断章 恐怖の王

 戦場は常に血でけむり、数え切れない程の肉塊が不格好に積み重なっていた。

 過去を塗り潰しているのは赤だ。様々な赫。傷口から吹き出す鮮やかな赤。死体に纏わりつく乾いて変色した赤。それら全てを燃やし尽くす赤。稜線から世界を灼き、夜を運んでくる赤。ありとあらゆる赤はやがてこの身に染み着き、漆黒の鎧を仄暗い赫へと変えた。

 覚醒めざめたのはいつのことだったか。遡れる限りの最も古い記憶の中でも既に槍を握り、動かなくなった何かを見下ろしていた。それらが神や天使と呼ばれるものだと理解したのは、槍を振るうようになってからずっと後のことだった。その魂を糧として、唯一の友と呼べる馬を駆り、理由も解らぬまま襲ってくる者共を蹴散らしていくうちに、やがて同じ境遇にある同族達が集まるようになった。始まりは数柱に過ぎなかったその寄り合いは、いつの間にか幾千の仲間を有する軍と呼べるものにまで成長した。いつ始まったとも知れぬ戦いに終わりは見えない。争いが激化するにつれて仲間は増え、同じだけ消えていった。

 悪魔。

 それが、呼ぶべき名を持たなかった我々を指す総称となった。




「ベリト様」

 砦の窓から遥か遠く、夏の盛りの青々と茂る樹木が連なる山を眺めていると、背後から声がかかった。

「客って言っていいのかわかんないけど、城の外に来訪者が」

「ああ」

 半歩下がって振り返る。いつも明るく朗らかに振る舞っているセイルの顔が、珍しく怪訝そうにしかめられていた。

「遠視の魔術でずっと見てたんですけど、なんかおかしいですよ、あれ。綺麗な顔した男と女の……あ、おれ程じゃないですよ? 二柱なんですけど、女の方がどう考えても同族じゃないんですよね。たぶん、魂の気配からして神族なんじゃないかな」

 セイルは顔を顰めたまま側までやってきて、窓から身を乗り出し外を覗いた。先刻から妙な気配が近付いていたのは知っている。襲撃であれば速やかに排除するが、奇妙なことに敵意のようなものは全く感じられない。迂闊に近付けば飲み込まれかねない、しかしそれ自体は無味無臭で何の毒も含まぬ、透明過ぎる水のような気配だ。

 セイルの視線は、砦の門で見張りと対峙している一組の男女に向けられていた。

「こっちが見てたことには気付いてるっぽいんだけど、それを見抜けるだけの能力があるわりに女の方は全然魔力を感じないんですよね。意図的に遮断してるとしたら相当な手練だと思うんですけど。まあ、ここまでたった二柱で来てる時点で只者ではないのは明白かな」

「他の者には?」

「無闇に近付いたり刺激しないようには言ってます。女の方はまだ底が知れないけど、男の方はわかりやすく物騒な気配なんで。……これはおれの勝手な予想ですけど」

 セイルはそこで一度言葉を区切り、今一度怪訝そうな目を来訪者に向けた。しばし迷うような間を置いて、どこか躊躇いがちに口を開く。

「……あれ、もしかしなくても……例の『同族殺し』じゃないですか? 神も天使も悪魔もお構いなしに殺しては喰い散らかしてたあの怪物。なんであんな姿で神っぽい奴と一緒にいるかは知らないけど、見てくれは変わってても前に危うく遭遇しかけた時と気配がほぼ同じなんですよね。あんなの一度出会したら死ぬまで忘れられないですよ。地獄に封じられたって聞いたけど」

「……そうだな」

「今更ですけど、通してよかったんですか? 今は大人しくてもこっちが動いたら襲ってくるかもしれないし、迂闊なことできないのはそうですけど」

 振り返ったセイルの目には、普段は見せない不安が僅かに滲んでいた。セイルもある程度の格持ちである以上、部下の前では笑顔を絶やさず常に仲間の士気を保つように振る舞っているが、この場には他の者達がいないからだろう。それに加え、相手が相手だ。今この場所にいるのが、本当にならば――

