よってくだんのごとし

尾八原ジュージ

よってくだんのごとし

 地下からは相変わらず酷い臭いがする。家畜小屋のような臭いだ。

 悲鳴とも喘ぎ声ともつかない声が、座敷牢のある方から聞こえてくる。あれはあや子の声だ。彼女は今まさに「くだん」を産み落とそうとしているのだ。

 くだんは凶事の前に生まれてそれを予言する、極めて短命な化け物である。牛の胴体に人間の顔を持つそいつは、本来雌牛から生まれるものだと聞くが、我が家では代々人間の女に産ませてきた。その方が飼うのに都合がよかったからだ。

 わたしはこの秘術を父から、そしてあや子はその役目を、彼女の前に座敷牢にいた女から引き継いだ。何頭ものくだんを産んで骨がすかすかになり、とうとう骨盤が割れて衰弱死した彼女自身の姉から。

 地下へと続く階段を下るわたしには、どうしてもくだんに尋ねたいことがあった。

 くだんは嘘をつかず、その予言は必ず当たる。少なくとも当家の記録が残っているここ百年、彼らの予言がわたしたちの一族を裏切ったことは一度もなかった。戦争の勃発を、敗戦を、銀行の倒産を、株式市場の大混乱を、自然災害を、伝染病の流行を、そして歴代の当主の死を、わたしたちはくだんによって知った。予言は常に有益な助言でもあり、いつの間にかわたしたちは、くだんの予言なくしては何かを決断することができなくなっていた。

 薄暗い階段の途中で、ふいに地面がぐらぐらと揺れた。ここ最近、この辺りでは小規模地震が頻発している。巨大地震の前触れではないかという噂もあるが、地震を正確に予測するのは最新の科学であっても難しい。しかしくだんであれば可能だ。わたしたちの暮らしと財産、当地での事業を守るためには、その予言が必要だ。

 もしもくだんが大震災の訪れを告げるならば、この座敷牢もどこかに移す必要があるかもしれない。建物が老朽化しており、倒壊の恐れがあるからだ。それに、万が一に備えて秘術を引き継いでおかなければならない。この場所と、くだんを作るすべを知っているのはわたしだけなのだから、もしもわたしが災害で死ねばすべてが失われてしまう。一人息子はまだ二十歳にもならないが、おそらくすべてを受け入れてうまくやるだろう。彼もまた、くだんの予言の恩恵に浴しているひとりなのだから。

 それにしても酷い臭いだ。

 地下の空気は冷たく、背中にかいた汗がみるみるうちに冷たくなった。階段を下りたところに電球がひとつぶら下がっており、暗い通路を照らしている。太陽も月もない地下を照らすのはただこの丸い灯りだけだ。歩くにつれ、足元にわたしの影が薄く伸びる。

 座敷牢の分厚い木の格子の向こう側で、あや子は獣のような叫び声を上げていた。露出した下半身からはすでに多量の羊水がもれ、コンクリートの床を黒く汚している。老婆のようにかさついた肌、痩せ細った体に腹だけが異様に脹らんだ姿はまるで餓鬼のようだ。ここに入る前の、美しかった面影はまるで残っていない。

 すでに死んだことになっている彼女には戸籍も人権もない。言葉もほとんど失ってしまった。食って孕んで産むだけの暮らしを送っているこれはもう、ひとではない。家畜である。

 座敷牢にあや子を入れてから、もう七年になる。彼女はいつから泣きも騒ぎもしなくなったのだったか、わたしはもう覚えていない。体つきと表情を見るに、そろそろ寿命がくるのかもしれない。ならばまた、新しい女を探してこなければ。くだんを産む新しい「雌牛」を。

 それにしても、あや子はこれまでに何頭のくだんを産んだだろうか。

 苦悶する幽鬼のような姿を見ながらわたしは考えた。くだんを作る過程には人間と牛の精が混じるから、ふたつにひとつはただの人間の赤ん坊を孕むことになる。くだんであればおよそ三月ほどで産まれるから、それ以上妊娠期間が長引けば、医師免許を持っているわたしが手ずから堕胎する。

