UNPOISON

星雫々

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─── " 珈琲はミスリードである。"














× × ×




硬いソファに腰を下ろし、風呂上がりの濡れた髪のままでひとつ溜息をついた。





窓を開けて入ってくる風も所詮はぬるく、結局エアコンのスイッチを入れた。Tシャツが背中に張り付くのが、生々しい夏の夜の合図だと思う。


人工的に作りだした白い光が嫌に眩しいので、スイッチを荒く叩いたら黒が広がる。


カーテンがそよぐのと、先程の部屋の光を集めたようなスマホの画面以外には光という光が失われた。






夜は陰が出来ない。





昏い部屋に差す月の光程度では、影は作り出すことが出来ない。昼間は陰ができてしまうが、夜は平等を見せる。





星は星型ではないし、月は丸くなんてない。


雨は雫型ではないし、


海にも空にも果てがある。


珈琲は茶色ではなく、どす黒い。







読みかけの小説は前半の内容を忘れたし、バラエティ番組に興味はないし、対抗するSNSのタイムラインにも興味深い話題は転がっていなかった。張り付くTシャツを無理やり剥がして鍵を持ち、部屋を出た。



エレベーターを降り、エントランスに設置されている自販機にスマホを翳す。売切が並ぶボタンを指先でなぞり、唯一、緑のランプが付いた缶コーヒーを選択した。刹那、鈍い音がゴトン、と響いてから自販機は眠ってしまった。


たまにウンウンとエンジン音を鳴らすが、すっかり役目を終えてしまったようだった。



エレベーターに再度乗り込み、手にした缶コーヒーを凝視する。









× × ×






あの人と出会ったのは、

気温が体温の微熱に近い夏の夜だった。





明治神宮前駅の出口を出ると、蒸し暑い空気が顔を覆った。熱風がむんと漂う。人という人の気配が立ち込めた夜だった。


工事現場の鉄骨が無骨さを際立たせる。振り返って横断歩道の信号待ちをしながら、この場所が以前なんだったか考えた。AirPodsの奥で、ベース音がタイムリミットを知らせる糧のようにして流れ続けた。





「ねえ、何聴いてるの」





そんな声を聴いて初めて、信号がまもなく五度目の青を迎えていたことに気付く。


驚いてそちらを見ると、僕のAirPodsを片方取って、耳に当てていた。ドンドン鳴るだけだね、と残念そうに差し出した。ベース音だけでは何の曲か名答する事が出来なかったらしい。


どう考えたって可笑しな光景であったのに、差し出された左手に対して右手を差し出した。


コロンと転がった片方は熱を持っていた。


道行く人は誰も僕のことを見てはいなかった。信号が五度目、六度目の青を迎えても、人はパーソナリティを俯瞰する。


8月26日、PM10:06の出来事である。






その人はちょうどこの闇に差すネオンの光を模したように、胸あたりまでの黒髪にブロンズのメッシュを入れていた。黒に包まれた身を灯すようにして黒髪から揺れるのが綺麗だった。



揺れる傍から見える耳には、三つのシルバーピアスが顔を出していた。あとから見ると、反対の耳には二つチェーンピアスがあった。


服装は全身が黒い布に覆われたような格好で、白い肌を透かす黒いオーガンジーブラウスに、ブラックレザーのスカート。


夏にレザーを着る人に、僕は初めて出会った。






「こっち」







喧騒の中そう一言呟いて、その人は歩き出した。それがどんな意味を指すのかは理解できない。だけど僕は肯いた。肯定した。


蒸し暑さを言い訳にして、ベース音を言い訳にして、原宿の喧騒を言い訳にして、ついてった。




もう何度、青を迎えたか分からない横断歩道を渡り、緩やかな坂を少しだけ降りて女の子達が並ぶかき氷店を曲がり、裏道へと進んだ。そこからは魂だけを連れるようにして歩いた。




ここだよ、と言われたのは覚えているが、階段を昇ったかエレベーターに乗ったかも覚えていない。だが、きちんとその人の部屋へと魂も、そして肉体も自らの足で運ぶことが出来ていた。夏の過失は恐ろしい。



部屋に入るなり靴を脱ぎ散らかして、その人は廊下を進んでいってしまった。僕は脱いだ靴を揃えて着いていく。


マルジェラの香水の匂いがした。




「適当に座ったら」





適当に。テキトウニスワッタラ。これに対する答えがなんなのかはまだ解明されていない。しばしば小説やドラマ、或いは映画なんかで耳にする決まり文句ではあるが、どのシーンでも慌てふためくだけ。だから僕もそれが正解なのかもしれないと落ち着かぬ素振りを見せるも、この人は鼻歌を歌いながらキッチンに立っていた。キッチンにはIHヒーターと冷蔵庫、それからコーヒーメーカーだけが背比べをするように横並びになっていた。コーヒーメーカーは大理石の台に乗って、ズルをしていた。




