落ちても誰も変わらない

吉野奈津希(えのき)

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 結局のところ、いつも俺は見逃している。

 些細なことと思っていて、それを取りこぼしている。


▲▲▲


 鈍い音がして、それから俺は気づく。また死体が落ちてきた。俺の目の前にはどこからから落下してきた死体があって、それに俺が気づかなかったのはボケっと俯きながら歩いていたからだ。

 今日も顔すら見ていない。

 落下した衝撃で死体の顔は潰れてしまっているが、死んでからしばらく経過していたようで地面についた血は大した量じゃない。

 真昼間からの道端で人通りもまぁまぁあるところでの原因不明の死体落下で本当のところはもっと驚くべきなんだろう。社会的な視線とか、そういうことではなくて目の前で決定的に生命が終わっていることを示されたということへの畏怖のような感情を俺は覚えるべきなんだろう。そんなふうに俺の中の何かが訴えてくるのを感じているのに俺の感情はピクリとも動いてくれない。

 こんな状況に慣れ切っている。

 それは俺だけに限らなくて周りの通行人も死体が落下してきたことについて何の感情も干渉もない。チラリ、とこっちの方は見るけれど俺の目の前で落ちてきた死体についての責任は俺のものになるので皆関わりたくなくて声もかけずにそれぞれが向かうべき場所へ向かっていく。

 もう、こんなことの繰り返しだ。


▲▲▲


 死体が降ってくるようになったのは一年ほど前のことで、最初のころは皆パニックだった。連日ニュースはその話題で賑わっていたし、そのトラブルの様子を皆がこぞってネットにアップして画像掲示板では死体が落下によって欠損した様子が晒されていた。

 死体が目の前で降ってくる人やよく落下する場所の傾向について誰もが好き勝手言い合って結局のところ本当のことは何もわからない。ただ、妙にそんな落下に居合わせる人がいるだけで何処から死体が降ってくるのか、どうして降ってくるのかも何もわからなかった。

 ただ、死体が降ってくるという事実だけがそこに残って繰り返し語られる。

 最初はどれだけ衝撃的だった事件であっても人は刺激に慣れていく。

 死体の身元は不思議なくらいわからなかった。複数件の報告が上がっているのに誰もその死体が誰のものなのか特定できない。

 落下した時に顔が潰れてしまっている。決まったように顔面から落下して、その瞬間を見ていなければどんな顔だったのか記録にも記憶にも残っていない。

 不思議なことにそんな死体がポンポン出てくるというのに、行方不明者が新たに出たというわけではなかった。

 どこかの職場から不意に人が消えてしまっただとか、家族が失踪しただとか、そういう話がこの現象と同時に起きてもよさそうだというのに全く上がらなかった。

 だから、この落下する死体は誰でもない。世の中で透明だった存在がある日突然落下する死体となって現れたことになる。


 俺は職場に連絡して状況を伝える。上司は「またか」と感じているだろうが、それを言うのは社会的には許されないのでしぶしぶ了承している空気を感じる。ニュースやSNSでは身元不明の死体についての扱いなどについて個人の尊厳についてで議論になっているが、実際に目の前で落下を見た俺にしてみるとこれからの手続きが増えたということに対しての憂鬱が繰り返された落下の衝撃よりもまさっていて、自分の中の人間として大切な何かがすり減っているような気がする。

 警察に連絡して死体が引き取られるまで待ってあれこれ現場の状況を伝えて解放されてから会社に行くことになる。この現象が起き始めたばかりの時は丸一日拘束されることもあったが今はそこまで拘束されることもなくなった。

 警察が到着するまで、死体の側で待つ時間は不思議だ。傍にもう動くことのない存在がいる状況で動かないようにして過ごす時間はいったい何のための時間なのだろう? 俺はすぐ側にいる死体についてどんな思いを馳せればいいんだろう。

