第4話

 手を引かれながら、最後の足場に足をかけ、力を込めて、足を滝の上の岩肌にまで持ってきた。

 両手を平らな岩の上に置いて四つん這いになり、転落の危険がなくなってから、ようやく狐虎は顔を上げた。

 手をつかんでいたのは、手の甲がやけに毛深くなった千夏……のようなサル(?)だった。

 裸体で全身に赤茶けた毛が生えている。髪の毛も肩にかかる程度の長さだった千夏のものよりはるかに長いし、髪の色も黒から同じく赤茶けたものになっている。

 どういう声を出していいかわからなかった。

 これは千夏か? 他人の空似でサルが千夏に見えたのか?

 もう、そのサルは狐虎の手を離して、後ろの巨体のサルの群れに混じっていった。

 狐虎の視界には十頭を超える数のサルがいた。

 毛の色はどれも近かったから、同種なのだろう。

 絶望的な気持ちにさせられた滝の上とは思えないほど、穏やかな流れの沢だった。乾いて平坦な岩場もあって、キャンプだってできそうなほどだ。

 そこにサルが集まっている。

「サルしかいない奥ノ院なんてあるの?」

 サルから一度気持ちを切り離そうとするように、狐虎は人工物がないか視線を動かした。古記録の奥ノ院がこの場所だとしたら、掘っ建て小屋のようなものだとしても、何かしら人の手が入ったものがないだろうか? あるいは五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)のような石造物でもいい。

「ワー、グアー、パー」

 一頭が鳴いた。

 言葉とは呼べないものだ。やっぱりサルかと思いたかったが――

 それはやけに人の声に近い気がした。

 寒気がした。

 滝の水で体が濡れたせいだけではないはずだ。

 ここにいるのは自分の知っているサルでもなければ、人でもない。

 何か別の動物だ。少なくとも、サルの新種には違いない。だが、その相貌はあまりにも人間に近すぎる。このサルたちに人の服を着せたら、雑踏の中に簡単に紛れ込めるだろう。

「千夏、高賀権現(こうかごんげん)は変なサルの信仰だったよ。あんたは正しかった」

 ぼそぼそと独り言を言った。まさかサルにしゃべってもしょうがない。

 高賀権現信仰というのは、このサルたちを崇めるものだったのだ。

 この信仰の拠点であった高賀神社(近世までは蓮華峯寺(れんげぶじ)と呼ばれた)や那比新宮(なびしんぐう)神社(近世までは巌新宮寺((いわおしんぐうじ)と呼ばれた)には平安仏が現存しているし、鎌倉時代の年号の大般若経(だいはんにゃきょう)も残る。最低でも千年近く前からこのサルたちに関する信仰が生きていたことになる。

 同時に高賀権現信仰が他の地域までは広がらなかった理由もわかる。

 こんな異様なサルたちを目にした人間にしか信じようがない。

 白山信仰のような普遍性がない。

 何も知らない人間からすれば、これは異端であり邪教だ。

 人間そっくりのサルを崇めるなんてことは、話だけ聞いた人間からは余計に忌避される。この土地を支配する郡上(ぐじょう)藩だって弾圧を加えただろう。

 サルたちは皆、狐虎に視線を向けていた。

 過去に山中でサルの群れに会った時に同様の経験をしたことはあるが、勝手が違った。

 図体もサルのものではない。全体的に狐虎よりは小柄な者が多いが、これは人の体だし、どいつも二本足で立っている。さらに言えば、いずれも女に見える。薄汚れて性別がわかりづらいものもいたが、男にしては乳房が大きすぎた。

