五節 氷華の融点
嵐のように過ぎていった朝食の時間の後、アサトは一度部屋に戻ってノートと万年筆を手に取った。向かった先は、中庭に繋がるあの広い談話室だ。
昨日通った時は客人を招く為の部屋かと思っていたけれど、単に屋敷にいる者達が寛ぐ為の憩いの場なのだという。説明してくれたシャナム曰く、ここは普通の世界とは隔絶された場所にあって、客人などそう簡単にやって来れるものではないらしい。押しかけてくる者は大抵が招かれざる客で、早々に主やあの黒衣の男、或いはベリトが追い返すか叩き出すかしていて、まともな客は全て主の古い知己である為、中庭か温室のティールームに案内されるという話だった。
しかし、この談話室にはアサト以外誰もいない。シャナムはキッチンで洗い物を済ませた後、洗濯物を干しに行ってしまったし、主はどこかへ姿を消してしまった。ベリトも用があるとかで屋敷を出ていき、セイルはあれからどこにも見当たらない。一人で部屋にいるのがなんとなく不安で降りてきたのに。まあ、この部屋からは外の花がよく見えるし、角兎もソファの隣で呑気に仰向け寝をしているので、少しは気が紛れるけれど。
本当は「衣食住を提供されておいて流石に何もしないわけにはいかない」と手伝いを申し出たのだが、病み上がってもいないのにいけないとシャナムに窘められてしまった。かといって特にやることもなく、一日中ベッドにいるのも逆に体に悪い気がする。長い引き籠もり生活のせいで貧弱な体は筋肉痛を訴えているが、他にはもう本当にどこにも不調はないのだ。
ノートを一通り読み返し、記録を反復してから新たに書き出していく。インクが無くなりそうだと話したら、「まあ」とシャナムがインク瓶を出してくれた。「ベリト様、時々ちょっと抜けてるんですよ」と笑みを浮かべながら補充の仕方を教えてくれたので、書くには困らない。昨夜から今朝にかけてのことを思い出しながら少しずつ書き足していくうちに、ふと何かの気配を感じた。
顔を上げて周囲を見回すと、窓の一つから二組の視線が向けられていることに気付いた。
一つは、黒っぽい毛並みに斑模様の、黄色い瞳をした猫だった。小柄で、人の肩に乗せても余裕がありそうなその体躯を見ると、まだ仔猫かもしれない。猫はアサトの視線に気付くと、ふいとそっぽを向いて窓枠から飛び下り姿を消した。
もう一つの視線の主は女の子だった。年の頃は十に満たないくらいだろうか。目の覚めるような新緑の瞳がじっとアサトを見つめている。同じ色をした髪は長く、ミントグリーンの袖のないワンピースのようなものを纏っていて、全体的に可愛らしい目鼻立ちだが、その子供には普通なら有り得ないものが付いていた。
こめかみの少し上の位置から伸びた、濃い緑色をした長い角。つるりとした光沢があって、先端にぎざぎざと波打つ白い模様が二本ある。背後に揺れるのは尻尾だろうか。三編みのようにでこぼことしたシルエットの細長い尾は、角と同じ濃い緑色。
暫く息を飲んだまま見つめていると、子供ははっと我に返ったように慌てて窓から離れていった。
「あっ……」
思わず立ち上がったが、すぐに追いかけてどうするのだと気付いて座り直した。先にシャナムを知っていたからか、容姿に関する衝撃はあまりない。この庭にいるということは、恐らく主の庇護下にあるのだろう。ならばそのうち直接顔を合わせることもあるかもしれない。
そう思い直して再びペンを握ると同時に、随分元気よく扉が開いて思わずペンを取り落としかけた。
「……え?」
開いたのは屋敷の廊下に繋がる扉ではなく、中庭に面した扉だった。見知らぬ少年がぽかんと口を開けて立っている。「え?」と言いたいのはこちらも同じだが、勢いに驚き過ぎて言葉が出てこなかった。
「あ、もしかして新しい人ですか? こんにちは!」
「……こ、こんにちは……」
少年はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、人懐こい笑みを浮かべて頭を下げた。つられてアサトも軽く頭を下げる。顔を上げてちらりと少年の姿を確認した。
