断章 蝿の王Ⅳ

 夜の支配が強まる季節、日は既に落ちようとしている。

 吹き付ける風が肌に冷たい。街にはまだいくらか動き回る影があるが、そのどれもこれもが目を合わせず、こちらには気付いていないとでも主張するかのようにそそくさと家屋の中に消えていく。

 今し方出てきたばかりの建物を振り返ると、中で忙しなく動いていた女が運悪く気付き、満面の笑みを浮かべて手を振ってきた。無視して足早に建物を離れる。理解し難い。主に連れられて初めて訪れた時、散々暴れて内部を半壊させたこの店の、燃えるように赤い髪と蜘蛛の下半身を持つ女主人は、全く気にした様子もなく店の中へと自分を迎え入れた。主への信頼故であることはわかっているが、監視役もなしに動き回る怪物相手によく笑えるものだ。

 忌々しい氷の檻から解き放たれた後、最初に連れてこられたのもこの仕立て屋だった。地獄の底に封じられる前、先の戦いの最中に負ってそのままだった傷を全て塞いだ後、じっとこちらを眺めた主は一言、「アルケニーのところに行こうか」と言った。自意識の獲得と共に得た肉体が纏っていた衣裳は昼夜問わず繰り返される襲撃の中でずたずたの襤褸布同然となっていたから、全身の傷も相俟あいまってさぞ酷い有様に映ったのだろう。

 外套を羽織り直して、既に夜闇に沈み始めた森へと向かって薄暗い街外れを歩いた。冷たい空気は嫌いだが、龍の――もとい、主の――羽根を使ってあの蜘蛛女が織り上げたという外套は、通気性にも保温性にも優れているらしく、この程度の気温であれば不便は感じない。他者の気配のない場所までと歩き続けていると、ふと視界に記憶の隅を突つく色が過ぎって足を止めた。

 森の反対方向、街からやや離れた位置に、小さな泉があった。その岸を囲うようにして、赤い花が一面に咲いている。変わった形状の花だ。まっすぐに伸びた茎の先に、薄く細い花弁が反り返っていくつも重なり、そこからまた細い触角のようなものが空に手を伸ばすように放射状に広がっている。艶やかに揺れる赤い花弁。

 夕暮れの中にひっそりと浮かび上がるそれは、あのひとの瞳の色に少しだけ似ていた。

 花など興味はないが、もう少し見てみる気になって泉に近付いた。夕風が吹く度に花が傅くようだった。花畑の外側、一番端に咲いた花の前で立ち止まり、膝を着いて顔を近付ける。不思議なことに、茎の下には葉が見当たらない。傾けて見ようと茎を掴むと、力加減を間違ったのか半ばからぽっきりと折れてしまった。

「! ……」

 一瞬狼狽えかけたが、一度折ってしまったものは仕方ない。すぐに気を取り直して、しかし今度は手の中にある花の扱いに困った。このまま捨ててしまっても別に構いはしないのだが、なんとなく手放す気にもなれない。ともすれば潰してしまいそうな脆いそれを気を付けて握りながら、思い出すのは街中の見知らぬ者同士の姿だった。様々な花を一括りにしただけの、植物の束を渡され喜ぶ姿。こんなものが何の役に立つのかわからないが、花があれば嬉しいものだろうか。だが、主は他の神とは明確に違う。力も神格も一線を画しているが、何より性質が違う。疎みはしないだろうが、喜びもしないだろう。そもそも、初めて会った時から今日この時まで、主が笑うところを一度も目にしたことがない。それどころか、表情らしきものを浮かべることすら滅多に見るものではなかった。きっと、差し出したところで僅かに首を傾げ、不思議そうに眺めた後に「なに?」と言うに違いない。

 やはり捨ててしまおう。立ち上がると、一際強い風が吹いて髪と花を揺らした。一斉に頭を傾けた花は、まるでそっぽを向いているようだった。




 閉じた目を開くと、無事に見慣れた泉の前へと転移していた。無意識に触れていた襟元の装飾から手を離す。静謐で神聖な気配を湛えた広大な泉は、遠く向こうに赤い首を擡げた龍らしき姿が見えた。この庭に棲む竜は主の眷族だ。竜はあらゆる命の中で最も強靭で聡明な生き物なのだと誰かが言っていた。それ故なのか、それとも主の眷族だからなのかは定かではないが、龍達はこちらに気付いても警戒しないどころか、呑気に大欠伸さえしてみせる。大抵の生き物はこちらに寄り付かないどころか、落ちた枝葉を踏む音だけで一斉に逃げていくというのに。

 と、不意に顔を上げた龍と視線が合った。龍は水柱を上げて泉に飛び込み、潜水したままあっと言う間に泉を横断して近付いてきた。遠目ではわかりにくいが、距離が近付くにつれ次第にその巨躯が顕わになる。龍は目の前の浅瀬で動きを止め、水飛沫を上げて顔を出した。お陰で弾け飛んだ水を頭から被る羽目になった。

「……何の用だ」

 数歩後退りながら舌打ち混じりに問うと、龍は上へ下へと覗き込むように首をもたげ、渓谷を吹き抜ける風のような声で鳴いた。龍なりの挨拶だろうか。蜥蜴にどこか似た頭を近付け、手の中を覗き込む。