「おれはアスタロト様に報告してきます。すぐに戻ってくるので」

「ああ。そうしてくれ」

「念の為言っときますけど、うっかり死なないでくださいよ。あなたがいなくなったらおれらも間違いなく終わりなんで」

「俺はお前達を置いて死なん」

「それはわかってますけどね……」

 肩を竦めて踵を返したセイルに、ふと思い立って声をかける。

「セイル」

「? はい」

「ベルフェゴールにも伝えてくれ」

「……ベルさんに?」

 やや明るさを取り戻しつつあったセイルの顔が再び顰められた。誰とでも打ち解けすぐに親しくなるセイルには珍しいことだが、どうもベルフェゴールのことは苦手らしい。

「今どの辺にいるかはわかりませんけど、まあ……バラムに使い魔は送っときます。でもどんな反応するかわかりませんよ、何せベルさんだし」

「いいや。あの男はここに来る」

「……随分信用してますよね」

「あれでなかなか義理堅い男だぞ、奴は」

「めちゃくちゃ性格悪いじゃないですか、ベルさん。まあわかりましたよっと」

 最後に窓の外をもう一度見遣ったセイルは、「気を付けて」と一言残し部屋を出て行った。

 相変わらず異質な気配は留まっているが、騒ぎになっている様子はない。壁に立て掛けてある槍を掴み部屋を出ると、階段の側に佇んでいた馬が振り返り、無言で視線を向けてきた。赤い巨躯に纏う鎧が固い音を立てる。言葉はなくとも伝わってくる意志に、小さく頷き返して踏み出した。

「行くぞ、ベリス。……ともすれば、これまでで最も厳しい戦いになるかもしれん」




 城のエントランスから一歩外に出た瞬間、どこまでも透き通った赤と青の瞳がまっすぐにこちらを見た。遠くからこの瞳を射抜き、逸らされることのないその視線に僅かに目を細める。門の前で来訪者と相対していた二柱の見張りが怪訝な顔で振り向き、目を見開いて姿勢を正した。

「ベリト様……!? 何故こちらに」

「セイルから報告を受けた。お前達は下がれ」

「はっ……し、しかし」

「構わん」

 困惑と動揺を器用に同居させた表情のまま、見張りは道を開けるように左右に分かれ、数歩下がって距離を取った。その向こう側に立っていた二柱の姿が露になる。

 予想以上に小柄で華奢な女の姿だった。黒に近い群青の、裾に星のように散る銀の紋様が施された夜の衣は、魔術の心得のある者が纏っているそれだ。その上には外套だけと随分軽装に見えるが、恐らく中に数多の触媒を隠し持っているのだろう。膝の辺りまである長い銀の髪が僅かに風に揺れる以外は、彫刻のように動きがない。顔に表情らしい表情はなく、先程絡んだ透明な視線が変わらずこちらを見上げている。妙に印象に残るその眼差しは、どこか宝石めいた透明感のある色のせいか。セイルの言う通り、魔力らしきものはほとんど感知できない。凪いだ湖面のような静けさを纏う少女だ。

 その傍ら、やや後ろに立つ男もまた無表情だった。だが少女と違い、全ての命を拒絶する冬のような凍り付いた気配を隠すことなく放っている。白いスカーフを紫色の石の付いた装飾具で留め、少女の衣と同じ黒に近い群青のベストの上から更に黒い外套を羽織り、黒の手袋をして肌のほとんどを覆ったその姿は、身形みなりこそ整っているもののおよそ戦いに向いた格好ではない。よく晴れた空のような青い瞳は、こちらを見ているようでその実世界の一切を映していないように思えた。

 空虚だ。

 槍を携えたまま、敢えてゆったりと歩みを進める。少女の眼前で立ち止まり、その透き通った目を正面から見据えると、一切も怯んだ様子なく視線を返した少女がゆっくりと瞬きをした。

「きみが『恐怖の王』、ベリトか」

 纏う気配そのままに静かな声が、不思議な程周囲に響いた。

「……ここが誰の支配する領域か、理解した上でやって来たようだな」

「わかっていなければわざわざ来ない」

「ほう」

 この城を訪ねてくる者はその多くが庇護を求める同族で、神や天使が襲撃以外の目的でここを訪れることはない。一見して友好的な態度で近付いて来た者もいたが、大抵はわざと隙を見せることで堪え性なく本性を顕した。例に漏れず何か謀る為に現れたのだと考えたが、目の前の少女は相変わらず敵意の一つも見せないままここにいる。何の感情も見えない目で、まるで昔からここにいたとでも言うような自然さで。

