない用事があるのだろう。質問というよりも確認のつもりで口にした言葉に須見は「んや」と首を横に振った。まさか。
「用事があんのは俺の方。急だったし代打は俺が探せって、ハルが」
出て来た名前と突き付けられたデート、に全身が固まる。待って、それは、あまりにも。跳ね上がった心拍数と点滅する視界に言葉が出てこない。須見はじっと、何かを咎めるように鋭い瞳でミナミを見ている。言葉が、出てこなかった。断りたい。でもそれと同じくらい胸が躍ってもいる。恐怖と期待で体が弾けそうだった。
「ま、俺はあのぽんつくが誰とどうなろうが、正直どうでもいいんだがな」
そう言ってひとつ息を吐いて、須見は言葉を続けた。
「伸ばした手がどうなるか、なんてのは、届いてみなきゃ分かんねえもんだぞ」
そう口にする須見の目がどうしてか悲しそうに見えて、ミナミは息をのんだ。藍に陰った瞳に何も言えなくなったミナミに「じゃ、明後日頼むな」と言い残して須見は教室を出ていった。ようやく瀕死から回復した友人が激励と餞別を兼ねて、たこさんウインナーをくれる。表面が僅かに焦げているそれを飲み込みながら、ミナミは深く息を吐いた。
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須見が教室を出ると、扉に寄り掛かるようにして晴野江がしゃがみ込んでいた。学校では弱気を見せないように気を貼っていることの方が多い友人にしては、珍しく外で軟体動物と化している。須見としては、デートの約束も取り付けてやったし、断られないようアドバイスもしたし、これ以上ないほど的確なアシストだったと思うのだが。
「おい」
つま先でつつくと、顔を上げないままに軟体動物は呻いた。「おまえは、やさしすぎるとおもう」呻きの間に呟かれた言葉に、須見は瞬いた。それからあぁ、と納得する。
「おれのためにわざわざ傷を抉るな、阿保」
古傷、ではなく傷と言い切った悪友に須見は苦い笑みを浮かべた。こちらが晴野江のことなら大抵分かってしまうのと同じで、悪友も須見のことならお見通しなのだろう。もう一年以上も前のことなのに、その人を失ってついた傷は今もまだ、少しも癒えることなく須見の中にある。
届かないと思っていた人だった。
まさか、相手も自分を見ているなんて思ってもみなかった。だから、手を伸ばす前から諦めて。居なくなってから、手を差し出されていたのだと気が付いて。何度後悔したか知れない。何度隣を歩く夢を見て泣きながら起きたか知れない。
軟体動物と化して床に座りこんでいる晴野江をもう一度つま先でつついて、須見は柔らかい声で言った。
「俺の優しさに刺されるくらいなら、初めから馬鹿みてぇに遠回りしてんなよ、阿呆」
お前はまだ、届くんだから。
なんて言葉は、自分でも呪いに聞こえて、さすがに言えなかった。
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