幕間 錆猫

 その瞳は、夜明け前の暗く深い空の色と、夕暮れの燃えるように明るい空の色をしていた。




 物心ついた頃には、既に独りだった。

 親も兄弟もいない。周りを見渡せば、目に入るのは同じ孤児か、血の繋がりもない子供の面倒など見る余裕のない大人ばかりだった。孤児は餓え、或いは大人や外敵に殺されて、見知った顔もすぐに姿を消した。その時その時の糧を得ることにいつも必死で、毎日毎日ただ死なないことだけを考えていた。

 食事にありつけるのは、運が良くて三日に一度くらい。人間が食べ残しを隠しておく場所には食べ物も多いけれど、大抵は力のある大人達が占拠していて、彼らが去る頃にはほとんど残っていない。何も見つからない時は一週間も水しか口にしなかった。一日の多くを茂みの中で眠って過ごし、外敵に襲われないよう、常に神経を尖らせていた。目が覚めると草木に付いた露を舐め、食べるものを探して人がいる町を慎重に歩く。大きな屋敷などで時々見かける、丸々と太り、縁側で悠々と昼寝する同族が憎らしかった。

 ある日、いつものように目覚めて町を彷徨っている途中、小料理屋の裏に同族が集まっているのを見かけた。何事かと遠目に眺めていると、裏口から小太りの女が何かを手に出てきた。魚の骨だ。女は同族の視線を一身に浴び、笑みを浮かべてそれを地面に放った。

 骨が落ちる前に、一斉に同族達が群がる。

「そんなにがっつかなくても、魚はたくさんあるからね。ミケちゃんが死んじまってからだぁれも片付けてくれないもんだからさ。それにしてもあんた、相変わらず美人さんだねえ! そろそろうちの子になるかい?」

 女は骨に付いた肉に夢中になっている同族を眺めて目を細めると、一足先に食べ終えて前脚を舐めている同族の頭を撫でた。真っ白な毛並み。毛艶がいいのは食べ物に困っていないからだろう。その同族は自ら女の手に頭を押し付け、尾をぴたりと女の後ろ足にくっつけている。同族達は女を警戒することもなく、各々魚を貪ったり毛繕いをしていた。どうやら危険はないようだ。

 そろそろと近付いてみる。女は白い同族を抱き上げて撫で回していて、こちらには気付いていない。ひくひくと鼻先を近付けて匂いを嗅ぎ、数日ぶりの食べ物を口にした瞬間だった。

「なんだいあんた! 小汚い猫だね!」

 甲高い怒鳴り声にびくっと身体が跳ねた。全身の毛が無意識に逆立つ。視線を上げると、立ち上がった女は眉を吊り上げてこちらを見下ろしていた。他の同族達も体勢を低くして耳を伏せ、或いは既に身を翻してこの場を離れようとしている。

「シッシッ! あっちに行きな!」

 女は壁に立てかけてあった箒を掴み、追い払うようにその穂を振った。慌てて魚を咥えたまま駆け出すと、その穂先が尾を掠める感触がした。

 脇目も振らずに町を駆け抜ける。走って走って町の外れが近付いてくると、漸く脚を止めて来た道を振り返った。追ってきてはいない。その代わりに餓えた同族がじっと狙い澄ました目でこちらを見つめていた。じりじりと後退し、身を翻して再び走る。今度は止まらなかった。

 町から少し離れた山の麓、寝床にしている茂みまで休まずに走り続けて、木の根っこの隙間に身を隠した。じっと耳を立てて周囲の様子を窺う。普段と変わった音はしない。脅威がないことを確認して、やっと運んできた魚に食らいついた。

 ひんやりとしていて食べやすい。骨に残った肉はあまり多くはなかったけれど、これでまた数日は生きられる。何が起こったところで、食べ物の味も有り難みも変わらない。糧を得て、そうして養った体力でまた糧を得る。その繰り返しでこの先も生きる。それがこの世界に生まれ落ちたものの全てだった。




 その日も警戒しながら町に脚を踏み入れた。例の女がいる小料理屋の周辺は避けて、人間が食糧を保管している小屋の周りを注意深く探って歩いた。その辺りには鼠が彷徨うろついている。上手くすれば一匹は捕らえられるはずだ。