 登山道具として揃えたナイフを出して、構えた。身を守るものがほしかった。

 そして、狐虎の視線はもう一度、千夏に似たサルに向いた。

 見れば見るほどに、千夏にそっくりだ。思い込みだろうか。死者に生きていてほしいという願望が現実を歪めて見せているのか。

 違う。長らく人から見捨てられた地に、二週間前、到達した可能性のある人間とよく似たサルがいるのだとしたら――

 それは本人である蓋然性(がいぜんせい)が高い。

 最低でも、研究者としての狐虎は目の前のサルは千夏本人だという説をとる。

 狐虎にとって、このサルは千夏だ。

 問題は、人間は二週間でこんなに全身が毛深くなるなんてありえないということだ。それにほかのサルたちの出自も気になる。

 それを解き明かすものはないか。

「千夏」

 名前を呼んでみたが、千夏らしきサルは反応を示さなかった。

 人の言葉を理解していないのか。

 自分の体を平坦な岩場に移した。

 まだ、この奥ノ院を調べなければならない。それが自分の仕事だ。

 千夏らしきサルのほうにちらちらと視線を送りつつ、先へと向かった。

 サルの群れは警戒しているのか、襲ってくることはなかったが、常に狐虎に注意を払っていた。

 平坦な岩場の先に、奥行き二メートル程度の洞窟があった。

 そこがこの地を奥ノ院たらしめる霊地だとすぐに悟った。

 くぼんだ場所はどこの土地でも信仰場所になるのだ。

 だが、何があるのだろう? サルだって雨風はしのぎたいだろうし、サルの巣となってはいると思うが。

 洞の中には――

 さらに新種のサルがいた。

 ボスザルという言葉が脳裏をよぎった。メスのボスザルというものが存在するのか知らないが、その乳房の張り具合と温和な中年女性のような表情からすると、この個体はメスなのだろう。

 それまでに見たサルより二回りは大きい。前かがみになってはいるが、もし背を伸ばせば二メートル半はある。赤い毛が乳房のあたりを除いて全身を包み、どこか着ぐるみめいた印象を与える。

 だが、体格よりも異様なのはその手だった。

 指にあたる部分は人の片手五本よりずっと多い。直視しただけでは瞬時に数がわからなかったから、十本近くはあるだろう。そんな指の一本ごとが骨が通ってないようにだらんと垂れ下がっていて、先端部だけが腫れたように扁形(へんけい)に膨らんでいる。

 最初、ボスザルは狐虎に目を向けようとはしなかった。

 彼女が意識している対象がもっとそばにいたせいだ。

 ボスザルの横では寝床のように布が敷いてあり、サル二頭が横たわっていた。

 腹から妊娠しているとすぐにわかる。

 ボスザルは妊娠中の一頭に慈しむような目を向けると、その指のような器官を裸体に絡ませていった。

 そのうち一本が横になっているサルの性器に入っていくのを狐虎はとらえていた。

 サルが金切声のような高い声であえぐのを聞くと、狐虎は強い嫌悪感を覚えた。

 両性具有、アンドロギュヌス。

 そういった言葉が浮かんだ。

 そういえば、自分はメスに見える個体しか目にしてない。

 一般的なサルの群れならオスのサルが餌を捜しに行ったり、縄張りを守るために戦っているのかもしれないが……この者たちの群れではあの指を持っている個体がオスの代わりなのではないか? あの長い蛇のような指は生殖器ではないか?

 神経に障るような甲高い鳴き声を耳にしながら、高賀権現に関する社寺の縁起を思い出す。

 縁起には英雄に退治される対象を狒々(ひひ)と呼んでいるものもあった。

 この巨体の赤毛ザルはまさに狒々と呼ぶにはふさわしい。

 しかし……。

 新種のサルだとして、そのサルが手を生殖器として進化させることなどありうるのか?

