四節 朝に舞う梟
瞼を貫通した光が網膜を強く刺激して、思わずぎゅっと目を瞑った。力を抜くとすぐに瞼の裏が赤く照らされる。チチチ、と鳥の囀る声が鼓膜を叩いて、ぼんやりとしていた意識が僅かに現実へと引き戻された。仕方なく寝返りを打つ。重たい瞼を持ち上げると、目の前に黒々とした
「……お、お前かよ……びっくりさせんなよな」
額から捩れた角を生やした白兎が、ひくひくと鼻先を震わせてぴょんとベッドを下りた。たん、たんと急かすように後ろ脚で床を叩く。そのままぴょんぴょんと跳ねて、部屋の扉の前に座り込んでアサトを振り返った。早くしろとでも言うように、「ギィ」と鳴いてまでみせる。兎って鳴くんだっけ。
身を起こして窓に目を向けた。カーテン越しに明るい日差しがベッドを照らしている。シーツの上にはいくつもの実がころころと転がっていた。体は特に重くはないが、足全体に攣るような痛みが残っていて、力もいまいち入らない。なかなか動く気が湧かずに座り込んだままでいると、ぴょこぴょこと兎が跳ね戻ってきて咎めるようにアサトを見上げたので、仕方なくベッドを下りた。
窓を開けて外の空気を取り込むと、爽やかな風が吹き込んで部屋の中を洗い出した。
「……なんか、すげえ寝てた気がするけど……そうでもないのかな」
窓から顔を出して覗いた外は、朝特有の匂いのする澄んだ空気に満ちていた。木々の隙間を頻りに小鳥が飛び回り、内緒話でもするように身を寄せ合って囀り続けている。木の葉には朝露が付いていた。胸の奥にこびりつく黒い靄を洗い流してしまいそうな、清潔な朝だった。
ぷすぷすと空気が漏れるような音が聞こえて振り返ると、角兎が鼻を鳴らしながらじっとアサトを見上げていた。
「わかったって。今行く」
靴を引っ掛けて扉を開けると、兎はすぐに飛び出して階段をぴょこぴょこと降りていった。捩れた角を生やした兎という有り得ない存在は、昨日の出来事が夢ではないのだと、アサトにはっきりと示していた。
昨夜、部屋に戻る前に何故かこの兎を預けられた。詳しくは明日説明する、角にだけ触らないようにと言い含められて渡された兎は、兎にしては妙に賢いというか、言葉を理解して動いているような節がある。彼女曰く、兎に似ているだけで兎ではないらしいから、知能も兎より高いのか。
足を擦りながら階段を一段一段踏み締めて下りると、一番下で兎が後ろ脚で立ちながら待っていた。兎というよりも、人間を助けるように躾けられた犬みたいだ。跳ね歩く兎に先導されるような形で食堂に足を踏み入れた。
食堂には誰もいなかった。だが、奥のキッチンからは物音と話し声が聞こえてくる。テーブルが並ぶダイニングと奥のキッチンの間には、それぞれを仕切る扉と、丸みのある長方形状に空いた硝子のない大きな窓のようなスペースがあって、そこから向こう側で動く人影がちらほらと見えた。
兎はテーブルに近付くと、ぴょんと跳ねて椅子の一つへと乗り上げた。前脚をテーブルに乗せ、背伸びするような姿勢でキッチンの方を見つめている。兎なのに、人と同じように食事をするつもりに見えてなんだか可笑しかった。
キッチンを覗こうか迷い、なんとなく兎の隣の椅子に腰掛けたのと、キッチンに繋がる扉が開いたのは、ほぼ同時だった。
「……なんだ、早いな。慣れん寝床ではよく眠れなかったか」
マグを片手に現れたのは、あの騎士然とした男だった。光を反射しない黒のシャツに白のスラックスと、昨日に比べて随分軽装、というか完全にオフといった格好だが、やや長く緩やかな癖の付いたくすみのない金の髪と、あの金と赤の瞳はなかなか記憶から薄れるものではない。貴族のような出で立ちの割りに派手さのない装いだが、シンプルな服装が
ベリトは部屋の片隅にある本棚から薄い本を抜き取り、そのまま近くのテーブルに着いた。
「あ、いや……ちゃんと寝れたっていうか、逆にしっかり寝過ぎて早く目が覚めた……?」
「何故疑問形なんだ。まあ、それならいいが」
