一番星はきっと星じゃなかった

甲池 幸

第1話 一番星に恋をしている

☼☼☼


 星に手を伸ばすようにあなたに近づけたら、その手の温度を知れるのだろうか。


 ミナミは夕暮れ時の空を見上げて、歩道橋の上でふと足を止めた。太陽が山向こうに沈み切り、夜の帳が完全に落ちる前の、黄昏時。西の空に小さく輝く一番星があった。ほぅ、と感嘆を含んだ吐息が落ちたのは、眼前の景色の美しさゆえか、それとも。


 頭の片隅に浮かんだその人を追い出すように、ミナミは頭を振って空から視線を引きはがした。つま先をみながら一歩、二歩と進み、ついと視線を空に戻した。一番星はまだそこに居る。足を止めたのは無意識で、手を伸ばしたのは出来心だった。手が届いたら、告白でもしようかな。花占いより、靴飛ばしより確率の低い願掛け。


 一ノ瀬三波は今日も、恋心をただの憧れに戻す方法を探している。


 あぁ、やっぱり、人間が星に恋をするなんて馬鹿げている。こんな不毛な恋は、さっさと諦めてしまうに限る。──なんてことを、一体どれだけ考えたら実行に移せるのだろう。


「なーにしてんの」


 低い声がすぐ近くから聞こえた。上等な絹みたいに柔らかくて、艶のある声だ。とっさに口から飛び出そうになった悲鳴を飲み込んで、恐々と後ろを振りむく。どうか、思考が声になっていませんように。祈りを込めて振り返ると、そこには予想通り、ミナミの一番星が居た。


晴野江はるのえ先輩。えーと、お疲れ様です」

「よー」


 ゆらりと声を出しながら、晴野江は乗っていた自転車から降りる。これは、もしかして分かれ道まで一緒に帰るパターンだろうか。考えた傍から心臓が早鐘を打った。下を向く仕草に合わせて、前髪を整える。こんなことになるなら、朝ちゃんと前髪を巻いてくるんだった。寝坊した自分を恨むが、残念ながらタイムマシンはまだない。


「一ノ瀬は空好きなの?」


 歩き出してすぐに投げられた質問に曖昧な笑顔を返す。なんと答えるのが正解だろう。空を見上げるのは好きだけれど、天体に興味があるかと言われれば否だし、写真を撮るわけでもない。そもそもさっき空を見ていたのは、一番星に晴野江を重ねていたからで──まずい、とりあえず何か喋らなくちゃ。


「あー、えっと、見るのは好きっていうか。ほんと、見てるだけですけど」


 沈黙の対価としては安すぎるつまらない言葉を返して、最後に「あはは」と愛想笑いを付け足す。それがあまりにもわざとらしくて、ぎゅっと奥歯を噛んだ。晴野江の視線が一ノ瀬から離れる。


 前を向いた晴野江はなにも言ってくれなくて、無愛想な沈黙をリズムの合わない足音が埋めていく。息が詰まって、うっかり右手と右足を一緒に出してしまいそうだった。気のない返事をしたのは自分なのに、何か喋ってくれたらいいのにと理不尽なことを思う。


 つま先が真ん中を占領する視界の端に、晴野江のスニーカーが時折入り込む。いとも簡単に後輩女子の歩幅に合わせてくる、その余裕と慣れに心の表面をやすりで強く撫でられたような気分になった。他の人ともこんな風に歩いたんですか。他の後輩とも、一緒に帰ることがあるんですか。奥歯をもう一段階強く噛んで、無尽蔵に湧き上がってくるくだらない問いかけを飲み下す。嫉妬、なんて。


 思いを告げる勇気すらないくせに。


「一ノ瀬はさ」


 水底に沈みそうだった思考を晴野江の声が引き上げる。


「はい」


 ついでに顔も上げたら、晴野江もミナミの方を見ていた。視線が一瞬交差して、瞬きの後には晴野江の顔はもう前に戻っていた。失敗した、瞬きなんてするんじゃなかった。後悔しても、やり直したい瞬間は既に遠く流れ去って、ミナミの手の中にはない。せめて次のチャンスは逃さないようにと、ミナミは斜め前にある晴野江の耳の辺りをじっと見つめた。夕日のオレンジ色に照らされて僅かに赤らんだ耳を人差し指がなぞって、それから晴野江は言葉を吐いた。


「一ノ瀬は、さ」

「はい」

「あー、えっと、その……」


 絹のような声が地面にむやみに落とされる。ガシガシと乱暴な仕草で髪の毛をかき混ぜて、晴野江はまた「あー」と低く唸る。あ、今の声好きだ。


「や。いーや、ごめん」


 絹というより木綿のような少しざらついた素の声の余韻に浸っていたミナミはうっかり、反応が遅れて。遅れてしまったら、もう追及する勇気は出なかった。「ごめん」ともう一度寄こされた謝罪は絹の声に戻っていた。


 一瞬だけ同じ星に居たのに、気が付いたらまた遠い空の上に居る。うっかり背中に手を伸ばしそうになって、ミナミは慌てて両手を強く握りこんだ。心は星みたいに遠いのに、指先の距離はついうっかりで触れられるくらい近いから困る。


 いっそ一番星くらい遠かったら。


 そうしたら、こんなに不毛な恋を自覚せずに済んだのに。



「じゃ」

「はい、さようなら」

 ミナミが直進する交差点を左折して、晴野江が遠くなっていく。晴野江の自転車が豆粒くらい小さくなってやっとミナミは深く息を吐き出した。緊張の反動でその場にへたりこみそうだった。豆粒になった晴野江の背中に手を伸ばして。届かないことに安堵して。


 触れたい。知りたい。でも触らないで。なにも知らないままで居て。


 自分勝手な気持ちを手の中で握りつぶして、ミナミは晴野江に背を向けた。

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