 突然変異で、あのサルたちがこういう個体になることは? ありえない。両性具有まではありえても、手が発達して生殖器になったりはしない。どちらにしろ、人文科学で説明できる範囲を超えている。

 あまりにも得体が知れない。

 千夏のこともあるし、まだ知らなければいけないことはいくつもあるが、とても長居をする気にもなれなかった。

 目線をそらした岩肌に仏教の種字真言が一つ、彫られていた。

「――タラークじゃん……」

 おおかた予想はついていたが、虚空蔵菩薩を意味するものだ。

 虚空蔵菩薩は高賀権現の本地仏である。日本では一般的に知恵を授ける仏と認識されている。とくに京都の嵐山にある法輪寺(ほうりんじ)の十三参りは、十三歳の子供に知恵を授けてもらう行事として広く知られている。

 この異形の獣――狒々の住まう土地を霊地として崇めるのが、おそらく本来の高賀権現信仰だったのだ。英雄による化け物退治の縁起は理解をしやすくさせるために付け足されたものにすぎない。高賀権現信仰すべてにまで敷衍(ふえん)するのは拡大解釈だとしても、少なくとも白姫寺(しらひめでら)という寺院の信仰の本質はこれだ。だからこそ、廃絶に追い込まれた。

 呆然と立ち尽くしている背中にいくつも、さっきの視線を感じた。

 振り返ると、何頭ものサルが集まってきている。

 ただし、敵意までは感じ取れなかった。まるで火事の見物に来た野次馬のようだ。

 それでも唯一の出入り口をふさがれることに狐虎は焦りを覚えた。

「ここから出さないぞっていうアピール?」

 狐虎はナイフを持つ手に力をこめる。

 それと同時に何かに左の足首を引っ張られた。

 手のような乱暴な力とは違うと思った。もっとやわらかなものが吸い付いたようだった。

 振り向いて正体を知った。

 狒々の指が足首に絡みついていた。

「きゃっ!」

 生理的な嫌悪が来て、足を動かそうとしたが、かえってバランスを崩した。

 腰から落下する背中のザックも身を守ってくれなかった。その時に握っていたナイフも取り落とした。

 丸腰になった狐虎に狒々がのしかかってくる。

 ただ、狒々は子を愛する母のような目をして、じっと狐虎の目を覗き込んだ。その視線にはたしかに知性の光がある。

 その瞬間――

 狐虎の脳内に走馬灯の亜種のような現象が起きた。

 過去の記憶がサムネイル画像のようにずらっと並ぶ。一度聞いただけでとっくに忘れていた専門用語も、高校の時に習った数学の定理も、いつか開いた辞書の同じページに偶然載っていたほかの単語の意味も、すべてがファイル数もわからないほど膨大なサムネイル画像になって、保管されている。

 狐虎は声を上げて、頭を押さえた。

 記憶が戻りすぎた反動か、ひどい頭痛がする。

 詳しい仕組みはわからないが――

 この狒々は目を合わせることで、相手の視神経に何か信号を送って、記憶を全部引きずり出すことができる。

 それは記憶増進の秘法と言われている虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の効果と酷似していた。空海が『三教指帰(さんごうしいき)』の中で、真言一百万遍を唱える修行をし、経典をことごとく暗記できるようになったと書いているものだ。

 もし、修行のために山籠もりしている修験者がこの狒々と出会い、同じ体験をすれば……虚空蔵菩薩、あるいは虚空蔵菩薩がこの世に顕現した時の姿だと信じ込むだろう。

 呑気にそんなことを考えている場合ではないはずだったが、ナイフは落としてしまって手元に武器はない。

 せめてもの救いは狒々がすぐに危害を加えてくる様子がないことと、頭痛が収まりだしていることだ。やはり、ショックによる痛みだったらしい。

 狒々はゆっくりと顔を、いや、目を狐虎の目に近づけてきた。その顔を近くで見て初めて認識したが、その体格からしても眼球が極端に大きい。ニワトリの卵を横に向けたぐらいの目が左右に一つずつある。人間よりはるかに視覚に価値を置いた動物のようだ。

