第3話
最初のうちはまだよかった。
小さな谷川の両岸には子供なら喜んでぴょんぴょん跳ねていきそうな石が並んでいる。問題は大半がコケで黒緑色になっているから、本当に跳ねれば転倒の危険大なことだが、川の中を流れに逆らって歩くよりはよほどマシな道だった。
しかし――こんな参詣道が実在するのか?
狐虎も同じ研究室の人間だ。今は訪れる人間もおらず、道が消えかけている先にある朽ちた祠や仏堂を目にしたことは何度もある。うわー、蜘蛛の巣に直撃しました! デカいヒルいるから気を付けてくださいね! 同道した千夏の声もはっきりと再生できる。
けれど、この道はあまりにも破格すぎる。
否、絶対に道ではない。
ただの川の遡行だ。中世の修験者だってこんなところは歩かなかっただろう。彼らは山歩きのプロだったのだからもっと安全な道を使ったはずだ。まして奥ノ院なんて宗教施設を作ろうと思うだろうか?
「きっと、かつてあった参詣道が消滅したんだ。しょうがないから沢の先にある奥ノ院に到達してやろうと千夏のバカは考えた――って思いたいけど……」
ビニールでパックされている古記録の参詣曼荼羅らしきものの写しを見る。
縮尺を無視した稚拙な絵図は、どう見ても毛糸のような細い川を進むように描かれてある。
あまりにも特殊だ。
日本の修験は普遍化できない。儀軌(ぎき)も山ごとに違う。同じ言葉ですら、山ごとに発音が違う。まして修験者に限らず、昔の人間は大切なものほど口伝(くでん)に頼ったから、文字でたどることすらできないところばかりだ――宗教学の老教授が口にしていたのを思い出すが……。
「同一の山なんて存在しないんだし、地元の顔役の修験者だって違うわけだから、システムが一緒になるわけないというのはわかるけど、こんな例外中の例外などというものが生まれ出ることがあるのか?」
独り言はわざと口に出した。
野生動物に聞かせて、動物連中が降りてこないようにするためでもある。
足もとの悪い沢を一時間以上歩き通して、やがて最初の滝にぶち当たった。古記録には「一ノ滝」とある。高低差は四メートルほどか。水量は知れているが、滝登りの自信はないから、右手の岩肌に足をかけて高巻くことを選ぶ。うかつに流れに入って、もしも流されたら終わりだ。
一人での沢登りの最大のハードルが、徒渉(としょう)リスクが激増することだった。複数人のパーティーならどうにかなる川でも流されて、溺死するおそれがある。
岩肌はコケでぬるぬるとすべるので何度かひやりとしたが、なんとか高巻けた。見当はずれのところに上がって、ルートの復帰に手間取ることもなかった。水の流れに沿ってさかのぼるわけだから、必然的に湿気が多く、岩場もぬめっている。バリアフリーという概念にケンカを売っているようなルートだ。
「この程度のところで、千夏がくたばることはないな」
狐虎は千夏がいた痕跡を捜すことすらしない。
矛盾しているが、狐虎が進めるようなところなら、千夏は無事のはずなのだ。
千夏がくたばったとしたら、はるかに奥の箇所だ。千夏が山に入ったと思われる日の天気予報もチェックしていた。当日も前日も降雨はなく、川の水量がことさら多いということもなかったはずだ。
どれほど時間がたってるかも気にせず、「二ノ滝」を目指して、狐虎は歩みを進めた。今よりも前に向かうだけだ。
最悪、奥ノ院まで行ってやる。その先に千夏のバカが進んで落命していたのだったら、もう手に負えない。勝手に土に還れ。
だが、一ノ滝を越えた少し先で、狐虎は奇妙な感覚にとらわれた。
何かに、いや、誰かに見られている。
さっと、周囲を見回した。沢登りの先客の姿はない。
救助される時に保護色になってしまったら大変なので、登山者の格好は山の中で異質な存在として浮かび上がるものになっている。狐虎のヘルメットも鮮やかな赤だった。
だから、先客に気付かないということは考えづらい。
「本当にサルが棲んでる?」
けれど、気配は川に流されたように消えてしまった。
どのあたりから見られていたかも、もうわからない。
「直線距離としては知れてる。行こう」
また足を動かした。きっと、外国の治安の悪い町の夜中を一人で歩くよりは安全だ。
