断章 蝿の王Ⅲ
指先で描いた文字が、淡い光を伴って浮き上がった。連なる文字は踊るように翻り、次々と本の中に吸い込まれていく。頁が埋まると次の頁へ、本が埋まると新しい本へ。もう丸一日程、この作業を繰り返している。
ベッドに腰掛け、テーブルを引き寄せての作業はあまり快適とは言えないが、それもすぐに慣れた。詠唱、呪文、陣、あらゆるものを利用して作られた簡易魔術を封じた本が少しずつ頁を増やしていく。最近はストックも減っていたから、この時間はそれを補充するにはちょうどいい。
最後の頁を使い終わると、本を閉じて仕上げに保護の魔術を施した。一連の作業はこれで終わり、漸く魔本が完成する。机に本を置いてベッドを振り返った。
くすみのない金の髪が目に入った。よく晴れた日の空のような色の瞳は、今は瞼で隠れていて見えない。大半が本棚で埋まった書斎は寝室も兼ねているが、以前からベッドを利用して眠ることがないのでそのまま使わせていた。屋敷に連れて帰った際に部屋を与えはしたのだが、ずっと傍をついて回って自分の部屋に戻ることがないので、この私室が事実上の寝室になっていた。
悪魔も神と同様に消耗しなければ睡眠は必要ないはずだが、魔力効率がよくないらしく、こうして眠りに就いていることが自分に比べてずっと多い。特に何事もなければ数ヶ月は眠らずに活動したままの自分から見れば、随分不便なことだろうと思う。眠りが浅いのか夢見も悪いらしく、度々魘されている姿を見もした。今までどう過ごしてきたかを鑑みると、それも致し方ないことかもしれない。
頭の中を覗いて夢をいじることも考えはしたが、流石に悪趣味が過ぎるだろうと考えてやめた。心の中を覗かれることには特に抵抗がなかったようだが、気にしていないからといって積極的にやるようなことではない。気休め程度にしかならないだろうが、代わりに暫く頭を撫でている。起きた時に多少ましな顔をしているから、何もしないよりはいいようだ。
テーブルに向き直ってまっさらな本を手に取った瞬間、強い力で腕を引っ張られた。
振り返る間もなく抱え込まれる。凄まじい力に僅かに身が軋んだ。
「……なに?」
身動きしづらい中でどうにか首を捻ってみたが、顔は見えなかった。黒い靄が周囲に広がっている。それは行き場を失ったように揺らいでいた。巨大な翅のような物が、僅かに視界の端に映っていた。
危害を加える気がないことは知っている。ただ、衝動性が強く我を忘れやすいだけだ。
「そんなに力を込めなくても逃げないよ」
腕を撫でると僅かに力が緩んだ。改めて上体を捻り、俯いたままの頭に手を伸ばした。髪に触れても微動だにしない。そのまま頭を撫でた。
「悪い夢でも見たの」
返事はなかったが、撫でているうちに少しずつ力は弱まっていった。ずっと俯けられていた顔が僅かに上がる。覗き込むと、目が合った瞬間ばつが悪そうにふいと逸らされた。
靄が収束していく。
「……落ち着いた?」
手を離して問いかけると、目を逸らしたまま小さく頷いて、拘束していた腕が離れていった。
解放された上体を軽く擦ると、男ははっと我に返ったように手を伸ばそうとして、すぐに躊躇って腕を彷徨わせ、やがて何かを諦めたように引っ込めた。
「どこも折れてないよ。お前が思うより遥かに頑丈だし、これくらいで動けなくなる程脆弱じゃない」
衝動的なだけで、害意はない。我を忘れやすいだけで、理性がないわけではない。言葉が下手で不器用だが、何を言いたいのかは伝わってくる。
そう答えてやると、男は返答に迷ったように暫く目を合わせたり逸らしたりを繰り返して、やがて僅かに頷いた。
ベッドを降りてテーブルの上を整理し、使わなかった本を数冊抱えて本棚に向かうと、何も言わないまま後ろをついてきた。空いた部分に本を収めながら振り返る。
「もう少し眠らなくていいの」
「……はい」
「そう。なら、一つ頼みたいんだけど」
男は怪訝そうな顔で見下ろしてきた。傍に置いておくだけで何かを頼んだこともなかったから、それも当然かもしれない。