 ぱちぱちと狒々がまばたきをした。

 狐虎の頭に言葉が視覚化されて表示される。

 真っ白なボードのようなところに、青字の明朝体が浮かんだ。

【今は二十一世紀というらしいわね】

 通じるかわからないが、「そうだけど」と答えた。

 それで交信ができたと判断したのか、狒々のまばたきの回数が異常なほどに速くなった。

 狐虎の頭の中のボードにも、文字が次々に並んでいく。

【私は奥ノ院の権神(ごんしん)。寺の人たちの教えでは、仏という実体は後ろ側にいて、私は前に出ている権(かり)の姿ということで、権神と言われているわけ】

「まさしく生きた権現の用例だ……」

 たしかに権現というのは仏が権(かり)の姿で現れたものという意味の言葉だから、仏教とその他の信仰が共に存在していないと生まれない言葉なのだ。現代日本でも目にする言葉だが、その淵源は神仏習合が盛んだった時代までさかのぼる。

 狐虎の言葉に優しく狒々はうなずいた。

 コミュニケーションができたほうが都合がいいのは狐虎にとっても同じだった。

「千夏を連れて帰りたい。さっきの群れの中に千夏だったのがいたはず。なんで毛深くなってるのかはわからないけど」

【彼女は私に仕えて暮らすことを選んだわ。私も約百年ぶりの新しい家族だから嬉しかった。あなたたちの言うところの江戸時代中期から、家族になってくれる子は激減したから。今、孕(はら)んでる子は天正(てんしょう)年間にここに来た子。なかなか赤ちゃんは育たないんだけどね】

 天正は織田信長が本能寺で死んだ時の年号だから、十六世紀後半か。

 家族という言葉を狒々が使うだなんて、なんとも皮肉だと狐虎は思う。仮定でしかないが、女だけで子供が作れたのなら、地球の多くの国家はもっと早く女同士のカップルに強い法的な権利を与えただろう。社会の再生産に関して問題がなくなるからだ。

【あなたのことは千夏からすべて見させてもらったわ。ここに入ってきた時にすぐにわかった】

 見させてもらったと狒々は言った。

 どうやら目を合わせた人間の記憶を共有する力があるらしい。

 ふっと、新しい気配をそばに感じた。

 狐虎の以前まで千夏だったサルがやってきていた。

 いわゆるコンビニ前の不良座りで狐虎の顔を覗き込んでいるが、人間らしい感情は読み取れない。飼い猫が寝ている飼い主の顔を覗いてくるのに似ていた。

【千夏もあなたが来て喜んでいるはずだわ。ここでなら楽しく暮らせるから。ずっと昔から私は家族とここで暮らしてきたわ。冬は寒いけれど、それもすぐに慣れるから】

「あんたは人間の女だけを集めて、それでコミュニティを作る動物なんだな」

【そのようね。応永(おうえい)の頃にここまで来た男の山伏に私の体で試させてみたけど、人間の男では相性が悪いらしくて孕みさえしなかった。私と男はすべてにおいて合わないみたい。だから家族にもなれないの】

 応永というと、十五世紀前半の室町幕府の全盛期の頃か。

 狐虎は口の中が苦くなったような気がした。いくら明確なコミュニケーションがとれる動物とはいえ、それじゃ人体実験だ。

 狒々はゆっくりとまばたきをした。

【でも。あなたは女だから問題ないわね。ようこそ。千夏も待っているわ】

 そこで千夏を出すのは卑怯だと思う。

 顔だけを横に向けて千夏を見る。くりくりした瞳はサルの子供のようだったが、何も言わなかった。人生で一番サルをかわいいと思った。

 ここで奇妙な原始共産、サル共産社会に加わるのも面白いかもしれない。興味があるかと問われれば、あると答える。コンクリートジャングルの中で行き場を失うぐらいなら、本当に山中で暮らしたほうが悩みも少ないだろう。