ベリトはそう言ってアサトを一瞥してから、テーブルに置いた本を開いた。と、アサトの視界を何か白いものがひょっこりと遮る。いつの間にか隣から消え、ベリトの側の椅子へと移動して顔を、いや耳を覗かせていたのは、あの角兎だった。
兎は前脚をテーブルに着いて、ベリトを見上げるように顔を向けながら「ギッ」と鳴いた。
「なんだ? 俺の魔力ならやらんぞ」
「ギィッ、ギッ、ギッ!」
「お前は俺の使い魔じゃないだろう。自分の主から貰え」
兎は尚も納得いかないようにギィギィと鳴いて、やがてぴょんと椅子から飛び降りた。たたっと駆け出した先にあるのは、先程ベリトが出てきた扉だ。流石に室内で走り回らせるのは止めた方がいいだろうかと迷いながら立ち上がると、不意に兎が足を止め、ピンと耳を立てながら振り返った。同時に背後の扉が開く音がする。アサトも何気なく振り返り、
「――は、」
腰を抜かすようにして、背中から椅子に倒れ込んだ。
それは異形だった。
男、だろうか。背丈はベリトやあの黒衣の男と並んでも遜色なさそうで、恐らく百八十は越えている。ゆったりとした裾のズボンにブーツを合わせていて、上半身は何も纏っておらず、鍛え上げられた肉体が露わになっているが、首から肩、腕の先にかけて鳥のような羽毛に覆われている。手は人間のようだが、手の甲にも長い羽毛が生えていて、遠目に見ると人の腕というよりは翼のようだ。そして何より異質なのは、その頭だった。
梟男は、呆然としたまま座り込んでいるアサトには目もくれず、首をぐるんと回して嘴を開いた。
「ほー、ほう、ほっ」
「久しいな、アモン。お前が戻ってくるとは珍しい、どういう風の吹き回しだ?」
梟男が首を向けたのは、マグを傾けながら優雅に本を眺めていたベリトの方だった。マグをテーブルに置き、頁を捲るベリトには全く動じた様子がない。というか、どう聞いても梟の鳴き声でしかないのだが、何を言っているのかわかるのだろうか。ふと気付くと、ベリトの隣から白く長い耳が飛び出していた。扉の前で固まっていた角兎がいつの間にか移動している。兎からすれば梟は恐ろしい猛禽だろうから、少しでも安全なところに隠れようとしたのかもしれない。
あの黒衣の男程の畏怖は感じないが、如何せん見たことのない異形にどう反応していいかわからないまま見つめていると、キッチンの扉が開いて少女が入ってきた。
彼女はその赤と青の瞳を入口に立ったままの梟男へと向け、緩慢に瞬きをした。
「……きみが帰ってくるとは思わなかったな。おかえり、アモン。久しぶり」
梟男は少女の前に進み出ると、胸の前で拳を掌で包むように組み、軽く頭を下げた。見たことがない仕草だが、もしかしたら彼らの礼の一つなのかもしれない。主は昨日からほとんど表情が変わらないが、どこからどう見ても人ではない梟男を前にしても特に何も言わないあたり、やはり彼女の仲間なのだろう。
「大方、ベルゼブルにたまには挨拶しろとでも言われて来たんでしょう。前に帰ってきたのは六年前だったかな」
主はそう言って、梟男からアサトへと視線を向けた。今の今まで背凭れに崩れかかるようにして座っていたのを思い出して、漸く居住まいを正す。
「おはよう。胃の調子は?」
「あ、えっと……特に問題は」
「そう」
アサトの返事に小さく頷いて、主はキッチンの方を振り返った。
「シャナム」
「はあい?」
扉の側の窓の部分から、ひょこっと巻角が覗いた。ふわふわの髪を揺らしたシャナムは、相変わらずにこにこと柔らかい笑みを浮かべている。
「それが終わったら、準備してた朝食を出してあげて」
「あら、おはようございます。ちょっと待っててくださいね」
「お、お構いなく……」
シャナムが微笑んでキッチンに引っ込んでから、主にもシャナムにもろくに挨拶を返せなかったことに気付いて、自己嫌悪が湧いてきた。あの牢獄のような場所から連れ出され、衣食住の面倒まで見られておきながら、自分はまともに挨拶もできないのか。この場所で目覚めてから、目まぐるしく過ぎる時間に飲まれすっかり流されていたが、ふとした拍子で我に返る。