 何一つわからない。ただ警察がやってくるまでの十数分を俺は照りつける太陽の下で待ち続ける。

「お前、暑くないのか」

 死体に向かってそう呟く。死体は返事なんてしない。

 俺も死体に対して返事を期待しているわけじゃない。

 でも、死体以外俺とそんな言葉を交わすやつもいない。誰もが俺と死体を一瞥して何事もなかったかのように素通りしていく。きっと、俺も自分の目の前で落ちた死体じゃなければそうしてしまうんだろう。

 警官がやってきて、現場について俺にいくつかの質問を投げかけてくる。機械的な質問でそこに俺の意思も感情も、警官の興味も心情も存在していない。

 ただ仕事としての会話。紙の空白を埋めていくだけの作業だ。

「それにしても」

 警官が俺の顔を見て言う。見知った警官だった。名前も覚えていないが、もう何回もこの警官とは出会っていた。

「あなた、本当によく立ち会いますねえ」

 変なもんだ、そう警官が呟く。俺だってそう思う。これでもう7回目だ。


 出社していつも通り仕事を始める。入社して数年後に総務になって、もうそれからの会社にいる時間の方が長くなっている。毎日同じようなことを繰り返しこなしている。社内の規定を読めばわかるようなことについての質問に書かれた通りのことを答える。上から言われた無茶なスケジュールについて否定もできないまま転がし始めて現場の人間からそのスケジュールについて文句を言われる。

 ただただドブをさらって別の場所にドブを積み上げているようなことの繰り返しをしていると思う。

 効率化といいながら仕事を増やしているだけに感じてしまう。俺は何がしたかったのだろう。

「國吉君、本当に居合わせるね」

 上司の片桐の言葉に「わざとやっているんじゃないか」というニュアンスが混じる。テレビでは連日落下死体の話が繰り広げられているが、実際に遭遇しない人間からしたら遠い出来事なのだろうと思う。俺からしたら避けられないし、わざとでいちいち警察に連絡をするような出来事に遭遇したくないのだが片桐からしたらそれが納得いかないのだと思う。 

「すみません。どうにも間が悪くて」

「羨ましいよ。そんなのに気がつくくらい時間があってさ」

 明確に嫌味を言われたな、と思うが「すみません」と重ねて言って仕事に戻る。

 片桐の反応にも慣れた。いつも何かに不満を持っている人だと気づいたのは異動してすぐだったがこうして慣れるまでにはだいぶ時間がかかった。結構な嫌味を言ったと思えば機嫌が良い時は「いつも助かっているよ」などと言ってきたりとだいぶ癖のある人柄で、自分以外の人員は異動の希望を出したり、辞めていった。もしかすると精神を病んでやめてしまった人もいたのかもしれない。

 総務の中でも退職理由などは担当のものと片桐ぐらいしか把握しておらず、俺は他の社員より退職したり休職したりということを少し早く知るだけだった。

 片桐が舌打ちをしながら仕事をしている。

 近日で保管期限の切れる書類の廃棄の仕事を進めていく。そうして資料のピックアップと整理をしていると見覚えのある名前がある。

「西山か」

 俺と同期の男の名前。俺と入れ替わりで総務を、この会社を辞めた人間の名前。


 俺の会社は中小だったし、その年は景気が悪かったらしくて入社したのは俺と西山だけだった。俺は意欲がなかったし、西山は意欲があったけど人間関係がうまくできなかった。

 西山の中には一本の完全に整った規則が存在していて、西山の言動を支配していた。それらの一つ一つは間違っていないようであるのだけど、それは間違いだらけの社会生活ではうまく機能しない。

「人の陰口は良くないんじゃないですか」

 そう西山が当然の様に放った言葉が脳裏をよぎる。

 入社したばかりの時の複数の部門のジョブローテーション期間でのことだった。部門の先輩たちと食事をしていた時だったと思う。

 ジョブローテーションといえば聞こえはいいが、実際には会社の新入社員の受け入れ体制が整っていないものだから各部門に押し付けあって数ヶ月受け入れ準備が整うまで時間を稼ごうという魂胆が見え見えの研修だった。