 でも、嫌なことでもやらなきゃいけないのが人間なのだ。

「帰りたい。私は帰る」

 過去の記憶を自在に検索できるせいで、過去にSNSでバズっていたツイートまで閲覧できた。

 そのツイートを一部改変して、声に出す。

「世間の荒波受けるのは楽しくはないけど、自分に逆らわん奴だけ集めてお山の大将やってるのってキモいから。あんたの発言、全部自分が偉いって前提だけど、その根拠も謎なんだよ。しかも、あんたに従うこっちは大将ですらなくて雑兵って扱いになる」

 こんな時、写真記憶のようなものは便利だ。頭にカンペがあるのだから、いくらでもしゃべれる。

「同じ価値観の人間だけで、お互いに『いいね』ボタン押し合ってたら楽だし居心地もいいだろうけど、わかり合えないカスもいてこその社会なんだよ。ということで、私は社会に帰る」

 狒々から表情が消えた。

 剥製みたいになったと狐虎は思った。

 それから二度狒々はぱちぱちとまばたきをした。

 狐虎の頭に浮かんだ明朝体がこう告げていた。

【じゃ、死ね。メスの肉を食べるのは久しぶりだし、ちょうどいい】

 だらんとした指が鞭(むち)のように首に巻き付いてきた!

 反射的に足を上げて蹴り上げたが狒々には効いていない。プラスチックの板を蹴ったような音がしただけだった。

 首が苦しいがそれ以上に痛い。この痛みから解放してほしいが、このままだとその解放と死ぬ時がイコールになりそうだ。

 あまりに都合のいいことばかり口にしているから、ベタな悪役みたく豹変するのは予想済みだった。こんなベタな悪役に従って生きるのはキモいし、ましてこんな化け物の子供を生まされるのは地獄だと思った。

 なら、帰ると言うしかなかった。

 だけど、できれば生きて帰りたいな……。

 首を絞めている狒々と目が合う。やはり表情がない。怒りを表す顔がないらしい。コミュニケーションにメリットがないから捨てたのか。脅すだけなら、力を見せつければ、笑っていても同等の効果を発揮できる。

【千夏がここに残ってるのに、迷わず帰ると言い出すなんて情が薄いわね。死んで当然よ】

 ムカつく文字を脳内に打ち込まれて、カチンときた。

「ふっ、ふざけ、んなよっ!」

 咳き込みながら叫んだ。

「誰も一人で帰るだなんて言ってない! 千夏を連れて二人で帰るって言ってんだよ! 字面だけでなく、内面も読め! クソメスザル!」

 どうせ千夏のことだから、毒を食らわば皿までの精神でどっぷりつかってしまったのは容易に想像できるが、やっぱり毒は吐き出さないといけないのだ。戻ってこないと邪教の発表もできないじゃないか。

 叫んだらかえって力が湧いてきた。ムカつくことを言われて、怒りが体に回ったらしい。

 首にかかっていた指の一本を手で引っ張り上げて、口で力いっぱい噛みついた。伊達に虎と名前についてないぞ。自分は性狷介(せいけんかい)だ!

 狒々が「パアァッ!」と下手な金管楽器のような声で鳴いた。

 この指、さっきほかのメスザルの性器いじってたっけ……と嫌な気持ちになったが、それどころではなかった。

 痛みで首の指がゆるんだから、すかさず脱出する。やっとまともに酸素が入ってきた。酸素がおいしいとこんなに感じたことがあるだろうか。でも、まだ平和には程遠い。

 足で地面を蹴って、立ち上がる。

 危機的状況は続いていた。

 洞窟の入り口ではメスザルたちが無言デモのように立ちふさがっている。

 それに千夏も寝ているように同じ姿勢で、狐虎の横でじっとしたままだ。

 常識的に考えて、二メートル半の巨体の動物の手に噛みついただけで殺せるとも思えない。ボスザルとの戦いも残っているだろう。

 一秒後、二秒後が無事だとしても、ここから助かるまでの道筋はわからないままだ。

 後先を考えずに行動するのはいつまでも治らないものだな。反省する。今しか反省の機会もなさそうだから。

 将来設計をまともにやれるなら、宗教学の博士課程だとか就職氷河期どころか就職真空地帯みたいなところに身を投げ出すこともないし、ルームシェアだと言って千夏と住みはじめることもなかっただろう。

