第4話 人間失格な人
季節は十二月になっていた。
いつものようにリュウジは憂鬱だった。憂鬱に家を出て、学校へ向かって歩く。堤防沿いで須藤美沙子が追い抜いていった。何も変わっていない。あれから変な噂が広まることもなく、今日もいつもと変わることのない憂鬱な日常が流れている。リュウジはそう感じていた。しかし、もしかしたら陰でコソコソ言われてるのかもしれない、とも思っていた。
リュウジはいつものように胸を(虚勢を)張り、何食わぬ顔で、誰とも目を合わさず、教室に入った。いつもと同じ。いつもの席。いつもの喧騒。いつもの人々。
リュウジは極力、美沙子から目をそらしていた。どこで誰が見てるのか分かったもんじゃないから。リュウジは視界の片隅にぼんやりと美沙子の存在だけ感じていた。
いつものように憂鬱な時間が過ぎる。もうすぐ冬休み。それだけを心の支えにリュウジは一日を過ごしていた。今日も特に何事もなく、特に誰とも喋らず、一日が終わった。リュウジは掃除当番なので、普段より15分ほど遅れて学校を出た。須藤さんは掃除当番じゃないので、もう帰ってしまったろう。今週はあまりワクワクしない帰り道になる。
いつもは同じ学校の生徒が大勢歩いてたり自転車で追い抜いていったりするけど、今日は人はまばらだ。リュウジは人が少ないのは好きなのでそういう点ではいいのだが、美沙子に逢えないのは残念だった。
広い道が終わり、堤防沿いの歩道の右寄りを歩く。中程まで来た時、リュウジの左を自転車が一台追い抜いていった。須藤さん! 須藤さんだ。あー、今日は諦めてたのに、なんて幸運なんだ。とリュウジは思った。なぜ遅れたのかは知らないけど、神様に感謝しよう。小さくなっていく美沙子の後ろ姿を見送りながら、リュウジは少し幸せな気分になった。
しかし間もなく、リュウジの目に妙な光景が映った。
美沙子が止まっている。美沙子は歩道の右端に自転車を止め、降りていた。どうしたんだ? 故障かな? とリュウジは思う。美沙子はしゃがんで自転車の下の方を覗き込んでる。パンクか…チェーンが外れたか……。自転車の故障なんて大抵そのどちらかなので、リュウジはそう思った。
どうする? 助けなきゃいけない……。リュウジは歩きながら考えていた。少しずつ大きくなってくる美沙子を見ながら、動揺していた。声など掛けられない……。リュウジはそのことをよく知っていた。リュウジの中に『声をかける』という選択肢は初めから存在しないのだ。だけど素通りするわけにもいかない。何とかしなければいけない。リュウジはどうすればいいのか分からなかった。リュウジは歩く速度をゆるめるが、それでも段々近づいていく。あと10メートル……。誰か。誰か通ってくれ。後ろを振り向くが誰も来ない。どうすればいいんだ? もうすぐ追いついてしまう。あと……5メートル……。
声をかける……
そんなあり得ない選択肢が、リュウジの頭をよぎった。今まで一度も考えたことのない選択肢。チャンスと言えばチャンス、ではあるのだ。こんなチャンスはもう二度と訪れないだろう。
(どうしたん?)
リュウジは頭の中で声をかけてみた。どんな顔をされるんだろう。無視されるかもしれない。冷たく「大丈夫です」とか言われてソッポ向かれるかもしれない。あるいはゴキブリでも見つけた時のように、驚いた顔で俺を見るのかも……。
あと…1メートル……。
目の前に須藤さんがいる。声を……声をかけないと……。
リュウジは止まるような速度で、美沙子の左横を歩いた。関節がぎこちない。しゃがんで背中を向けている須藤さんがすぐ横にいる。足音が聞こえてるだろう。俺が真横を歩いてることに、彼女は間違いなく気付いてる。止まれ! 止まれ俺!……
止まれない……。
いま右斜め後ろに須藤さんがいる。止まるような速度で歩いてるのに、止まれない……。
今、おそらく5メートルほど後ろに、須藤さんがいる。もうだめだ……。ここまで来て、止まれない……。もう……止まれない……。
リュウジは、物凄くゆっくりな速度で、歩き続けた。だんだん須藤さんから遠ざかってるんだろう。と、リュウジは思った。
……声をかけるべきだったんだ。たとえ無視されても、さげすまれても、声をかけるべきだった。いや、かけなきゃいけなかったんだ。
……何をやってるんだろ俺は……。
リュウジは、好きな女が困ってるのを見捨てて、歩き続けた。
人間失格……
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
(終)
自転車の女 みち道 @shirohevi
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