 そんな事情に各部門もだが、俺たちも振り回されていた。

「こまっちゃうよね。総務もそこら辺ちゃんと調整してくれないと困るよね」

 ジョブローテーションで回された部門の人が言ったのはそんな背景もあっての言葉で、きっと俺たちはそれについて曖昧な同意をしたり、適当な悪口を言って連帯感を得るのがよかったんだろう。

「でもそれは総務の人だけじゃわからないんじゃないですか。そういう意見を部門の人からあげていかないと会社も改善できないじゃないですか。悪口言っても変わらないですよね」

 西山はそれが出来なかった。西山の中にある悪口や陰口はいけないというルールを裏切ることが出来なかった。俺は部門の人に曖昧な笑顔を返すだけだったのに西山は真っ直ぐにそれを否定していた。

「絶対おかしい」

 西山は口癖のようにそれを言っていたし、言葉自体は正しいはずだった。世の中で良しとされること、やってはいけないとされていること、そんなことを西山は順守していた。

 でも、西山、そうなっていないんだよ。俺たちがおかしいと感じたことも、違うと思ったことも、あっという間に人波に流されて消えてしまうし、お題目はお題目に過ぎないしそれを守らない方がおかしいと思われてしまうんだ。

「あの西山君、ちょっとおかしいね」

 だから俺は先輩がそう言った時に曖昧に答えることしかできなかった。

「おかしいよ、どうしてこんなみんな平気で悪口を言えるんだ」

 西山はそれから俺としか昼食を取らなくなったし、俺は俺で西山を嫌うこともできなくてたまに一緒に昼飯を食べるたびに西山は愚痴っていた。

 俺が徐々に職場に馴染むに反比例するように西山が職場で浮いていく。

 皆、積極的な排斥を西山にしなくても一人一人が西山に対しての積極的な交流を断つと自然と西山は浮いてしまう。俺にだけ渡されるお土産、西山には与えられる空白。そんな積み重ねが西山をいないものであるかのような空気にしていく。

 もしかすると、俺が西山と食事をしていたのはそんな状況の罪滅ぼし、いや俺が罪悪感から目を背けるためかもしれなかった。俺が怖くて何も変えられなかったから。西山のように、目の前のおかしなことに向き合っていられなかったから。

「おはようございます」

「おはよー」「今日だいぶ暑いね」「結構仕事慣れた?」

 朝、オフィスに入ってきて俺の挨拶には皆が返してくれても西山の声には露骨に反応が薄い。仕事に集中している様子で西山に声を返さない人が大半だった。

 当てつけのように俺に構う先輩たちが苦しかった。それでも入社したばかりの俺は会社という枠組みから溢れてしまうのが怖くてその好意を否定出来なかった。

 だから、たまに西山と昼食にいく。俺は西山を否定しているわけじゃないという形だけの罪滅ぼし、自分が楽になるためだけの行為。

 西山は俺に対して何も気にしていなかった。ただ同じ年度に入社した社員として好意すら持ってくれているようだった。

「はやく出世してこんな環境俺が変えたいと思っている」

 定食を食べながら西山はそう言っていた。俺は「そうだな」と頷くことしかできない。

 それでも、西山のそういった摩擦は仕事にも影響が出てくる。

 一つ二つとジョブローテーションの中で部門をめぐって過ごすたびに西山の言動一つ一つが積み重なって社員間での不和になっていく。

 正式な配属の頃には西山は「ちょっとアレな子」みたいな認識がおおよそで定着してしまっていて、配属も当初西山が希望していた社外に対しての業務を行う部門ではなくて総務になっていた。細かな経緯も、その時の西山の気持ちもわからない。

「そうか」

 西山はそう言ってその配属を受け入れていた。

 でも、それは西山なりの諦めだったのかもしれない。何を言っても無駄だという無力感。ただ、そういうものだとも思った。どう思ったところで皆が口で語る理想と現実の間には大きな差があって、それをなぁなぁでうまく避けて目の前の問題を対処していくことが生きていくことだとすら思った。