 自分も中腰になって、力士の蹲踞(そんきょ)みたいな格好の千夏の目を見た。

「千夏、捜し当てるまではしたよ。私、けっこう体張っただろ。いい奴だろ」

 聞こえているのだろうか。

 聞こえていない気がする。

 やはり、心みたいなものは残ってないのか。あの狒々に洗脳されてしまっているのか。

 狒々の指がまた足に絡みついてきた。さっきよりはるかに乱暴で、殺意をはっきりと感じる。

 これは勝てないな。

 自分のような博士課程では勝てない。

 助教でも教授でも無理だ。

「だから、百年後でも二百年後でもいいから私のこと思い出したら、涙の一滴でも流せ! それで許す!」

 千夏の瞳が光った気がした。

 これは涙……?

「今、泣けちゃいましたよ」

 千夏がしゃべった?

 狐虎がその確認をとる前に千夏は落ちていたナイフをさっと拾って――

 狙いすましたように狒々の巨大な左目に突きつけた。

「パアアアアアァッ!」

 狒々が絶叫する。

 そんな耳障りな声も気にせず、今度はナイフを右目に刺す。

 そこから両手でナイフを握って、斜め上に引っ張り上げる。

 両目をつぶした時点で事実上の決着だった。あとは消化試合で、千夏は狒々の首にナイフを入れて、くりぬいていくように動かした。

 血しぶきが噴き上がった。

 狒々はそのまま後ろ向きに倒れて、二度と動かなかった。

 その様子を夢でも見ているように、狐虎は呆然と眺めていた。

「あの……千夏……? バーサーカーモード? 前世が有名な人斬りだったりする?」

 次の獲物が自分だなんてことになるかもという怖さもあって、声がふるえていた。サルつながりでも猿夢みたいな展開は困る。

「連れて帰るって言ってくれてうれしかったですよ、狐虎ちゃん」

 狐虎のほうに振り返った千夏はいい顔で笑っていたが、狒々の血で真っ赤に染まっていたので、なんとも凄絶(せいぜつ)だった。

「いつから正気に戻ってた? そもそも、今は正気なの?」

「最初からです。この権現は洗脳するまでの力はないんですよ。だから従ったふりをして、調査していたんです。あの指突っ込まれてホルモンいじられて毛が生えてくるのはきつかったですけど」

 それから千夏は「狐虎ちゃんが来ちゃうからどうやって助け出そうか悩みましたよ」と文句を言った。

「あっはははは、ごめん、ごめん」

 と言いながら、狐虎は千夏をぶった。

「この研究バカ! メールの一通でもしろ! ふざけんな!」

「できるわけないですよ! 人家も皆無の超絶圏外ですよ!?」

 家でいつもやりあってるようなケンカの後ろで主を失ったサルたちが鳴いていた。

「挽歌(ばんか)ってところですかね」

「自分が手を下したのに他人事かよ。ところで……」

 言うか迷ったが、これから絶望的にしんどい帰路が待っているのだ。不安を背負って帰る気はしなかった。

「千夏、あの狒々の子供ができてたなんてオチはないだろうな……?」

 千夏が赤毛になっているということは、狒々との接触があったということを意味する。

「それは九十九パーセント大丈夫です。そんなに簡単にできませんよ。妊婦が今二人いるのは奇跡みたいなもののようです。それに」

 さばさばと千夏は言った。

「できたら、おろせばすむことですから。寄生虫みたいなもんでしょ。水子供養って概念ができたのはせいぜい江戸時代のことです。宗教学の研究室の人間なら常識じゃないですか。浅い信仰は怖くないんですよ」

 結局、千夏のほうが狒々よりヤバい奴だということがはっきりしただけだった。

 狐虎は苦笑した。

 笑うしかない。

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