背中を丸めて小さくなるアサトを後目に、梟男が再び「ほう」と嘴を開いた。梟男はホーホーと鳥のように鳴くだけで、アサトの理解できる言葉を発しない。しかし彼女には問題ないらしく、梟男の頭を見つめたまま一通り鳴き声を聞き、彼が嘴を閉じると小さく首肯した。
「報告ありがとう、お疲れ様。戻ったらベルゼブルと交代して、もう少し状況を見て」
梟男は再び手を組んで少女に一礼し、今度は真剣な眼差しを本に注いでいるベリトへと向き直った。先程と同じように「ほう」と声を上げる。ベリトが手を止めて梟男に目を向けると、間に立っていた主が通訳してくれた。
「戻る前に手合わせ願いたいって」
すると、ベリトは軽く眉を寄せ、どことなく面倒そうな顔を梟男へと向けた。
「昨日戻ったばかりで何故また槍を持たねばならん。好戦的な奴なら他にいくらでもいるだろう」
だが、梟男はベリトの返答にも構わず、右足を半歩前に踏み出し、羽毛に覆われた腕をすっと持ち上げて独特の構えを取った。そのまま九十度、ぐるりと首を回してみせる。かなり不気味だ。肩より下は人みたいな体なのに、一体どうなっているのだろう。主は小さく肩を竦め、ベリトは溜め息を吐いている。何とも言えない空気だ。
と、そんな奇妙な雰囲気を払うように、盆に何かを載せたシャナムがキッチンから出てきた。
「お待たせしました。シロップは必要ですか?」
シャナムは盆をベリトの前まで運んでくると、本の邪魔にならないように皿をテーブルへと置いた。鮮やかな赤いベールに覆われたケーキが載っている。見たことがないタイプのケーキだが、ベリーのソースか何かだろうか。
「いや、このままでいい。お前は食べないのか」
「あら、でしたらアサトさんのご飯を運んだらお邪魔します」
「あ、おれ自分で……」
「いえいえ、そのままお待ちくださいね」
シャナムはにこにこと笑ってキッチンに戻ってしまった。上げかけた手が行き場を無くす。
「気にするな。お前に気を遣っているというより、あれは自分がやりたいことをしているだけだ」
居た堪れなくなって椅子に座り直すと、本を閉じて脇に置いたベリトにそう言われた。ベリトはそのままフォークを手に取り、じっと視線を向けたままだった梟男に顔を向ける。
「悪いが、この通り取り込み中だ。他を当たってくれ」
梟男が目を眇めるように瞼を伏せた。どことなく不満そうな空気が滲み出ている。ベリトは構う様子もなく、ケーキにフォークを入れながら涼しい顔でマグを傾けていた。
不服そうな梟男から素知らぬ顔のベリトへと視線を移し、主は思案げに数秒置いてから再び梟男へと目を向けた。
「なら、わたしが相手をしようか」
男達の反応は同時だった。梟男は目を瞠り、ベリトは視線を手許から彼女へと移す。
「……よろしいのですか?」
「たまには動かないと、感覚が鈍っても困るから。代わりにベリトが説明してくれる? アサトに魔力の扱い方を教えるつもりだったんだけど」
「それは構いませんが……」
「じゃあお願い。後はよろしく」
主が空を切るように軽く腕を振ると、まるで最初からそこに存在していたかのように、虚空から槍が現れた。柄だけで既に彼女の身長を越えていて、その先に刃渡り四、五十センチ程の白銀の刃が付いている。刃はやや複雑な形をしていて、刺突以外にも利用できそうだ。お世辞にも戦いに向いているとは言い難い、少女の小柄な体格には不釣り合いな、随分大柄な得物に思えた。
主はまるで籠でも提げるように平然と槍を握り、刃先をやや下げて持つと、再び梟男に声をかけた。
「外に出ようか。できれば天界の方まで」
梟男はしげしげと少女を眺め、
「……恐悦至極」
く、く、く、と喉を鳴らすような笑い声を漏らし、よく響く渋い声で、はっきりと人が聞き取れる言葉を放った。
いや。
喋れるんだ?