 この地下で何人の胎児が間引かれ、何匹のくだんが産まれてきただろうか。わたしは考え、すぐに首を振った。予言など用が済んだら忘れてしまう。まして予言もしない人間の赤ん坊のことなど、覚えていられるわけがない。

 ひときわ大きな声があがって、あや子の太腿の間からずるりと獣の後ろ脚が出た。わたしは鍵を開け、座敷牢の中に入った。吐き気を催すような臭いが更に強くなる。

 手術用の手袋をはめ、獣の脚を掴んで引っ張った。羊水や血液と共に、胎盤をかぶったおぞましい姿のものがずるりと引きずり出される。牛の赤ん坊にしてはあまりに小さいが、さりとて人間でもない。ああ、くだんだ。わたしは安堵した。これで予言を聞くことができる。

 黒い牛の体に、のっぺりとした人間の顔をつけたそいつは、げぼ、げぼと咳込んで口から羊水を吐き出していた。あや子はその場に倒れ、座敷牢の隅に凝った暗がりの中で荒い呼吸を繰り返している。

 わたしはくだんが喋りだすのを待った。

 やがてそいつの黒い瞳が、わたしの顔を向いた。

「こぼりようじろう、は、しぬぞ」

 くだんははっきりとわたしの名前を告げた。

 恐怖よりも、驚きの方が先に立った。このくだんは震災ではなく、当主の死を予言するものだったのか。わたしは必死で、くだんが生きているうちに尋ねた。

「それはいつだ。やはり地震で死ぬのか」

 くだんは、がっがっと奇妙な声をあげて嗤った。いやな嗤いだった。その声はしばらく続き、主人の質問になかなか答えない様子にわたしは怒りを覚えた。

 やがてくだんは嗤うのを止めた。不快な笑みをその醜い顔に留めたまま、

「なのかご、うえと、かわきでしぬぅ」

 そう言った。

 その時、ズン、と物凄い衝撃が座敷牢を襲った。地震だ、と思った瞬間、座敷牢の格子が怖ろしい音をたててきしんだ。

 目の前が真っ暗になった。


 視界がぼやけている。

 生臭いもので汚れた冷たい床に頬をつけ、わたしは倒れていた。脚部に猛烈な痛みを覚えた。

 ようやく視界が元に戻り、わたしは恐る恐る首を動かした。座敷牢の太い格子が、わたしの両太腿を抑えつけるように倒れている。引き抜こうとすると強い痛みが走った。足を動かすことができない。

 げっ、げっ、と嗤い声がした。格子の向こう側にあや子が、くだんを抱いて立っていた。

「助けてくれ」わたしは言った。「お前たちは百年もの間、わたしたちを助けてきたじゃないか」

 くだんの予言は必ず当たる。それはわたしたちを助け、富ませてきた。これまではずっとそうだった。ならばこれからもそうだろう。

 そう思っていたのに。

「こぼりようじろう、なのかご、うえと、かわきでしぬぅ」

 くだんはやけに朗々と繰り返した。弾むような女の声がそれに被さった。あや子だ。あや子が童女のように笑っている。

「わたしの庇護をなくして、お前たちが外で生きていけるものか」

 くやしまぎれに吐き捨てると、くだんは醜怪な顔をにんまりと歪めた。と思ったら、あや子の腕の中でその首ががくりと垂れた。

 あや子はいとしげにそれを抱き、人間の赤ん坊をあやすようにゆらゆらと揺らしながら、ゆっくりと明るい方へ、階段がある方向へと歩いていく。

 わたしはわけのわからないことを喚き散らしながらその姿を見送った。ここにわたしがいることは、ほかの者は誰も知らないのだ。このままではわたしは、秘術を誰にも引き継げないまま死んでしまう。誰にも気づかれず、飢えと渇きによって。

 わたしは格子の下から足を抜こうとし、痛みに悲鳴をあげた。夢中で床を掻きむしった。爪が割れて鮮血が飛び散った。

 くだんは嘘をつかず、その予言は必ず当たる。しかしこんなのは酷い。酷い。酷い。

 酷い裏切りだ。


 少しして、余計に喉が渇くと気づいて騒ぐのをやめたわたしの耳に、あや子の唄う子守歌がかすかに届いた。

 それは少しずつ遠ざかっていき、やがてまったく聞こえなくなった。

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