第5話
千夏が毛深いままなのは難儀したが、登山装備と衣服一式は倉庫として使われていた別の洞窟に置かれていたので、二人は苦労しつつも沢を下ってどうにか下山した。
やっと林道にまで出てきた時には、砂利も折れた枝も落ちまくっているその道が、最新の高速道路のように見えた。新幹線に至っては神の乗り物だと思えた。
幸い、毛髪以外の毛はすぐに抜けはじめた。一週間ほどでちょっと毛深いほうだという程度にまで戻っていたし、腋や脛(すね)は抜けるのを待つ前に千夏が自主的に脱毛した。髪はすぐには黒く生え変わらず赤茶のままだったが、それはそれでかっこいいと千夏はそのままにしておいた。おかげでいよいよサブカル業界人らしくなった。
狐虎が最も危惧したのは千夏が狒々のことを公表する気満々だったことだが――「せめて半年待て」と言って納得させた。
その頃にはあのサルたちも人に戻っているだろう。で、おそらく大半が生き残れずに死んでいるはずだ。岐阜県北部の山中は人間が裸で生存できる環境ではないし、狒々の言葉が事実ならあそこの連中は人の寿命の何倍も生きているというか、生かされている化け物だった。狒々の加護というか呪いがなくなれば、くたばるだろう。
事件から二週間後、狐虎はキッチンで二人分のペペロンチーノを作っている。野菜が不足するからアボカドサラダも用意した。
後ろのダイニングでは、千夏がテーブルを兼ねた万年こたつに足を突っ込んで、寝転がりながらギャグ漫画を読んで笑っている。
「なんだ、この落差は……」
フライパンにスパゲティをぶっこんで、狐虎はつぶやく。
「落差って滝のことですか?」
「いや、違う! まあ、滝の落差もひどくて行きも帰りも命がけだったけど、もっと全部ひっくるめての一連の体験とこの日常の落差ってこと!」
調理しながら、狐虎は未解明のことをつらつら考える。
しかし、あの狒々はどこから来たのか。
宇宙から単身やって来たのか。まさかあんなのがうじゃうじゃ暮らしていたとも考えづらいが、だとしても、どうしてあそこで生きながらえていたのか。
そばにはその手のことに滅法強い千夏がいるのだ。狐虎は料理をしながら尋ねた。正しいかはともかく仮説の一つぐらいぶつだろう。
「元の生まれは知らないですけど、あのへんに最低でも一頭は同族がいたはずです。そっちはもっと昔に死んじゃったでしょうけど。さらに大昔は別の川筋にも住んでたと考えてます」
漫画を読み続けながら、千夏は答える。千夏はダブルタスクが上手い。
「やけに自信ありげだけど、その根拠は?」
「狐虎ちゃん、白山信仰の祭神っていうと何になります? なお、複数回答可です」
「中世なら白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)、今なら石川県側の白山比咩(しらやまひめ)神社の白山比咩大神ってところだな」
「ええ。どちらも女性として描かれますね。イザナミとして登場する時もありますが、やっぱり、全部女性です」
フライパンをいじっていたのに、狐虎は寒気がした。
「なんで白山信仰は祭神が一貫して女人なんでしょうか。もちろん、修験道なんて習合主義(シンクレティズム)の最たるものですし、どんどん祭神が増えていって、南の美濃側の白山信仰でもイザナミと・イザナギをセットで祀ってそこにほかの神も足すようになってきますけど、元が女性神の信仰だったところは揺らぎません。もっとも、狐虎ちゃんも答えは出てますよね」
白山の祭神も本来はあの狒々だったんじゃないですかね、あの姿を見れば女性だとみなすでしょ――と千夏は言った。
それはこじつけだと否定したかった。
まだ奥美濃の一地域の信仰に化け物が混じっているというなら許容もできるが、白山信仰となれば規模が違いすぎる。中世では、熊野修験の次にメジャーと言っていい修験のグループだ。
だが、自分の目で狒々を見てしまった以上、何を言っても説得力に欠ける。
皿に盛ったペペロンチーノを狐虎はこたつの上に置いた。
いただきますの代わりに千夏はこう続ける。