揃って食堂を出ていく一人と一羽(で、いいんだろうか)を見送ると、それと入れ違いになるようにシャナムがキッチンから戻ってきた。
「お待たせしました。あら? お二人は外ですか?」
テーブルに盆を置いて扉の方に目を向けたシャナムの言葉にはっとした。
「な、なあ……あれ、止めなくてよかったのか? あんな……なんかよくわかんねえけど、強そうな……変な奴……」
「ああ」
相変わらずのんびりとケーキを食べ進めているベリトに問いかけると、苺のスライスをいくつも重ねてフォークで刺しながらの、事も無げな返答が来た。
「お前は主の姿だけ見て不安に思ったのだろうが、むしろ逆だ。アモンは指折りの戦士だが、龍が相手となれば流石に悠長に構えてはいられまい」
そう言ってベリトは再びマグを傾け、視線をアサトの手許にある皿へと向けた。
「冷めないうちに食べてしまえ。話はその後だな」
「あ、そうだ……あの、ありがとうございます」
「いえいえ。私は温めただけですから」
自分の皿を持って戻ってきたシャナムに軽く頭を下げると、シャナムはふんわりと柔らかい笑みを浮かべたままベリトの隣、角兎を挟んで一つ脇の席へと腰かけた。まだそこにいたのか。
角兎はテーブルに前脚を着き、並べられた皿をじっと見つめていた。
「……頂きます」
兎の視線を感じながらスプーンを手に取った。皿の中身はパン粥だった。馴染みのある料理だ。食欲がない時や風邪を引いた時は、母がよく作ってくれた。
黙々と手を動かしていると、先に手を付けていたベリトがすぐに皿を空にして、脇に寄せていた本を再び手に取った。ちらりと覗いてみたが、見たことのない文字で何と書いてあるのかわからない。読むことはできないが、本は頁のほとんどがやたらと精巧で本物のような絵で埋め尽くされていて、よくよく見てみるとどれもこれも先程のケーキのような菓子の絵ばかりだった。
ベリトは真剣な眼差しで頁を捲っている。何か重要なことでも書かれているのだろうか。ちらちらと様子を窺っていると、唐突にガタンとテーブルが揺れた。陶器の皿が固い音を立てる。驚いて何事かと視線を巡らせると、アサトのテーブルの端に兎が飛び乗っていた。タン、タンと後ろ脚でテーブルを叩く。
「……痺れを切らしているようだな」
ベリトは顔を上げて兎を見留めると、本を置いて席を立った。アサトが座っている椅子の反対側、兎の側の椅子に移動すると、兎の首根っこを掴んでアサトの皿の前へと置く。ちょうど目前に捩れた角が来て、少しだけひやっとした。
「まだ食べ終わっていないようだが、こいつが待てないようだからな。お前、自分の魔力は感知できるか?」
「え、いや……えっと」
「いや、構わん。実際に体験してみるのが手っ取り早いだろう」
「な、何を……?」
ギィ、と苛立ちを示すように兎が一際大きく鳴く。タンタンとテーブルを蹴る兎の角をベリトは指差した。
「触れてみろ」
「……お、怒るんじゃ」
「逆に大人しくなる。お前も突然死んだりしない、心配するな」
目の前の兎と、ベリトの顔を交互に見る。ストレスを和らげる為か前脚で顔を洗い始めた兎を暫し見つめて、そろそろと指先を伸ばした。
「……へ」
角を握った瞬間、軽い目眩のようなものに襲われて咄嗟にテーブルに手を着いた。視界がぐるりと揺れて、酩酊感、虚脱感、疲労感が襲ってくる。力が抜けていく感覚。掴んでいられずに角から手を離すと、兎は打って変わってご機嫌な様子でテーブルから飛び降りた。そのまま毛繕いまで始めてみせる。訳もわからずに頭を押さえていると、少しずつ目眩のようなものは落ち着いてきた。
「自分の中から何かが流れていくのがわかっただろう。それがお前の魔力だ」
ベリトはそう言って席を離れると、テーブルに残されたままの自分の皿に手を伸ばした。シャナムが「私がやりますから」と制して、皿を纏めて持っていく。頭がぼんやりしていて、そんなやりとりも脳を素通りしていった。
ぎゅっと目を瞑り、ゆっくりと力を抜く。少しだけ頭の中がクリアになった気がした。
「使い魔は核から魔力を吸収して活動する。それの場合は角だな。元から魔力を持たない者であれば何の変化もないが、魔力を自覚していない者が流れを知覚するにはわかりやすいだろう」
「……おれから力を吸い取ったってこと……?」
「そうだ。その使い魔は大して魔力を保持できん。定期的に魔力を渡してやる必要があるし、魔力の総量が少ない為に魔力を奪われ過ぎることもない。お前に魔力の扱い方を覚えさせる為にそう造ったんだろう」
つまり、水瓶が溢れないように汲み出してくれる存在ということだろうか。それで以前のような苦しみを味わわずに済むのなら有り難いが、毎度このような感覚に襲われるのか。もちろん、まともに動けずに唸っているよりは遥かにましなのだが……。