 結局捨てられずに持ち帰った、天に向かって咲く赤い花を。

 龍は興味深そうに花を眺めていたが、すぐに関心を失ったように身を翻して再び水に潜った。来た時と同じように、すいすいと水中を進んで遠ざかっていく。やがて向こうの岸に上がってそのまま空へと飛び立つと、周囲には再び静寂が訪れた。

 濡れた髪が貼り付いて冷たい上に鬱陶しい。水を弾く羽根で作られた外套は全く濡れていないが、無防備に晒されていた頭は別だ。時間を無駄にした上にとんだ目に遭った。溜め息を飲み込んで踵を返した。

 泉は屋敷から少し離れた位置にある。元々は泉しかなかったこの場所に、あの鍛冶の神とその仲間が屋敷を建てたらしい。泉は冥界の入口だ。その更に下層に地獄がある。全ての魂を見守り、管理する役目を持つ主にとっては、あの遥か上空にある塔よりも泉の近くの方が都合がいいのだろう。隔絶されたこの空間には招かれざる者はそう容易く侵入できないから、常に警戒して過ごす必要もない。

 屋敷に戻ると、外から見える窓のうち一つだけ灯りが漏れていた。主の書斎だ。屋敷を出た時は書き物をしていたが、まだ部屋にいるらしい。まっすぐに上階へと向かう。

 扉を開ける前に小さく息を吐き、吸い直した。

「……戻りました」

「おかえり。……なんで濡れてるの? 雨は降ってないはずだけど」

 テーブルにいくつもの宝玉や金属を並べて何かを組み上げていた主は、顔を上げるなり僅かに首を傾けた。立ち上がった主に歩み寄り、預かってきた荷物を差し出す。

「……いえ、少し。頼まれた荷物です」

「ありがとう。アルケニーとは少し話した?」

「……あれが一方的に喋っていました」

「そう。とりあえず拭いて」

 荷物と入れ代わりに渡された布切れを受け取ると、主は荷物の包みに手をかけ、しかし封を解かないまま再びこちらを見上げた。

「……で、どうしたの、それ」

 透き通った赤と青の瞳が映しているのは、手折ったまま捨てられず持って帰ってきた花だった。

「……これは、その」

 なんで、とかどうした、などと問われても、正直自分でもわからない。捨てるに捨てられず、かと言ってこんなものを渡してどうするのかと自問自答して、ただなんとなく持っているだけの、少しずつ萎れ始めたただの花。

「…………あなたの目の色に、少し似ていた」

 散々言い淀み、何を話していいかわからずどうにか絞り出した一言がそれだった。それ以上は上手く言葉が出てこなかった。ほんの一瞬、主が僅かに目を瞠ったように見えたが、見間違いだろうか。わからない。

「……だから、それをわたしに?」

 何が正解なのかわからなくて、咄嗟に頷いた。

 主は暫しの間、何も言わずに花を見つめていた。そしてふと、目許を微かに緩めて、

「お前、それがどういう花なのか知ってるの?」

 どこか可笑しそうに、口許を僅かに綻ばせて、微笑った。

 一瞬、全ての時が停まったような気がした。

「この花はね」

 言葉を失ったまま立ち尽くしていると、手の中から花を抜き取った主が、灯りにかざすように花を傾けて目を細めた。

「地獄の花と呼ばれている。他にも名前があるけど、言い出したのは確か……詩や唄を司る神だったか。忌み嫌う神も多いけど、アルケニーはこれを気に入って店の近くの泉に植えているね。そこで見つけたんでしょう」

 その口許は変わらず緩やかな弧を描いている。目を逸らすこともできず、瞬きも忘れてただ見つめていた。

「地獄の盟主に地獄の花を持ってきたのは、お前が初めてだよ」

 主は今一度ふっと息を吐くように微笑って、どこからともなくナイフを取り出した。そのまま花の茎を斜めに切り落とす。

「せっかくだから飾っておこうか。花瓶は……置いてないな。とりあえず、水瓶に」

 言いながら主は周囲を見渡して、窓辺に置かれていた空の水瓶を掴んだ。指先で縁をなぞると、淡い明滅と共にたちまち水が溢れてくる。主はそれに花を挿し、再び窓辺に戻した。薄暗い窓に赤い花が映り込んでいる。

 そこで一度話が途切れて、暫しの静寂が降りた。

(この花も)

 先程の光景が、目に焼き付いて離れない。

(綻ぶことが、あるのか)

 永遠の冬に在ると思っていた。春など来ないものと思っていた。

 もたらされるものが多過ぎて、抱えきれずにたくさんのものを取り零している気がする。一つ一つ拾い直そうとしても、拾う度に取り落として、何度もそれを繰り返している。抱えられない自分の代わりに、それを拾って持っていてくれる誰かがいる。

 ふと視線を戻した主は既に見慣れた無表情に戻っていたが、心なしかいつもよりも少しだけ穏やかな表情に見えた。

「……なに? じっと見て」

「……あなたの笑ったところを、初めて見た」

「ああ。わたしも初めて笑ったから」

 さらっと告げられたその言葉にまた動揺して狼狽えた。何故かはわからない。返事に窮していると、主は僅かに首を捻って渡されたままだった布を指し示した。

「そろそろ拭いたら? 濡れたままだけど」

「……はい」

 最早濡れていたことも、貼り付いた髪が冷たくて鬱陶しかったことも忘れていた。少しだけ冷静になる。冷たい水は嫌いだが、先程の龍の迷惑極まりない行為も、少しは許してやろうと思った。

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