「白姫寺(しらひめでら)という寺号も最初は高賀(こうか)権現としての狒々をごまかすために、白山信仰を偽装したものだと思っていました。地理的にも高賀権現の信仰圏からはずれていて、ずっと白山信仰の拠点に近かったですから。ですが――」
スパゲティを楽しげにフォークに巻き付けながら、千夏は「ですが」を強調する。少しばかり早口になっている。本人も気付いているだろう。
「白山にも、あの狒々のさらにボスみたいなのがいて、その名前にあやかったのかもしれないなという気がしてきてるんですよ。白山比咩大神でも白山妙理権現でもいいですけど、それってわかりやすく言えば白山(しらやま)の女神――白姫って言えますよね。邪教だと思ってた地方のカルトのほうが古体を残していたなんことはないでしょうか?」
「余計なことを蒸し返して悪かった。食べよ、食べよ。ごはんがまずくなる」
逃げ腰の狐虎に千夏は苦笑でこたえた。研究においては千夏は妥協しない。
「蒸し返すも何もいつでも再生できますけどね」
狐虎はサイコロ状に切ったアボカドを口に放り込んで、「そうだな」とつぶやいた。
狒々の後遺症というのか、おまけというのか、過去の記憶を引っ張り出す能力は狐虎にも残っていた。
記憶は薄れていく。
だが、再生はできる。
狐虎でそれなら、毛まで生え変わっていた千夏にないわけはない。
「まっ、研究者にとったら最強の力ですよ。よかったですね」
役に立つかどうかでしか考えてない千夏を見て、狐虎もあきれを通り越して笑ってしまった。
「千夏はポジティブすぎる。それはそれとして、言ってることは真理だ。過去に読んだ本やデータをつなぎ合わせていったら、論文のアイディアが腐るほど湧いてきた!」
新出資料が毎日出てくることはなくても、とらえ方次第で新しい発見は作れる。そして、脳内で無限にジグソーパズルをやれるようになった自分たちに論文を書くことなどランニングで近所を一周する程度の難易度でしかない。ビッグデータってこういうことを言うのだろうか。
千夏は生きて帰ってきたし、狐虎に研究者を辞める理由もなくなってしまった。
しかも、悪夢のような体験と引き換えに、世界中の研究者がほしがる力が手に入ってしまった。
いくらでも道は開けるし、もう引き返すには遅すぎるのだ。そんな研究者にとって最高の力を封印するなんて選択肢はありえない。
「そうだ、言い忘れてました。いただきます」
いい笑顔で千夏が手を合わせた。
「命をいただいて、わたしたちは生かされているんですね~」
千夏の軽口で話を終えてもよかった。
だが、まだ聞けてないことが残っていた。
今更、秘密を積み残しておきたくはない。
「待て、さっき、別の川筋にも変なのが住んでたって言ってたな。あれはどういうこと?」
「長良川から一本東の川筋といえば、どこになります?」
「下呂から高山に続く飛騨川(ひだがわ)の筋だな」
ちょうど、長良川鉄道の起点駅の美濃太田から北東に進めばその筋になる。JR高山本線はその筋を通って、日本海側の富山のほうにまで抜けていく。
「そう、飛騨国(ひだのくに)です。『日本書紀』に出てくるその飛騨の化け物と言えば?」
狐虎は奥ノ院までの沢に二面(にめん)滝という不可思議な名称の滝があったのを思い出した。
あれの名前の由来がわかってしまった。
「…………両面宿儺(すくな)だ。名前のとおり、顔が両面についてるって言われてる化け物……」
高山市郊外の千光寺(せんこうじ)は五十体を軽く超える円空仏を所蔵することで有名だが、その寺の開山は伝説では両面宿儺ということになっていた。円空も両面宿儺の像を彫っている。
狐虎は口の中を洗いたくて、炭酸水を流し込んだ。
「でも、あの赤毛の狒々と両面宿儺に、化け物ってこと以外の共通点なんてないんじゃない?」
「狐虎ちゃん、私の目を見てください」
微笑みながら、姿勢を正した千夏の瞳を見据えた。
怖くても目を背ければ、もっと怖くなる。
不意に、また頭痛がやってきた。
狒々と目を合わせた時に起きた現象だった。