 周囲はまだ少し明るいが、小屋の中は薄暗い。耳を澄ますと、トトトと木材の上を駆け回るような音が聞こえた。今日はついている。この時間から動き回っている間抜けな鼠がいるのだ。

 そっと身を起こした瞬間、外から足音が聞こえた。人間の足音だ。音はどんどん近付いてくる。咄嗟に近くの藁の影に身を隠した。

 身を固くしてじっとしていると、やがて小屋の入口にぬっと影が現れた。

 その影は近くまでやってきた。「よいせっ」という声と共に、隠れていた藁の影が小さくなる。影は俵を抱えて小屋の外に出て行ったが、逃げ出す間もないまますぐに戻ってきた。影はまた一つ俵を抱えて出て行った。今度こそ隙を見て隣の俵の影に移動した。影はまた戻ってきて、隣に残った最後の俵を抱え上げようとして、急にこちらを向いた。

 目が、合ってしまった気がする。

 影はぱちくりと瞬きをして、突然笑みを浮かべた。

「なんだおめえさん、こんなとこで。もしや、最近鼠こさあんま見ねぇのはおめえさんが取っ捕まえてんだが?」

 いきなり話しかけられて反応できなかった。身動ぎ一つしないままじっと見つめていると、影は「ちっと待ってろよぉ」と行って俵を下ろし、小屋を出て行った。今のうちに逃げるべきか。俵の影を回りながらそろそろと出口に近付いたが、足音はあっという間に戻ってきた。急いで側の俵の影に飛び込む。小屋に戻ってきた影は人間の男だった。男は先程までいた俵の側を覗き、首を傾げて他の俵の裏を探し始めた。早く出て行ってほしい。息を潜めて身を隠していたが、その甲斐虚しく男に見つかってしまった。

「おお、おったおった。ほら、これ食いな」

 男が目の前に何かを放ってきて、思わず飛び退いた。男から視線を外さないままじりじりと後退り、様子を窺う。男はその場にしゃがみ込んで動かず、「どしたぁ? 鼠獲ってもう腹いっぱいか?」と首を傾げた。そんなわけがない。最後に食事にありついてから、既に一週間近く経っている。だが、下手に食いついてその隙に何かされては堪ったものじゃない。食事というのは非常に無防備な行為だ。

「あんた! ちょっとこっち手伝っとくれ!」

 一か八か、ここから飛び出して逃げてしまおうかと腹を決めかけた瞬間、外から女の声が聞こえた。「おー、ちいと待ってろ」と男が応えて立ち上がる。男は一瞬こちらを見たが、すぐに外へと出て見えなくなった。

 耳をそばだてて外の様子を探る。男女の話し声と、何かが騒がしく走り回る音が聞こえた。人間の子供のようだ。小屋に近付いてくる気配はない。

 床に放られたものに鼻先を近付けた。魚だ。それも、以前小料理屋から持ち帰った骨と比べて身が多く残っている。何故これだけ食べられる部分が残ったものを寄越したのかはわからないが、食べられるものは食べるだけだ。寝床に持ち帰ってから食べる方が安全なのはわかっていたが、咥えた口許から入り込んでくる魅惑的な匂いに、どうしても腹を満たしたくなった。半分食べて残りを持ち帰ろう。そう決めて齧りつくと、もう止められなかった。

 結局半分以上を食べてしまってから、残った部分を咥えてそっと小屋の出入り口に近付いた。外を覗くと、さっきの男が誰かと話している。男を呼び付けた女だろう。女は目敏くこちらに気付いて眉を寄せた。

 女の表情の変化に気付いたのか、男が振り返って頬を緩めた。

「ほれ、あれだよ、あれ。あの子。めんこいだろ。耳もでかくて賢そうだし、魚の残りでもやって、米蔵の見張りでも……」

 女は顔を顰めたまま男の話を聞いていた。と、少し離れた場所で草を毟って遊んでいた子供が駆けてくる。子供は女の視線の先を目で追って顔を向けた。そしてまじまじとこちらを眺め、女を見上げた。

「おかあ、あの猫、汚いねぇ」

 そう言って無邪気に笑った。

 汚い。

 一瞬時が止まって、小料理屋の太った女が頭を過ぎった。

 眉を吊り上げた女は、『小汚い猫だね』と言った。同族を撫でていた他の人間も、こちらを見ると顔を顰めたり、指を差して笑ったりしていた。その時はどうしてそんな風にされるのかわからなかった。その意味を突き付けられた気がした。