年の頃は、恐らくアサトよりいくらか下。十代後半に差し掛かったくらいだろうか。アサトよりもいくらか背が低い。半端に伸びたくすみのある金髪を首の後ろあたりで無造作に結んでいて、丸みのある明るいブラウンの目をしている。鼻の周囲にはうっすらとそばかすが散っていて、どこか牧歌的で素朴な雰囲気の顔立ちをしていた。着用しているつなぎと手袋はどちらも土で汚れていて、あちこち葉っぱだらけだ。
「はじめまして。僕、リュカといいます。リュカ・エーデルワイスです」
「あ、おれ……アサト」
服に付いた葉や土を落とし、手袋を外して扉の側に備え付けられた棚に置くと、少年は漸く部屋の中に入ってきた。落としたとはいってもまだ少し土で汚れている。ここが本当に貴族の客室だったら、叩き出されるところではないだろう。いや、そもそも敷地に入れないか。
少年はアサトの上から下まで視線を巡らせると、首から下げていた麦わら帽子を外しながら首を傾げた。
「アサトさんはいつからこちらに? 昨日や一昨日はお会いしてませんよね」
「あ、昨日……から? かな。たぶん」
記憶を辿り直してそう答えた。目が覚めてから一階に降りて一通り案内を受けた後、部屋に戻ってうっかり眠り込み、再び目覚めたのが深夜だったはずだから、まだ一日しか経っていないはずだ。初めて目を覚ましたのが何時頃だったのかはわからないけれど、タイミングが合わなかったのは別におかしなことでもないだろう。
「昨日? じゃあ本当に来たばかりなんですね。僕はもう六年くらいになります。お屋敷の中ってもう案内されました? まだならご案内しますけど」
「いや、昨日教えてもらったから……広くて全部は覚えてないけど」
「あはは、ですよね。あ、それじゃあ温室って見ました? 綺麗ですよ。珍しいお花もいっぱいで」
「あるっては聞いてるけど……」
「それなら一緒に、」
少年が続けようとした瞬間、背後から物音が聞こえた。扉の開く音。アサトが振り返るよりも早く、向こう側に視線を向けた少年が「あっ」と声を上げた。
「ゼブルさん、おかえりなさい! お出かけでしたか?」
その名前に、すっと背筋が寒くなった。肌に纏わりつくあの冷たい感覚が蘇りそうになる。
くすみのない金の髪と、澄み切った空のような蒼の瞳が視界に映った。顔立ちは整っているのに、その表情はどこまでも冷めている。足下まで覆う黒く長い外套。襟元から僅かに覗く白はスカーフか何かだろうか。なめらかに磨かれた楕円形の、透き通った紫色をした石が嵌め込まれた金のブローチのようなもので留められている。どこぞの王族と言われてもすんなり信じてしまえるような姿形をしているのに、大人が子供に対して脅して聞かせる死神を想起させるような漆黒の装いのせいで、どうしても不気味な印象が拭えない。
男は少年に目を向けると、小さく舌打ちして面倒そうに目を眇めた。邪気の欠片一つない、少年の人懐こい笑みを前にあの態度というのもなかなかだが、永久に融けることのない氷のような雰囲気を纏うあの男に屈託なく笑いかけられるリュカの心臓の強さに慄く。
男は何も答えずに歩き出した。反射的に体を縮こませたが、ソファの側を通る時もアサトの方を一瞥すらしなかった。そろそろと顔を上げて盗み見る。まるで野生の熊でもやり過ごした気分だ。
「主様と一緒じゃないんですね。主様は今どちらに?」
扉に向かう男に道を譲りながらリュカが首を傾げると、男は足を止めて少年を一瞥した。それから何かを探るように虚空に視線を向け、一瞬目を細める。
「……温室におられる」
男はそれだけ残して、リュカの隣を通り過ぎ中庭へと消えた。どうしてわかるのだろう。男は今帰ってきたばかりのように見えた。主は今朝別れてから姿を見ていないが、既に顔を合わせているのだろうか。
閉まった扉を見つめていると、「さて」と手を合わせたリュカが扉に手をかけた。
「ちょうどいいタイミングですね。僕達も行きません? 主様もいらっしゃるみたいですし」
「……まあ、別にいいけど……」