 そうして自分を目的のための機能に落とし込んでいくこと。それが生きていくために必要なことだとも思ったし、俺はそうするのが正解だとすら思った。

 だから西山が「そうか」とだけ言った時、俺は安心していた。それはきっと自分が間違っていないという確証を得たかのような安心感で、自分がなぁなぁで済ませていることを認められたような感覚だった。

 西山だって受け入れたのだから、正しいはずだ。

「俺は俺で総務でやっていくよ。少しでも良い環境を作っていきたいから」

 配属前日に西山と退勤後に入った居酒屋でそう言っていた。西山は全くと言っていいほどお酒を飲まないからウーロン茶を飲みながら他の人間では酔っていないと言わないようなことを言う。

 でも実際に俺が総務になって思う。日々上からの指示で他の社員に時間を割かせて当人たちの望まない社内改革を繰り返す、効率化をしてさらに業務を増やしていく、思考停止した業務の繰り返し、ルーチンの改善は新たな仕事が増えることなので指示があるまではその工程に無駄があることを知りながら誰も触れようとしない、そんな無意味なことの積み重ねが西山や俺が配属された場所で西山の理想はどこにもない。

 それに西山は疲れたんじゃないのか。そんな無意味さに耐えられなくなったんじゃないのか。

 配属して一年も経つと入社したばかりの頃と違って俺は俺で自分のいた部署の人間としか関わらなくなっていた。俺は俺で顧客とのやりとりで気を揉んでいたし、上司から求められるタスクをこなすことで精一杯で西山のことを考える余裕なんてなかった。いや、その時には入社当時の西山のことを思い出してはその振る舞いに腹を立ててすらいたと思う。

 理想ばかりで目の前の現実に対処もしない怠け者、自分ができないことの言い訳をしている、そんな風に考えて今苦労している自分を正当化しようとしていた。

 だから、西山がいつの間にか仕事を休む様になっていたことを俺は結構な期間知らなかった。

 休んだことに気づいても俺は何も西山に連絡をしなかった。そうするのがむしろ西山にとっていいのではないかと思った。そういう時間も必要なんじゃないかと。

 でも、西山はいつの間にか仕事を辞めていて、俺は何も声をかけること、西山から何か言われることもなくただその事実を知った。

 俺は西山がこの会社で最後何を思って辞めたのか知ることはない。

 ただ、死体が降ってくるようになってどうしてもそのことが脳裏によぎるようになった。西山は今何をしているんだろう。そんなことばかり考える。

 一度、西山に電話をかけてみたことがある。メッセージを送るのでは読まないで放置されてしまうかもと思っての電話だったが、入社時に聞いた西山の電話番号はもう使われていないとのことだった。

 仕事も辞めて、個人の携帯電話の番号も繋がらない。西山と俺との関係は完全に切れてしまった。

 そもそも、西山は今でも生きているんだろうか。そんなことを考えるようになった。

 鈍い落下音が響くたびに俺は目を逸らしている。西山から目を逸らした時のように、それが仕方がないことだからと自分に無理やりに折り合いをつけている。

 繰り返される日々と、繰り返される落下する死体。その違いにどれだけの差があるんだろうか。

 俺はきっと恐れている。目の前で落下してきた死体の中に西山がいるかもしれないこと。顔が潰れて、外見上の特徴ではもう何者かわからない死体にもきっとそれぞれの人生があったはずだ。そうであるのに、誰もその身元に心当たりがないのだとしたら。

 それはきっと、この世界の中で誰とも繋がりが残っていなかった誰かということになるんじゃないか?