「可愛くなぁい。さよ、あのおばちゃんとこの白い子がいい」

「こら、さよ」

 男は子供を抱き上げて顔を近付けた。ちょうどこちらに背を向ける形になる。今しかなかった。

「あれはな、ああいう柄なんだ。汚れてんじゃなくてな、元からああいう模様なんだよ。ほら、よーく見てみな……」

 残った魚を咥え直して、一気に小屋を飛び出した。人間とは反対側へ、木々の茂る山の方へ向きを変えて駆ける。後ろから人の声が聞こえたが無視した。そもそも、人に構う道理などない。周囲に目を配りながら時折振り返り、慎重に寝床へと帰った。

 走っているうちに日はどんどん傾いて、山の向こうへと消えようとしていた。巣へと戻る鳥の声が煩い。少しずつ周囲が冷え込んでくる。最近は暗くなると随分寒くて、いつも木の根本の隙間の枯れ葉が溜まった場所に潜り込んで夜を凌いだ。

 穴の中の枯れ葉に座り込み、残った魚を貪った。眠ってしまいたかったけれど、匂いを嗅ぎ付けた他の連中にいつ奪われるかもわからない。食べられる時に食べなければ。特に、誰も頼れる相手などいない弱いものは。

 骨についた肉を欠片も残さず食べ尽くし、漸く気が落ち着いてきた。ふと外に目を向けると、真っ白な月が黒い空にぽつんと浮かんでいた。前に見上げた時と形が違う気がする。けれど、すぐにどうでもよくなって顔を下ろした。起きたらどうしようか。何度か眠って目を覚ましたら、辺りは明るくなっているだろう。人間は外が暗いと動き回らない。暗いうちに獲物を探すか。それとも、明るくなってからまた町を歩くか。町。

 箒を振り回した女の顔が浮かんだ。無邪気な子供の笑顔が浮かんだ。顔を顰める女が、笑いながら石を投げてくる男が、蹴飛ばそうと近付いてくる人間達が、次々と。

 暫く町に行くのはやめよう。多少は手間だが、近頃は山の鳥や栗鼠が肥えている。上手く捕らえて腹に収めれば、町に行かずとも食事には困らないだろう。

 目を閉じた瞬間、外から夜風が吹き込んだ。思わず身を縮める。薄闇の中で響いた低い鳥の声が嘲笑っているような気がした。




 ある日、目を覚ますと白いものが空から落ちてきた。それは少しずつ増え、枯れ葉で埋もれた地面が徐々に白く染まっていった。初めて見るものだ。木の根本から出て恐る恐る踏み締めると、とても冷たかった。すぐさま穴の中に引っ込む。寒い。以前から目を覚ます度に寒さは酷くなっていたが、今日は特に寒かった。

 最近は鳥も鼠もあまり見かけなくなって、なかなか食べ物にありつくことができなくなっていた。その上にこの寒さはかなり厳しい。ここで過ごすのも限界が近付いていた。枯れ葉の中で丸くなりながら、頭を過ぎるのは町のことだった。

 人間が住んでいるところは、外より暖かいことが多い。冷たい風は直接当たらないし、火の側で魚を焼いていることもある。町に行かなくなる少し前にも特に寒い日があって、こっそりと潜り込んだ人間の住処は外よりずっと過ごしやすかった。

 見つからないように気配を消して忍び込めば、雨風を凌ぐくらいは問題ないだろう。また追い回されるのではないかと迷いはあったが、それ以上に身が凍えて堪らなかった。このまま動けなくなるよりは、少しでも暖かい場所がいい。

 身を起こして根っこの外に出ると、冷たい感触が脚を包んだ。体が冷え切る前に休める場所を探さなければ。濡れていない地面を選びながら、慎重に歩き出した。

 寝床にしている場所は町からだいぶ離れている。山の近くには小屋があるが、朽ちていて人間が使っている形跡はない。一度寝床にしようとしたら、腐った木が崩れ落ちてきて危うく下敷きになるところだった。以来、その小屋には近付かないようにしている。

 小屋から暫く歩くと小さな家が点在する町の外れに着く。その辺りの家は襤褸屋だが、どこからでも入り込めるので居座るにはちょうどいい。そう思って家の一つに近付くと、どこからか視線を感じた。近い。顔を上げるとすぐに見つかった。屋根の上だ。こちらの様子を窺うように、或いは警告するように、灰色の毛並みをした同族がじっと目を逸らさずに見下ろしている。ここは駄目だ。さっと視線を外して再び歩き出した。