それが顔に出ていたのか、ベリトはふっと笑みを浮かべて小さく首を振った。
「お前が最初に覚えることは、そいつに好き勝手魔力を奪われないようコントロールすることだ。それができればそのように急激に魔力を失って脱力することもないからな。知覚できたのならそう難しいことでもないはずだ」
「……ほ、本当に?」
「難儀した時は手を貸してやる。魔術は不得手だが、魔力の扱い自体は他の連中より得意だという自負はあるからな」
昨日のこともそうだが、この男は随分面倒見がいい。切れ長の目に威圧感はあるが、表情自体はそう厳しくないし、根は優しいのかもしれない。いや、そもそも初めて会った時、主がそう言っていたような。
不意に扉が開く音がして振り返ると、少し前に出ていったばかりの一人と一羽が、ものの十分で食堂まで戻ってきていた。
が、その間に何があったのだろう。両者共に服のあちこちが切れてずたずたになっているし、主の頬には一筋の切り傷が入っていて、梟男は向かって右側の羽角が途中からすっぱり無くなっている。ただの手合わせではなかったのか。というか、梟男は武器など持っていないのに、どうして彼女の服も鋭利な刃物で斬られたように裂けているのだろう。しかも梟男は、切れた羽角を特に気にした様子もなく、むしろ随分と満足そうな様子で、まるで紳士が立派な髭に触れるような仕草でもう片方の角羽を撫でていた。
「随分と派手にやりましたね」
アサトが唖然として眺めている一方、一人と一羽の様子を一瞥したベリトが苦笑すると、頬の傷を撫でながら「ちょっと本気になった」と彼女は答えた。手を離すと、頬に走っていた切り傷が消えている。軽く目を擦ってもう一度見ても、やはり最初から何もなかったかのように綺麗さっぱり傷は消え失せていた。
「またあの男に小言を言われますよ」
「このくらいなら言わないよ。不満そうな顔はするけど。それに、相手はアモンだし」
主が持っていた槍を一振りすると、それは現れた時と同じように忽然と消えた。羽織っていたケープを外しながら、まるで一部始終を見ていたかのようにアサトに向き直る。
「食べ終わったら少し休んだ方がいいよ。普段当たり前にあるものが急激に失われると不調を
「……わかった」
着替えてくる、と言って主が再び出ていくと、梟男は羽角を撫でる手を止め、ベリトの方へと首を向けた。
「ほっ、ほっ、ほっ」
笑い声なのか囀りなのか、いまいちよくわからない。梟男の視線を追ってベリトの方を見ると、ベリトはどこか渋い顔をして溜め息を吐いた。
「悪いが普通に喋ってくれ。俺は鳥の声を解する力は持たん」
あ、わかってなかったんだ。
梟男は嘴を閉じて黙り込み、再び羽角を撫でると、
「久方ぶりの血湧き肉躍る
と、また流暢に人語を喋り始めた。
「昨今は骨の無い奴らばかりでな。噂を聞き付けて我輩が出向いても、期待外れでなかなか楽しめぬ。その点、ここはいつ戻ってきても飽きぬな」
「そうか」
「次に
「外で
ベリトが肩を竦めると、梟男は再び笑い声なのか囀りなのかよくわからない鳴き声を漏らして、今度は急にアサトの方へぐるんと首を向けた。予備動作が全くなくて心臓に悪い。
「申し遅れた。我が名はアモン。武を極めし旅の最中、月に住まう龍の下に羽根を休める者也」
「……えーっと……」
何を言いたいのか見当も付かず、困惑のままにベリトへと視線を向けると、
「要は我々の仲間ということだ」
だったら簡潔にそう言ってほしい。
ともあれ、流石に名乗られておきながら黙っているのは礼を欠くだろう。口を開こうとした瞬間、しかし梟男はこちらに背を向け、扉ではなく窓の方へと歩いていった。
「え、あの」
「縁があればまた
言うなり梟男は窓枠に手を掛け、そのまま外へと飛び出してしまった。既視感があるが、本来窓はそんな風に使うものじゃないと思う。
窓に近付いて外を覗くと、既に梟男は跡形もなく姿を消していた。
「……おれ、まだ名乗ってないんだけど」
「放っておけ。どうせ自分が関心のある強者しかろくに覚えん奴だからな」
朝から疲れただろうとベリトに労われ、消化不良のあらゆるものを抱えたままテーブルへと戻る。兎はすっかり腹を満たしたような様子でテーブルの上に寝そべっていた。呑気で羨ましい。
まだ起きてそう時間は経っていないはずなのに、既に長い一日を終えたような気分になりながら、すっかり冷めて微温くなった粥を掻き混ぜた。
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