その先も小さな滝がいくつも続き、狐虎の体力を奪っていった。これがレジャーとしての沢登りであれば、絶景に感動する箇所もあるのだろうが、単純に景色としてもそこは見劣りした。水量は多いが、登山家のブログで見るような紺碧(こんぺき)の淵など望むべくもない。むしろ、薄汚れている気すらする。
これは誰も来ないだろう。沢登りは知られたルートですら、場所によっては年に数パーティーが通る程度というところもある。沢登りの人間からも捨て置かれた沢。
二ノ滝、童子滝、三ノ滝、声明しょうみょう)滝、不動滝、夜叉(やしゃ)滝……。
古記録には無数の滝の名前が続いている。高低差が一メートルほどで滝に分類されているかわからないところも多い。三ノ滝あたりから自分の認識と古記録はズレだしているかもしれない。
いっそ、お菓子の袋でも捨てて自然破壊しておいてくれれば千夏の気配に気付けたのに。予想はしていたが痕跡が一切見つからないことに苛立ってきた。このままではただの山岳マニアだ。
一ノ滝からさらに一時間半ほど進み、次の大きな滝にたどりついた。古記録が指すところの二面(にめん)滝なる比高五メートルほどの滝だ。水量は多く、シャワーを浴びながら一人で進むのは難しそうだった。それに流木らしきものも滝の下の浅い淵にあった。あんなものが落ちてきたら終わりだ。
膝まで水につかりながら、正面の滝を見上げた。冷静にルートを選ぶ。沢登りで滝を越えるルートを一つ間違えば、それは死につながる。そのへんの道路のように引き返すという選択がとれるわけではない。
「左側から高巻くしかないか」
滝の左手の、できるだけ乾燥していてすべらないように見えた岩肌に手をかける。すぐに、ほかの問題が現れる。ぽろぽろとつかむそばから崩落する。そういえば、細かなつぶてのようなもので滝の下が埋まっている。まるで賽の河原だ。石が道の両側に積まれた恐山を思い出す。恐山は硫黄の香りの先に静謐(せいひつ)な湖が広がっていて、地獄というよりははるかに極楽浄土に近い景観だった。
「このへんで死体見つかってくれないかな」
壁のほうに重心を載せながら、狐虎はつぶやく。
自分でも突き放した言葉に驚いた。
でも、それが本心なんだなと嘆息する。
まともに考えれば、千夏はこのルートのどこかで死んでいる。この苦行は千夏の死を確認するためのもので、ミッションコンプリートのためには、とっとと千夏の死体を発見することが必要なのだ。
逆に言えば、死体がなければ自分は踏ん切りをつけられずに引きずるだろう。
一人で出すには高いマンションの家賃も払い続けるかもしれない。
そりゃ、生きているなら生きていてほしいけどさ、だったら、帰宅してきてる。この先には山小屋も何もない。留まることすらできない。
手を安定していそうな岩肌に置いて、力を込めて、足を浮かせた。
その時、後ろから何かに引かれたようになった。
転落する!
つかんだ岩肌をすがるように握り締めた。
体はそれ以上沈まなかった。落下していないことをゆっくりと確認する。
ザックが岩に引っかかっていたせいだった。よくあることかもしれないが、肝が冷えた。
「はあぁ…………ここで死んだら成仏できないぞ……」
窮地を脱しても、登攀中で力までは抜けないのが腹立たしかった。
そのあとも、狐虎は無心で足を前に進めた。
矛盾するようだが、無心でいるほどにかえって千夏の思い出がよみがえってきた。
学部生時代、研究室に配属された時、自己紹介で名前より先に「邪神を調べたいです」と答えて笑われた千夏。フィールドワーク中、イノシシ除けの電流罠にぶつかった千夏。院に進むならルームシェアしてお金浮かせないかと提案したら、「いいですね」と即答した千夏。ダイエットすると言ってモヤシばかり食べてたのに、かえって一キロ増えてた千夏。
いい思い出はそんなにない。ケンカばかりしてた気もするし、千夏の竹を割ったような性格上、ちゃんと反省されることもなくうやむやになりがちだったし、なにより研究者としてのセンスと情熱が決定的に違っていた。
ルームシェア半年で、狐虎は自分が研究者でごはんが食べられる一握りのほうには選ばれないことを悟った。