 町中を歩いていても、ところどころに同族がいた。相変わらず人間の傍で寛ぎ、わざわざ鳴いて人に話しかけている。どこか嘲りを含んだ好奇の目があちこちから向けられた。不快だが、今はとにかく寝床を探さなければならない。無視して歩いているうちに、不意に本能を揺さぶる魅惑的な匂いがつんと鼻を突いた。

 食べ物の匂い。それを感知した瞬間、今まで忘れていた空腹感が急激に戻ってきた。一瞬力が抜ける。脚を踏み締め直して、匂いのする方にそろそろと近付いた。

 匂いは案外近くから漂ってきていた。風向きが変わったのだろう。丈夫そうな大きな家の軒先で、男が一人火を焚いていた。男は火に背を向けて何やら作業をしていて、焚き火の周りには魚を刺した串が並べられている。そのうちいくつかは葉に盛られ、縁側に置かれていた。香ばしい。先程から鼻と空腹感を刺激して止まないのは、間違いなくこの匂いだ。

 物影を伝うようにしてじわじわと距離を詰める。男は気付いていない。音を立てずにそっと縁側に乗り上げた。目と鼻の先。慎重に咥えた瞬間、口の中いっぱいに匂いが満ちた。一気に唾液が溢れてくる。食らいつきたい衝動を抑え込んで、ゆっくりと踵を返した瞬間だった。

「おい! 何してる、この泥棒猫!」

 怒号が背後から飛んだ。振り返る余裕もなく、弾かれたように縁側を飛び出す。後ろを見ずに一心不乱に走る。何度も人間に追われるうちに、とにかく追いつけない速さで見えない場所まで逃げるのが最善だと学んだ。下手に脚を止めると、目敏く見つけて追いかけてくる。

 先程通った場所とは違う道を駆ける。路地から飛び出すと、近くの家の入口に座り込んで休んでいた人間がぎょっとした顔で浮き足立った。驚いて一瞬脚を止めかけたが、すぐに我に返って人間が下がったのとは反対方向に体を向けた。瞬間、全身に冷たい感触を浴びて今度こそ完全に脚を止めてしまった。

 どうやら、水の入った桶か何かを勢いでひっくり返してしまったようだった。中に入っていた液体が周囲に飛び散り、それを頭から思い切り被ってしまったらしい。酷く寒いが、このまま呆然としてはいられない。

「せ、染料が……!」

「おい! その猫取っ捕まえてくれ! うちの魚を盗みやがった!」

 慌てふためく男の向こうから、先程の怒声が再び聞こえてきた。遠くから恐ろしい顔をした男が鉈を振り翳して走ってくる。すぐにそこから駆け出した。

「お、おいおい、何も猫相手にそこまでするこたぁ……」

「うるせぇ!」

 後ろから聞こえる男達の声が、少しずつ遠くなっていく。どくどくと鳴る心臓の音が随分大きく響いていた。声が遠ざかるにつれて安堵した。それが間違いだった。

 不意にがくんと脚が止まった。つんのめるようにして地面に叩きつけられる。力の抜けた口許から魚が飛んでいき、少し離れた場所にべしゃりと落ちた。

 何が起きたかわからなくて、混乱に陥った。脚を上げようとしても動かない。鋭い痛みが脚先から全身に走り、動かそうとする度に体が悲鳴を上げた。混乱したまま振り返ると、何か鋭い金属片のようなものに脚先を咬まれていた。黒い被毛がぬらぬらと濡れている。気持ち悪い。痛い。痛い。痛い。

 遠くから怒鳴り声が聞こえて、一瞬頭が真っ白になった。その声をきっかけにして冷静さが戻ってくる。

 逃げなければ。でなければ、殺される。

 今一度脚を引っ張った。びくともしない。脚を引っ張れば引っ張る程、痛みは痛みという感覚を失って、やがて熱と痺れに変わった。男の姿と怒声が近付いてくる。殺される。

 拘束された脚先に思い切り咬みついた。もはや何の感覚もない。無我夢中で何度も牙を立てた。声が近付いてくる。男が近付いてくる。必死に脚に食らいつく。ふっと軽くなった。動ける。即座に立ち上がると、向こう側に転がった魚の白く濁った目玉と視線が合った気がした。虚空を見つめる目。既に命を失った、かつて生き物だったものの目。