詮索するのも良くないだろうと察し、僕はだだっ広いリビングを見回した。ベッド以外には家具という家具も、家電という家電も見当たらない。こうしているのも悪いので、端の方に腰をおろした。


ひょっとしていま僕は、大変なことをしているのではなかろうか。割り切ることの出来ない計算問題を必死で解く時のように、頭をフル回転させるも遮断された。







「好みとかある?」






その人は突拍子もなくそう尋ねた。


沸騰し切った頭は限界を迎えていた。






「ロングヘアの人が好きです」

「そうじゃない。豆の話」





それはどうやら珈琲についてらしかった。洒落た小包をいくつか出して、キリマンジャロ、ブルーマウンテン、などといった聞き馴染みのない暗号を唱え終えてから、「で、どれにする?」と締めた。



僕は豆から出来ていること自体も知識として怪しいレベルで、僕は珈琲に詳しくなかった。缶コーヒーでさえ父親が一本奢ってくれた時に飲んだだけ。苦味が抉るようで耐えかねて、それさえ途中でのこして棄てた。




「あの、おまかせで」

「りょーかい」



するとほどなくして自然すぎるほどにスムーズな流れでコーヒーは運ばれてきた。この殺風景な部屋に対してコーヒーメーカーが完全に浮いていた。透明の耐熱カップに注がれてきた、黒は揺れていた。






「なんか意外です」

「なにが?」

「その、コーヒーとか入れるんですね」

「うわ、失礼」

「いや違くて」

「ふふ、」






あまりに不自然と乖離していたため逆に恐ろしくなり、アルコールや良からぬものが混ぜられておりはしないかなどと疑ったが、ひと口舐める程度で舌を付けると痺れるような苦味が伝播した。だが、なんとも言えぬ渋味が胃を通過するあたりで巡った。これが深い珈琲のコクなのだと知った。



その人とは一晩、珈琲を飲みながら言葉を交わした。ただただ話をしただけで、記憶といえばこのこびりつくコーヒーの苦味だけ。





「大学生?」

「はい。一回生です」

「そうなんだ、大変だね」






この会話から、この人は大学生とは違うのかと予想したものの、その後の会話でゼミ選択間違えて最悪だとか言っていた事から、大学生であることだけは分かった。だがそれが二回生、三回生、もしくは四回生、それよりもしくは五回生以降であることも分からなかった。





「恋は弓矢。そして愛は弾丸。」




どういった流れだったかは思い出せないが、その人はそう言った。親指と人差し指で簡易的な銃を作り、こちらへ向けて撃つ素振りを見せて。わかった?と八重歯を見せながら笑う姿が皮肉だった。だが小学生の悪戯のように、本気という概念を知らないらしいのでもっとタチが悪かった。


午前3時頃の出来事。



× × ×




それから僕も、その人も、眠ってしまった。


目を覚ますと雨が降っており、


誰もいなくなっていた。


香水と珈琲の匂いが充満していただけ。





× × ×



それ以来会っていない、というよりその術がない。時々裏通りを歩いてはみるものの、それらしき人に出くわす確率は低すぎる。


試しに一度、本能が覚えている限りであのマンションへと足を運んでみたが、もうあの人の痕跡はなかった。紛うことなき空き部屋。






硬いソファの上で、親指と人差し指で銃を作り、小さな窓から覗く夜闇に向かって撃ち放った。あの人の見ていた銃口の先は、いまも燃えているだろうか。


現在の工事現場はかつて、細い道へと繋がっていたことを思い出した。だが、その裏道になにがあったのかまでは知らない。


あの人がどこへ行ってしまったのかが分からないまま時が過ぎてしまっていても、裏道を阻む工事が終わらないように、ラフォーレ前のスナップ撮影のスカウトが後を絶たないように、電光掲示板がバグを起こさないように、未知は未知のまま。






手にした缶コーヒーは熱くも冷たくもない、中途半端な温さで恒温を保っていた。それと共に記憶も恒温を保ち、都度呼び戻される。


それが正しきデータなのかが問題なのではない。


あれから僕は、珈琲を飲むたび愛を撃つ。


あの珈琲はもう口には出来ぬが、舌にはまだこびり付いたまま。








カフェインは果てなきバレット。




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UNPOISON 星雫々 @hoshinoshizuku

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