 いてもいなくても変わらなくなってしまった人。死んでも誰もそれに気づかない様な人。そんな誰かが落ちてきているような気がしてくる。

 だから、俺は恐れている。西山がそんな風に誰にも気づかれなくなってしまってのではないかということが。


 結局、俺も会社に適応しきれなかった。右から左へとドブを積み上げているだけのような、重ねても重ねても崩れていく繰り返しに俺も耐えられなくなってしまった。文句を言っても変わらないと思ったから文句を言わない様にした。辛いと思っても現実が変わるわけではないから辛いと思わないようにした。そうやって一つ一つの感情を動かないように、静止させていった。そうすることが和を乱さないことで、そうすることが働くということだと思ったから。休みの日も心を動かさないようにした。仕事から離れれば離れるほどに戻った時の心が苦しいと思ったから少しでもその差を無くそうと思った。

「どうしてできないの?」

 上司が不思議そうに俺に聞いてきた。そんな繰り返しだった。

 自分の頭で考えること。

 それが俺の配属された部門での最優先とされるテーマだった。

 どうすれば効率が良くなるかを考えた。少しでも仕事で心が動くことを減らしたかったから。寝ても覚めても仕事のことばかり考えている様になった。そうすることが正しいと思っていたし、思おうとしていた。

 でも考え続けた先で俺は気づいてしまう。効率的に仕事をまわそうとした時に一番のボトルネックになっているのは俺で、俺がうまくこなせないから仕事が上司の望むように進まないのだと。

 あっという間に自分の意味が揺らいでいった。一刻も早く自分が消えなくてはいけないと思った。この場に、職場で俺が仕事をすること自体が仕事にとって悪影響を与えているのだという気持ちがついて回った。

 その気持ちはどこまでも俺の背後に張り付いていて、夜眠る時ですら俺の全身を支配した。

 そうして仕事に行けなくなる。

 俺が幸運だったのは休んでいる間にその強迫観念と少しだけ距離を取れたことと、同じ仕事に戻らなくて良いことだった。

 しばらく休んで、休み続けていられないので仕事に復帰することになる。幸いなことにちょうど人員の空いた部門があって、その位置に俺が収まることになる。

 西山が辞めた席に、俺が代わりに座ることになる。

 人には何が適性があるのかわからないもので、上司の片桐は嫌な人間だなとは思ったが以前よりは働き続けることが苦痛ではなかった。より良くすることも何も考えずとも、ただ求められたことだけをこなしていれば良いようになっただけで俺はだいぶ生きていくことが楽になった。

 俺は思う。西山と俺にどれだけの違いがあるのだろう。

 結局のところ、西山はこの会社という狭い島の中で生きられず、俺はそれをよりも小さな会社の中の部門では生きられなかった。

 絶対おかしい。

 俺は西山のように思うことはできなかった。そう思えない自分がおかしいと思って、会社に行くことが出来なかった。下手くそな生き方だと西山を見て思っていたけど、俺はその生き方すら出来ない半端者だった。

 だから、こうして西山の名前を見た時にそんなことばかり思い出してしまう。西山の名残をこの職場に見た時に、西山が俺と同じ仕事をしていた時にどんなことを思っていたのか、そんなことばかり考えてしまう。

 西山の名前が記された書類にはあちこちに付箋が貼ってあって、西山の神経質な様子が浮かぶようだった。

 どうせ廃棄する書類だというのに俺はそれを見てしまう。社内の設備の更新時期についての資料で、リース品の返却時期であったり、そのタイミングに向けて収集する情報なんかが丁寧にまとめられている。

 実際のところそのタイミングで業者に提案から見積もりまで丸投げでただ社内の予算内に収めて凌ぐだけの仕事であるというのに、その資料はあらゆる想定が書き込まれている。

『次年度には社内電話の更新時期なので社内携帯電話への転送機能についても視野に入れること』『印刷枚数のカウントを行うプリンターの検討。現時点の候補機』『社内の部門間での意見交換についての改善案、実施スケジュール案』など様々な項目にわたって検討事項や当時の情報が乗っていた。