あの男は彼女のいる場所に向かったのだろうか。リュカの言葉を聞くに、十中八九そうなのだろう。正直なところ、あの男と同じ場所に行くのは気が進まないが、主がいるのであればここに一人でいるよりいい気もする。
重い腰を上げて立ち上がると、仰向けで爆睡していた角兎がぴょんと跳ね起きた。ふんふんと鼻をひくつかせ、扉の方へと駆けていく。どうやらついてくるつもりのようだ。
ノートに万年筆を挟み、インク瓶を上に置いて落とさないように抱えると、リュカの後をついて談話室を出た。男の姿は既に見えなかった。
「アサトさんは、ゼブルさんが苦手ですか?」
温室の場所を知らないので黙って後ろを歩いていると、前を行くリュカが振り返って問いかけてきた。
「……逆に得意な奴とかいる? あんなん」
「ふふ、確かに愛想はない方ですけど。でも、悪い人じゃないですよ」
「……そもそも人間じゃないんだろ。まあ、直接何かされたわけじゃないけどさ……」
実際、手を出されたわけではないのでアサトが勝手に萎縮しているだけと言われればそうなのだが、あの冷ややかな視線を浴びて好意を持てる人間などいないだろう。ベリトのように目付きが鋭くて結果的にそうなるわけではなく、あれは明確な拒絶の意志を持っている。普通の感覚を持っていれば、そんな相手に近付こうと思わないのは当たり前のことだ。
視線を外すと、リュカは「うーん」と曖昧な言葉を漏らして前を向いた。
「花が好きな人に、本当に嫌な人っていないと思うんですよね。僕は」
だって、花が好きな人は街に火を放ったりしませんから。
独り言のように呟かれた言葉に思わず顔を上げた。
「……それは、どういう」
リュカは道の途中で子供のように木の枝に手を伸ばしたり足下の花に触れたりしながら、くるりと身を翻してはにかんだ。
「自分でそうだとは言いませんけど、ゼブルさんは花がお好きなんですよ。主様が留守の時は中庭や温室にいらっしゃるのをよくお見かけします」
「そっちじゃ……あ、いや……そうなんだ。なんか意外だな、どっちかって言うと躊躇わず踏みそうなのに」
「あははっ、ゼブルさんのこと怖がり過ぎですよ。そんなことしませんって」
リュカは可笑しそうに笑って駆け出した。目的の場所が近いらしい。見失わない程度に足を早めながら、先程の言葉を頭の中で反復した。
最初は勘違いされたのかと思ったけれど、敢えてはぐらかしたのかもしれない。ここにいるのはどこにも帰ることができなくなった者達だと主は言っていた。シャナムの折れた角のことも、なんとなく聞いてはいけない気がして聞けなかった。目には見えなくても、触れるべきではないことがきっとたくさんある。
「ここです。凄いですよ、見てください」
リュカの声に無意識に俯けていた顔を上げると、そこは透明な硝子に囲まれた建物だった。中にはたくさんの緑が生い茂っている。屋敷と繋がっているらしく、屋敷の壁の途中から切り替わるようにして硝子の部屋が存在していた。硝子の板のいくつかは扉になっていて、リュカは屋敷に一番近い位置にある硝子扉を開けた。
足を踏み入れた瞬間、ありとあらゆる花の香りがアサトを包んだ。大小様々な花が思うままに咲き誇り、甘い香りで周囲を満たしている。硝子で出来た天井は高く、背の高い植物が柱のように伸びていて、新緑の葉がカーテンのように広がっていた。
思わず感心して見上げていると、ふと植物の壁の向こうから聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
「主様とゼブルさんですね。行きましょうか」
声は少し遠い。外から見た限りでも結構な大きさだったから、中も相当広いのか。「こっちですよ」と手招きするリュカに続いて一歩踏み出したら、足下にいた兎ががさりと葉の茂みに突っ込んでいった。一応主人はアサトらしいのに、この兎は勝手気儘だ。
たくさんの鉢植えや樹木が並ぶ道を歩く。声は少しずつ大きくなっていった。近いはずなのに、植物の壁に遮られて場所がよくわからない。一瞬緑が途切れた気がして立ち止まると、葉と葉の隙間から向こう側が見えた。
