龍の王〜Lord of Bahamut〜 外伝

朝比奈歩

二人だけの秘密の場所 

「…えーん…えーん…」

「……ん?」

アスアドはふと素振りを止めると、わずかに声が聞こえたような気がして耳を澄ませた。

ここは、宮殿の裏の誰も来ないような辺鄙な場所であり、アスアドの秘密の特訓の場所である。

今まで、こんな場所に人が来たことはない。

だからこその秘密の特訓場所だったのだから。

「…気のせいか?」

アスアドが頭を振り剣を構えると、再び小さな鳴き声が耳に届いた。

「えーん…えーん…」

どうやら子猫…ではない。

微かに聞こえたその声は、恐らく人間の子供のものだった。

アスアドは剣を鞘にしまうと、声のした方を振り返る。

もし、小さな子供がこの場所に迷い込み、怪我をしているならいけないと思ったからだ。

アスアドはしばらく静かに歩を進め、声のしたらしき茂みに近づくとそっと声をかける。

「誰か、いるのか?」

「……!」

その声に、泣き声の主は驚いたようにアスアドを見上げた。

まさか、人がいると思わなかったのか、その人物は目を見開きアスアドを見つめる。

目を泣き腫らしてはいたが、その天使のような愛らしい顔には見覚えがあった。

アスアドはサアっと血の気が引くのを感じる。

アスアドの前に現れたのは、イスハーク皇国の第二皇子であるファールークだった。

「で、殿下?!」

アスアドは思わず驚きで声を上げ、口を押さえる。

茂みの影に身を潜め声を殺して静かに泣いている彼の姿はポツリとたった一人で、より悲しみを誘う。

アスアドは混乱しながらも、ファールークの方へ近づいた。

「あ、あの、どうされたんですか?!どこか痛いのですか?お怪我でも…」

「ち、ちがうよ…」

ファールークは涙を拭うと、その愛らしい顔に無理やり笑顔を作った。

「ありがとう、ぼくは大丈夫…。それより…ごめんね…ここ、君の場所だったんだね…」

笑顔を作るファールークだが、その目からは再び大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。

「だけど…」

確か、この皇子はまだ7歳のはずだ。

そんな年齢の皇子が、人前で泣くこともできず、隠れて泣くことしかできない…。

あまつさえ、泣いていた時ですら、相手のことを考えようとする。

アスアドは、まるで胸が締め付けられるような妙な気持ちになった。

アスアドは、少し上を見て、何かを心を決めたようにファールークに向かい合うと、パッと手を広げた。

「……え?何」

「殿下、ど…どうぞ!!」

「……?!」

ファールークは、アスアドの行動の意図が分からず、オロオロと彼の顔を見上げる。

「な、なに…?」

至って真剣なアスアドの表情に、ファールークは漸く声を絞り出した。

「えと、その…泣きたい時は、泣いたら…いいと思います…」

「え……?」

アスアドの言葉に、ファールークはポカンと口を開ける。

ファールークを見つめ腕を広げたまま、アスアドは唇を噛み締めた。

「殿下は…お立場上、中々泣けないと思いますが…おれの前なら大丈夫です。お姿を隠す盾に位なれる…と思います…」

アスアドは必死だった。

「……」

「ほら、こうやっていれば、もし、ここに誰かが通りかかっても…おれが一人で壁を向いて泣いているように見えるはずです」

そう言って、そっとファールークを胸の中に閉じ込める。

アスアドの行動に、ファールークの胸がじんわりと熱くなった。

病弱な母親、忙しい父親。

こんな風に、優しく抱きしめてもらうことなど殆どなかった。

「…う…うう…うわーん…うわあああああん!」

ファールークは堪えられずアスアドにしがみつき、堰を切ったように泣き出した。

こんなに泣いたのは、何年ぶりか。

ファールークが泣いている間、アスアドはずっとファールークの背を撫で続けていた。

しばらくそうして泣いた後、少し落ち着いたファールークはポツリポツリと話を始めた。

思い切り泣き顔を見せたからか、気を許したからか、普段なら他人に言わないような事を、アスアドには話しはじめる。

それこそ、生まれた時からの付き合いのジュードにも言ったことのないようなことを。

なんとなく、ファールークにはアスアドは信頼に足る人物のように思えたからだが、その勘はしっかり当たっていた。

そして、その人の本質や才を見抜く目を、ファールークはこれからどんどんと磨いてゆき、また、人の注目を集める術をも自然と身につけていくのだが、それはまた少し先の話。

「母上がね…毒を飲んでいるんだ」

「毒、ですって?!」

驚くアスアドに、ファールークは泣き腫らした目を伏せて、膝を抱えた。

「お薬って言われてるけど、本当は毒なんだ。母上は、それを知ってるけど、何も言わずに飲んでるんだ…」

アスアドは、心臓がひんやりと冷えていくのを感じた。

おそらく、そんなことができるのは皇后だろうと、アスアドは唇を噛んだ。

ーー皇后が第二皇子の母を疎んでいるのは知っていたが、ここまでとは…。

そして、側室である母親もそれを受け入れている。

それはひとえに息子であるファールークを守るためのものだ。

しかし。

もし、彼女がこの世を去ったとしたら。

守るものがいなくなったこの小さな皇子を、今度は誰が守るというのか。

アスアドは、強く拳を握りしめる。

「あのね…」

アスアドの思考を遮るように、ファールークが言葉を投げかける。

「ぼく、強くならなくちゃいけないんだ。兄上みたいに。だから…その…」

「おれにできることなら、なんでも言ってください!」

噛み付くように言ったアスアドに、ファールークは恥ずかしそうに俯く。

「ぼくが泣いてたこと…内緒にしてくれる?」

「勿論です!口が裂けても言いません」

「へへ…ありがとう。アスアド!」

「え?!おれの名前…知って…」

言われて、初めてアスアドは自分が名乗っていないことに気がつく。

大失態だ。

「知ってるよ。アスアドはハサンの隊で、大人に混じってすごく頑張ってるもの」

少しだけ笑ったファールークに、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。

この小さな王子を守れるなら、自分はなんだってしよう。

そう、アスアドは自然に思った。

「殿下…」

「うん」

「おれは良くここで鍛錬をしています。殿下がよろしければ…もし、何かあった時…いや、何もなくても、いつでも、ここに来てください。ここなら、おれ以外誰も来ませんから…殿下がお話ししたい事を話してください」

「いいの?」

「勿論です」

アスアドはそう言って笑うと、とんと胸を叩いた。

「泣きたい時にはいつでもお貸しします」

「ふふ!もう泣かないよ」

ファールークの相貌に、笑顔が溢れた。

「…ありがとう」


それから、この場所はファールークがユースィフと名前を変え宮殿を出るその日まで、二人だけの秘密の場所として長く使われることになるのであった。

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