第2話 臆病者の軟体動物

☼☼☼


「ぁーーーーーーーーー」


 ため息とも嘆きともとれる声を吐き出して、晴野江は机に上半身を投げ出した。向かいに座る須見は晴野江の指先がぶつかりそうなマグカップを持ち上げてから、鬱陶し気に目を細める。


「人の部屋に上がりこんで、死にかけのゾンビみてぇな声出してんじゃねえよ、成仏してから入ってこい」


 ちびっ子が相手なら三秒で泣かれる須見の無愛想な顔と粗暴な物言いも、付き合いの長い晴野江にはダメージがない。肩は机に預けたまま首から上だけを須見の方に向けて、晴野江は言葉を吐いた。


「死にかけのゾンビってなんだよ、ゾンビは死体だろ」


 よほど気落ちしているのか、その声にいつもの柔らかさはなく、棘が混じっている。これは、長い愚痴になるなァ。面倒くせぇなァ、という気持ちを露骨に顔に出してみたが、晴野江は歯牙にもかけない。付き合いが長いとこういう所が本当に厄介だ。


「くだらねぇこと言ってると追い出すぞ、ハル」

「傷心中の親友にその言いぐさは酷いと思うなーもうちょい優しくしてくれてもいいと思うなー」

「ほーん。一ノ瀬と二人きりで帰れるようにわざわざ遠回りで帰ってやった俺が、優しくねぇってか」

「極悪人みたいな顔するなよ、持ってるココアが浮くだろ」


 晴野江が喋るたびに机が顎で押されて、がたごとと音がなる。何の因果か保育園から高校に至るまで一度もクラスが離れたことのない悪友は凹んでいるときほど軟体動物に近くなるのだ。須見はため息と一緒に言葉を返した。


「ココアは浮かねぇよ、気体じゃねんだから」

「馬鹿なのか、ふざけてんのか分からなくなるから、そういう発言やめてくれる?」

「んで? なんか進展はなかったのかよ」


 ココアを飲んでから問いかけると、晴野江は分かりやすく傷ついた顔になった。ざっくりとフォークで心の一部を食い荒らされたみたいな顔。どうやら、また進展どころか後退して帰ってきたらしい。


 それ以上は言葉を重ねずに須見はココアをもう一口飲んで、課題を広げた。口では優しくしろと言うくせに、本当に須見が自分の時間を割いたら罪悪感でとっとと帰ろうとするのだから、本当に面倒くさいことこの上ない。数学の問題を三問ほど解いたところで、晴野江はようやく口を開いた。


「おれ、やっぱ嫌われてんのかもしんねーわ」


 須見は手を止めずにちらりと視線をあげた。「聞いてる」と「それで?」を視線に混ぜて、続きを促す。晴野江のことも一ノ瀬のことも、同じくらいの遠さから眺めている身としては、何をどう解釈したら「嫌われてんのかもしんねーわ」という発言に行きつくのか、まったくもって意味が分からない。どう見ても、互いに意識しすぎてギクシャクしているだけである。


 もう面倒くさいし鬱陶しいので、さっさとどちらかが思いを告げてしまえばいいのに。と須見をはじめとした外野──そのほとんどは同じ部活の仲間だ──はいつも思っている。


「俺が話しかけるといつも困ったみたいな顔するし」


 そりゃあ、恋する相手に声をかけられたら誰だって緊張してぎこちない顔にもなるだろう。


「だいたい下向いてることが多いし」


 照れてるだけだろ。相槌を飲み込んだ拍子にシャー芯が折れて、キャップを数度ノックする。


「康太怒ってる?」


 須見はうっかり「お前らがあんまりじれったいから」と答えそうになって、ココアを飲んだ。既に瀕死の相手をなぶる趣味はない。ノートにペンを走らせながら「怒ってねーよ」と答える。実際怒っているわけじゃない。不器用すぎてちょっと引いてるだけだ。


「どうすりゃ近くに行けんのかまるで分かんねーの」


 その弱気な声に須見は顔を上げた。数学の問題はさっきから一問も進んでいない。


「しょうがねえんじゃねえの。お前、ずっと誰の傍にも行こうとしなかったんだから」


 晴野江は不貞腐れたような顔でそっぽを向いた。踏み込んだ先にあるものに対する興味と、踏み込むときに傷つける恐怖。不器用でどうしようもなく面倒な悪友の天秤がどちらに傾くのか、須見はよく知っている。


 恐らく、本人よりも。


 シャープペンシルを置いて、須見は頬杖をついた。晴野江の視線が須見に戻ってくる。


「分かんないって足とめてたら、いつの間にか大事なもん全部他人にとられるぞ」


 あとから泣いたって、誰も取り戻してはくれないのだ。だって、須見も晴野江も、もう幼い子供ではないのだから。

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