 少女は言葉を続けようとして、ほんの一瞬だけ思案げに口を閉ざした。

「わたしのことは?」

「知らんな。報告に上がってくる情報に貴様のような特徴の者はいない」

「ならそこから話そう。とは言っても、きみの同族ではないことは知ってるだろうけど」

 そこで少女は一拍置いて、俄には信じ難いことを口にした。

「わたしは月の神格を持つ者、月の化身。今ここで名乗れる名はない。一般的には、月御神と呼ばれることが多い」

「……なに?」

 妄言を、と目を眇めた瞬間、目を白黒させた見張りが唾を飛ばして一歩踏み出した。

「戯言を! 空の柱がたった一柱でこんな敵地の只中に飛び込んでくるはずがないだろう!」

「事実としてここにいる。それに一柱じゃない」

「そいつは悪魔だ! 貴様ら神とは相容れないものだ!」

「それがなに?」

 少女はすっと視線を見張りに向け、何も不思議なことなどないとでも言いたげな目で後ろの男を一瞥した。

「短絡的な思考だな。利害が一致すれば手を取ることもできるのに」

「何を……」

「それから、もう少し静かに話してほしい。大きな声はあまり好きじゃないんだ」

「ふ、ふざけたことを……!」

 見張りが槍を強く握り更に一歩踏み出した瞬間、爆発的に膨らんだ闇が遮るように周囲を覆い尽くした。

「!」

 咄嗟に槍を構えると同時、「ひっ」という声と共に見張りの男が数歩後退する。辺り一帯の魔力が急速に枯渇し、怖気おぞけとも呼べる冷気が神経を逆撫でする感覚。拡散する闇の隙間、その向こうに一瞬だけ凍り付いたような青い目が見えた。この世の全てに無関心にだったように見えた瞳に、冷え冷えとした怒りが微かに滲んでいる。

 間違いない。

 この憎悪と憤怒、殺意に満ちた闇は、あの怪物が狂ったようにありとあらゆるものを殺して喰い散らかしていた時と同じものだ。

「ゼブル。やめなさい」

 少女の声が響くと、闇が揺らめいて男がわかりやすく不満そうに眉を寄せた。「ベルゼブル」と今一度念を押されると、いかにも渋々といった様子ながらも少しずつ靄が消えていく。

 霧が晴れるように周辺の闇が全て消え去ると、少女は振り返って男を見上げた。平坦で感情の見えない声に、僅かだが子供でも窘めるような色が滲む。

「お前は少し短気が過ぎるよ」

「……あなたが何でも許し過ぎるだけだ」

「そう目くじらを立てるようなことじゃない」

 初めて口を開いた男の声は冷淡だったが、どこか拗ねたような、不貞腐れたような色を含んでいた。少女は男の様子を眺めて小さく肩を竦め、再び視線を向けてきた。続けていいかと目が問いかけている。一瞬で変質したあの空気を前にして、まるで動じた様子がなかった。

 正気の沙汰ではない。

「お前もそのくらいにしておけ。話が逸れる」

「……申し訳ございません」

 一つ溜め息を吐いて槍を下ろすと、完全に戦意を失った見張りが固い表情で後ろへと下がった。まだその顔には恐怖が張り付いている。交代を命じると、一瞬迷う素振りを見せたがすぐに頷いて兵舎へと戻っていった。それを見送り、並び立つ二柱を睥睨する。

「……やはり貴様、“蝿の王”か」

 蝿の王。

 その身に宿した暴食の権能のまま、遍く世界を喰い荒らし砂へと変えたもの。その被害は天界の八割にも及び、全てを喰らい尽くした暁には砂漠すらも飲み込むだろうと言われた、災厄という事象が形を成した怪物。

 世界の全てから忌み嫌われ、疎まれ、そして畏れられるもの。

「ベルゼブル」

 答えたのは男ではなく少女だった。

「ちゃんと名前がある。きみだってそうだろう」

「多くの神と天使を犠牲にしてようやく地獄に封じたと聞いた。何故それがここにいる」

「わたしが封印を解いたから」

「……正気とは思えんな」

「正気だよ。何かあっても対処できると判断したから解放した。詳細を聞きたいなら少し時間を貰うけど」

「…………酔狂な奴だ」

 思考の切り替えを兼ねて深く溜め息を吐いた。敵地の中で悠然と佇み、まるで旧知の友とでも語るように口を利き、一切の緊張も警戒も見せない、その名だけが語られ表には姿を現すことのなかった存在。計算なのか元々こういう性格なのかは測り難いが、取るべき態度は変わらない。

「俺は腹の探り合いは好かん。何が目的だ?」

「わたしも無意味な長話は好きじゃない。要点だけ話そうか」

 そして少女は、まるでそれが既に交わされた約束であるかのように、瞭然たる態度でこう言った。

「契約をしに来た。わたしは助かるし、きみにも利益がある」

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