大学は営業のために自分みたいな中途半端な能力の奴を院に引き上げたにすぎず、その道で将来も活躍できるのは、千夏のようなわずかたりとも後ろを振り向かない人間だけなのだ。
その千夏に寄生することだけで、この数年を生きてきた。
名前を覚えてもらえているのも特殊な名前のせいだけで、実績のおかげじゃなかった。
「死体があるとしたら、この先だ」
休憩もはさんで十四時半。
奥ノ院への最後の関門である、高さ三十メートル級の滝の前に出た。
古記録には解脱(げだつ)滝とある。登り切れれば解脱に至るということか。それとも解脱するほどに登るのが難しいということか。
不気味なほどにV字の滝で、水が落ちる滝の奥は薄暗い闇だ。これがゴルジュというやつか。
正直、ここの登攀(とうはん)中に転落して千夏は死んだと予想していた。
間違いなく、行程の中で最高難度のものだ。寺は元禄年間に廃絶したということだが、こんなところ、本格的な登山装備のない前近代の人間が登れたのだろうか。たしかに沢登りを専門にする人間からすれば、五十メートル未満の滝なんていちいち来るようなところではないもののはずだが、とても社寺の参詣道ではない。大半の挑戦者が奥ノ院に着く前にホトケになる。
しかし、滝の下の深い淵にも千夏は沈んでいなかった。
遺留品もないと判断して、半笑いでつぶやいた。
「千夏、私を殺す気だろ」
死体が見つからない以上、先に行くしかない。
この文字通り初心者殺しの滝を越えるしかない。
左右から高巻くことは不可能だ。まともな思考ができるなら引き返すべきだ。
でも、ここで逃げれば結局死ぬまで中途半端な人間になってしまう。
それに、滝を見上げて、岩の中に何か光るクギのようなものに気付いてしまった。
岩のわずかな割れ目にハーケンが打ち込まれている。
人間が、きっと千夏が、ここまで来たという証しだった。
「生きてろよ。死んでるなら、今すぐ滝から落ちてきて。でなきゃ、登り損だから」
V字の滝の中に身を入れて、両足で踏ん張る。一センチでも上へ進む。滝の水量は知れているが、しぶきが体にかかる。
命がけの旅だが、狐虎は自分の顔が笑むのがわかった。
「これ、完全にアレのメタファーだ。胎内回帰じゃん」
この暗いV字のゴルジュは修験道を多少なりとも知っている人間にはすぐに女陰を想起させた。別に滝である必要はない。岩と岩の隙間でも、闇で覆われたまっすぐな廊下でもいい。修験道でも密教でも、こういうところは一度死んで生まれ直すスポットだと考える。
だとしたら、ここは道に見えなくても紛れもなき参詣道なのだ。
奥ノ院はこの上に実在する。
その時――
また見られている感覚がやってきた。
どこにいる?
まさか、正面の岩がこちらを覗いていることはないから、滝の上からか。
そんな何匹もサルがいるのか?
落石も怖いが、落ちてくるサルも怖い。逃げ場など一切ない。
引き返すこともこの態勢ではできそうにない。
いや、この感覚はそんな第三者とは違う。
「千夏だ」
狐虎は直感する。
清水の舞台から飛び降りるつもりで、次の一歩を踏み出す。
リタイヤすることは不可能だ。登り切るしか道はない。
ついに千夏が打ったハーケンに足をかけた。
この先に千夏は到達したのだ。
なら、自分が行けたっていいだろう。同じ人間じゃないか。どうして千夏と同じところにたどりつけないと決めた? そこにどんな合理的な根拠がある?
ただの意地だった。ここで引き返すのが最も屈辱的な結末だ。
また一歩踏み出す。腕に力を込めて、肩の筋肉を動かして、先へ上がる。
そして、ついに滝の最上部の岩肌に手をかけたと思った時――
その手が何者かに引っ張られた。
びっくりして墜落しかけた。どうにか留まった。
狐虎は、自分をつかむ手を見た。
人の手のようでやけに毛深い。本当にサルなのだろうか? だが、サルの手にしては大きすぎる。
その手は狐虎を引き上げようとする明確な意思を持っている。
千夏、と呼ぶのはやめておいた。
まだ自分の足場は不安定だ。引っ張る対象と同じ滝の上に上がりきってから、何もかも確認したほうがいい。
すべてはこの先に行けばわかる。
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