狐虎の頭の中に、無数の経験した記憶のないサムネイル画像が並んだ。
そのうちの一部に狐虎の顔も、この部屋も映っているから、誰の記憶かはすぐにわかった。
「これ……千夏の記憶!?」
「あの狒々は記憶を共有することで群れを維持していたようです。それはどうでもいいとして――狐虎ちゃんは狒々の背中のほうを見たことはなかったですよね。わたしの記憶で確認してみてください」
狒々の背中とおぼしきサムネイル画像を拡大する。
その後頭部には、まるで合成した心霊写真のように顔が浮かび上がっていた。
毛に覆われて隠れかけてはいるが、そこには醜悪な哄笑(こうしょう)が宿っていた。
「かつては両面に顔があったってことか……」
「ええ、あと、その顔、仏像で見たことないですか? 名前を言えばすぐ検索できるでしょうけど」
そう、今の狐虎には思い出すことも容易だった。
――大笑面(たいしょうめん)。
あるいは暴悪大笑面。
顔が十一もある、十一面観音の背後についている面貌の名称だ。
正面から拝観する限り、決して見えることのない位置にある、文字通り十一面観音の裏の顔。
微笑みとはまったく異質の、あらゆるものを笑い飛ばして、無効化するような笑いをともなった顔。
「『白山之記』では白山妙理権現の本地仏は十一面観音ですよね? 狐虎ちゃんもご存じのように、十一面観音といえば、最も女性的と言われている観音です」
「信仰の一番奥にはあのサルがいるってことか。やりきれないな」
やりきれないなんて言葉で表現できる気持ちじゃなかった。ただ、後味が悪いし、据わりが悪い、そう感じている自分がいることだけは確かだ。
狐虎はさらに炭酸水を口に入れた。消毒をしたかった。
「日本はよくアニミズムが信仰の原型って言いますけど、もし人を超えてる存在が目の前にいれば、山や川を信仰するよりずっとわかりやすいですよね。ただ、そんなものの信仰じゃ広がらないから、抽象化を繰り返して誰にでも見せられる体系にしたんでしょう」
自分たちが宗教を調べていくと、最後に必ず化け物にぶつかってしまうんじゃないか。それを否定したいが、否定するにはこれまでに目にした無数の文献や伝承までを総合していくしかない。その際、化け物が信仰の根本にいることを認めるしかないリスクは常に残ってしまう。
いや、この力があれば千夏が得ている知識も、さらには……考えたくないけどあの狒々の知識すら使えるかもしれないのだ。
「こうやって、千夏の知識を使って論文が書けるっていうのは、ほとんど反則だよね。ずるい気すらする」
「わたしは狐虎ちゃんに使っていただけて、光栄ですよ」
当然のように千夏は言う。
「それに研究って最終的には人類の知識になるものなんですよ。わたしが見つけても、ほかの誰かが見つけても同じじゃないです?」
ああ、自分の研究成果を守りたいなんて狭い発想は千夏にはないのだ。
不快なことが真実でも、その真実とやらに走っていくんだろう。それに身を滅ぼしたとしても、あまりにも千夏らしい。まさに岐阜県の山中で身を滅ぼしかけたのだ。
「千夏って本当に研究者になるためだけに生まれてきたよな」
「いえ、狐虎ちゃんに出会うためにも生まれてきたと思ってますよ」
「ま、待って……。変なこと言うな……」
狐虎は顔が赤くなっているのを自覚した。笑っている千夏はもう人間を半分は辞めかけているのに、その表情はいつもの千夏のものなのだ。
そうか、人間離れしていた千夏はやっと分相応の力が手に入ったのか。狐虎の頭の中には、どこで見つけてきたのかというような千夏の記憶の中にあった古記録が流れ込んでいる。そして、同じように人間を辞めようとしている人間は、この世界で自分しかいない。じゃあ、二人でやっていくしかない。
ごちそうさまの代わりに千夏はこう言った。
「これからもよろしくお願いしますね、狐虎ちゃん♪」
◆終◆
白い姫が笑う 森田季節 @moritakisetsu
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