 死にたくない。

 走り出した瞬間、背後で空を斬るような音がした。ひゅっと風が背中を薙ぐ。

「くそっ!」

 男の悪態と罵倒。どうやらぎりぎりのところで助かったようだ。痺れて感覚のない脚を必死に動かして走った。急速に体が冷えていく。血が流れて気が遠くなる。それでも走った。死にたくない。殺されたくない。まだ生きていたい。

 ただそれだけなのに。




 はっと我に返ると、周囲は見慣れた山と草原だった。もう怒声は聞こえない。人の気配もしない。その代わりに脚の感覚も失い、体は冷え切って、もはや空腹すら感じなかった。

 もう終わりかもしれない。白く染まった地面がところどころ黒く汚れているのを見て、一気に呼吸が苦しくなった。よくわからない気持ちが湧き上がってきて、全身が小刻みに震えた。

 どうしてこんな目に遭わなければならないんだろう。ただ、生まれ落ちたというだけで。気が付いたらここにいた。いつの間にか生きていた。それだけで。

 もう疲れた。眠りたい。何も見たくない。

 その一心で茂みの向こうに這い出ると、陰鬱に傾いた木々でやや薄暗くなった景色の中に何かが煌めいた。思わず顔を上げる。


 夜明け前の暗く深い空の色と、夕暮れの燃えるように明るい空の色が、こちらを見下ろしていた。

 以前見上げた月のように白い髪が、こがらしに吹かれて揺れている。

 人間?

 左右で明るさの違う瞳が、ゆっくりと瞬いた。

「綺麗な子だね。瑠璃の石みたいだ」


 綺麗?

 今、あたしのこと、綺麗って言ったの?


 息も忘れてその瞳を見上げていると、人間の女らしきひとは視線を僅かに下へと動かして、再び瞬きをした。

「……傷を負っているね。自分で咬み千切ったのか。酷くなる前に治そう」

 そのひとは覗き込むようにしゃがみ込んで手を伸ばしてきた。抵抗なんて思いつきもしないくらい自然な動きで、黒っぽい衣服が汚れるのを気にする様子もなく、あっさりと抱え上げられた。そして漸く、ある種の異常さに気付いた。

 このひと、匂いがしない。

 僅かに感じるのは、この時期山のあちこちに咲いている花の甘ったるい匂い。それも服に移った仄かな匂いだけで、このひとそのものの匂いがしない。

 このひと、人間じゃないの?

「そうだね」

 思わず溢した言葉に返事があって、仰天してその目を見つめた。何一つ感情の見えない視線が返ってくる。好意的な感情が見えない代わりに、同情や悪意といった嫌なものも全く感じなかった。

「……あたしの言ってることがわかるの?」

「わかるよ」

 そのひとはどこからか白っぽい布を取り出して、乾いて脚にこびりついた血を丁寧に拭った。傷に直接手が触れると、消えていた感覚が急速に蘇ってくる。一瞬あの激痛が戻ってきて暴れそうになったけれど、すぐに痛みは消失してじんわりと温かな感触に包まれた。

「終わったら洗わないとね。全身藍染めになってるし」

「……あたし、水は嫌い」

「好きな子の方が珍しいよ。でもこのままにはしておけないから」

「ねえ」

 じっと見上げたまま口を開くと、静かに凪いだ瞳が問うように動いた。目を見つめ続けるのはよくないと頭ではわかっていても、何故か視線を逸らせない。

「あなたは何? 人間じゃないの? なんでここにいたの?」

 どうして、あたしを助けてくれたの?

 そう言おうとして、最後の言葉だけ飲み込んだ。目の前の不可思議な何かに流されて消えてしまいそうだった思考と理性を、ぎりぎりで繋ぎ止めた。この場所に突然現れた見慣れない存在が、本当に自分の味方かどうかなんてわからない。

 そんな自分自身の声を、何より信じていなかったのもまた、自分自身だった。

 そのひとは言葉を選ぶように僅かに首を傾げてから、一言だけ言った。

「きみを探していたんだ。手遅れになる前に」

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月の陰の庭 雨宿 藍流 @hon_oishii28

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