そこは小さな広場のようだった。中心に円卓が一つあって、その周囲を囲むように薔薇の花が植えられている。植物で出来たアーチ状の門は屋敷に繋がっているのか。円卓から少し離れた場所、白い薔薇の咲く一帯に、青年と少女の姿があった。
絵になる光景だ。確かに足を止めて眺めたい景色ではあるが、思わず立ち尽くしたのはそれが理由ではなかった。
笑っている。
あの周り全てを凍て付かせるような冷気を全身に纏った男が。
春によって融け出した雪が、大地から芽吹いて蕾を付けた花へと雫を落とすように。
正しく貴公子然とした柔らかな笑みを浮かべながら、花の側に佇む少女に話しかけている。主は花枝の一部を鋏で落としながら、時折顔を上げて何か答えていた。相変わらず感情らしきものが何一つ見当たらない表情だが、険のないその顔にどこか優しげな色が浮かんでいるように見える。そう遠くはないのに、内容はよく聞こえない。
かさりと葉を踏む音が聞こえて我に返ると、突き当たりで折れた通路の先からリュカが不思議そうに顔を突き出していた。
「アサトさん?」
「……あ、ああ、ごめん。今行く」
とは言ったが、あちら側に行っていいものだろうか。邪魔をしたら恐ろしく機嫌を損ねそうな気がする。
躊躇うアサトに気付いた様子もなく、リュカは曲がり角の奥へと消えた。ここで一人突っ立っているわけにもいかないので、仕方なく後を追う。
通路の終わりを告げる植物のアーチを潜り抜けた瞬間、リュカが「主様!」と嬉しそうに声を上げた。少女と共に男も振り返る。アサト達の姿を見留めた瞬間男が目を眇め、わかりやすい舌打ちが飛んできた。
「舌打ちやめなさい。……揃ってどうしたの?」
窘めるように男を見上げてから、主は剪定の手を止めてアサト達に視線を向けた。
「アサトさんがまだ温室を見たことがないそうなので、案内も兼ねて。主様、中庭のお花の手入れ終わりましたよ。ここのお花をいくつか向こうに移したいんですけど、いいですか?」
「好きにしていいよ。リュカなら花が弱る植え方はしないし」
「ありがとうございます! あ、それからゼブルさん」
リュカは元気に返事をして、次いで男に向き直った。
「今晩あたり咲きそうですよ。ゲッカビジン」
「……そうか」
男は一瞬リュカを見下ろして、それから温室の一角へと視線を移した。リュカはどこか満足そうに「はい」と笑って、別のアーチを潜って温室の奥へと消えていく。その後ろを何故か角兎がぴょこぴょこと追いかけていき、アサトだけがこの場に取り残された。お前、おれの使い魔じゃないのかよ。
一人だと少し、だいぶ気まずい。察してくれたのか定かではないが、沈黙の幕が下りる前に口を開いたのは主だった。
「退屈だった? もう少し体を休めた方がいいと思ったんだけど」
「あ、いや……まあ、結構元気だし。わりと」
「そう。暇なら何か頼もうか」
「うん。その方が助かる」
「水遣りはもう終わってるから……少し早いけど、昼食の準備かな。シャナムが始めてるかもしれないけど」
「おれで役に立てるかわかんねえけど……」
「簡単な作業から教えるよ」
もう少しで終わるから座って待ってて、と円卓の椅子を指差し、主は剪定を再開した。手持ち無沙汰になったので円卓で再びノートを開く。万年筆を握りながらちらと盗み見ると、袖が触れ合う程近くで主の傍に控えた男は、やはり微笑を湛えてただ主を見つめていた。あの距離では作業の邪魔になりそうなものだが、主があの男を邪険にする様子もなかった。
温室と言うだけあって、ここは暖かい。周りを見回すと、今にも咲きそうに綻んだ蕾があちこちに付いている。花の満ちる場所。春に満ちた場所。
ふと思い付いて、ノートの端に絵を描き足した。花の絵だ。途中でインクが跳ねて、融け落ちた雫のように描いた花弁から少し離れた位置に染み込んだ。それは、先程頭の中に浮かんでいた光景と、どこか重なって見えた。
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