 西山は諦めてなかった。最後まで。

 絶対おかしい。

 そんな西山の声が蘇る。


▲▲▲


「お疲れ様でした」

「はい、お疲れ様」

 退勤時刻になって、職場を後にする。

 あれから廃棄書類を確認しながら西山の足跡を追った。どこまでも西山はそのスタンスのまま仕事を続けていた。

 俺も西山のように何かを最後まで見つめ続けることができるのだろうか。例えばそう、目の前に落下する死体の存在から目を背けないようなことが。

 死体についてしっかりと確認する人はほとんどいない。いるとしても炎上による話題集めが目的である人間の露悪的な切り抜きでしかインターネット上にも置かれていない。

 落下して破損した肉体。落下する前から死体であることは変わらなかったであろう透明な誰か。

 でも、そこにはきっと『誰か』ではなくて個人の人生があったはずなのだ。まだ語る言葉が存在していないだけで、きっとそこにいたはずの誰かの成れの果てがその死体のはずだ。ある日突然降ってきたわけではなくて、そこにずっといたはずなのに誰も気づかなかっただけなのかもしれない。

 俺が死体が降ってくる場所に居合わせるのは、何かその現象が俺に伝えたいことがあるんじゃないか? 他の人が気づかない、そんなことに俺が気づく必要が何かあるんじゃないか?

 わからない。

 結局のところこの現象がなぜ起きているのかなんて誰にもわかっていないし、未だに落下した死体の身元はわかっていない。

 でも、そういうものだと諦めたらきっとこの現象がなんだったのかもやがて皆は考えるのをやめてしまう。どんなに大きな異変も、日々の繰り返しの中で「いつものこと」とか「仕方のないこと」として絡め取られてしまう。

 絶対おかしい。

 西山の言葉。俺はその言葉に答えることが出来なかった。きっと、今でも俺は西山のようには生きることが出来ないんだと思う。

 でも、それでも目を背けないことぐらいは出来るかもしれない。

 日々を生きる中で、自然と下を向いて降ってくる死体から目を逸らすんじゃなくて、透明な誰かが、誰かであったということを認識することぐらい。それぐらいのことは。

 目の前に何かがよぎる。

 俺はその時、確かに落下してきた何かを捉えることが出来た。見知らぬ誰かの顔。西山ではない誰か。

 今回は見逃さないことが出来た。携帯電話で警察の番号をタップする。

 どんな顔の人間だったのか。名前も知らない誰かであっても、その特徴を伝え続けることがその名も無き誰かの名前を明らかにする日が来るかもしれない。

「すみません、今死体が」

 そう電話口で声を出した時に、ドサっと音が重なる。

 俺の後ろに死体が落ちている。なんという偶然。もしかすると運命が俺を嘲笑っているのかもしれないとすら思った。俺が落下する名も知らぬ誰かのことを知ろうとすること自体の浅はかさを突きつけられたのかもしれなかった。既に手遅れなのに、そんな風に自分の心だけで何かを変えられるような気になって見せかけの希望に縋る俺の幼稚さだ。

 結局のところ、いつも俺は見逃している。どんなことでも些細なことと思っていて、それを取りこぼしている。背後の死体は地面にぶつかった衝撃で歯が砕け、地面に肉片ごと赤黒い色を擦り付けている。

 俺はその背後に落下した死体がどんな顔なのかも知ることはできない。

 目を背けないようにしても俺は取りこぼし続けている。

 それでも、この心だけは失わない様に目を向けなくてはいけない。

 絶対おかしい。

 西山の声は俺から消えてくれない。

 道路を目まぐるしく走る車の音に紛れて西山のかつての声が俺の頭の中に響き続けていた。

 今日も死体は降り続けている。きっとこの世界の至る所で。

「絶対おかしい」

 俺は頭の中に響く声をなぞるように呟いて、背後に落ちた死体を見る。既に十分過ぎるほどに手遅れだ。

 それでも俺にとっては見ないままよりずっといい。

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落ちても誰も変わらない 吉野奈津希(えのき) @enokiki003

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