「これからちょっと、ニアのところに行くんだけど」
「はい」
「わたしが出かけている間、この屋敷に残って留守を守っていてほしい」
「………………」
「お前はわかりやすく嫌そうな顔をするねえ……」
普段は無表情でいることが多いが、嫌悪や不満がわかりやすく顔に出る。別に連れて行ってもいいのだが、ゆくゆくは自分が庭を離れている間の管理と監視を任せるつもりでいるから、少しずつ傍にいない時間にも慣れてほしい。
「もし庭に誰かがやってきたら、まずは様子を見ること。敵意がなければそのまま帰して、迷い込んだ者は外まで送り届ける。襲撃者だったら殺していい。そう遅くならずに戻るから。いいね」
不満そうに顔を顰めたままだったが、手を伸ばすと素直に屈んだ。その頭を軽く撫でる。
手当たり次第に周囲を喰らい、天使の軍団を尽く壊滅させ、神々を幾柱も喰い殺したことは知っている。
それでもわたしには、この男のどこが恐ろしいのか、感じ取ることができなかった。
隠れ里には、今日も高らかに槌の音が鳴り響いている。
月の
「ニアさん、お疲れ様です」
「ニア様、素材はこちらでよろしいですか?」
「ああ。そこに纏めて置いてくれ」
隠れ里の仲間は勤勉でよく働く。煌々と燃え上がる炎が心地好い。傲慢で横柄な神が持ってくる仕事を引き受ける必要も、今はない。
あまりにも自由だった。
「ニアさん」
一息吐こうと切り株に腰を下ろすと、また別の仲間から声をかけられた。忙しいものだと頭だけで振り返る。刹那、弾かれたように立ち上がった。
「ニア。今日も忙しそうだね」
「……いいえ、我が君。よくぞお越しくださった」
「大仰だな。頼んでた剣を取りに来ただけだよ」
左右で色の違う、透き通った赤と青の瞳がニアを見つめていた。月の御方を案内してきた者が頭を下げて仕事に戻っていく。ふと違和感を覚えて、月の御方の周囲に視線を配った。
「珍しい。今日は彼を連れていないようですが」
「うん。屋敷で待たせてる」
「何か事情が?」
「いや。特にそういうわけではないよ。剣はどうだった?」
「何も問題なく。龍神の牙ですからそれも当然と言えば当然ですが、貴方の力量故でしょう。全く傷んでいません」
「どちらかというと、振るう機会が多くないからだと思うけどね」
淡々とした言葉に思わず笑ってしまった。如何に業物といえど、未熟な者が扱えば剣はすぐに真価を失う。謙遜でも何でもなく単なる事実のように述べる月の御方は、当然のようにあの剣をどのように扱うべきか心得ている。
「少々お待ちください」
断りを入れて作業場に戻り、一振りの剣を手に取った。龍神の牙を用いた刃は白銀で曇り一つなく、まるで持ち主の心を映しているかのようだ。それを収める鞘も同じ牙から作られている。扱いの難しい素材を使った得物だが、それを任されるのは鍛冶を司る者としてこの上ない喜びがある。
鞘に収めたそれを持ち出して差し出すと、月の御方は柄を握り、鞘から半分程抜き出して刀刃を眺めた。
「……うん。きみの仕事にはいつも曇りがない」
「恐悦至極に存じます」
「なんでそんなに物々しいかな、きみは」
剣を鞘に収め直すと、月の御方はどこか呆れたような溜め息を吐いた。僅かな変化ではあるが、何があっても顔色一つ変わらなかった頃に比べると、まるで別の存在であるかのようにすら思える。笑みを堪えられずにいると、月の御方はやや怪訝そうな目でニアを見上げた。
「……何かおかしなこと言った?」
「いえ。ただ、最近の貴方の噂を思い出しただけです」
「どんな?」
「以前に比べ、やや短気になられたと」
「ああ……」
月の御方は、納得したように呟いて小さく肩を竦めた。
「怒りみたいなものは、相変わらず感じないんだけどね。どうでもいいし」
「では、どのようなお考えで」
問いかけると、月の御方は一度口を閉ざして目線を伏せた。何か思うところがあるのだろうか。ややあって再び口を開く。
「わたしが受け流して放っておくと、何故かゼブルの方が傷付いたような顔をするから」
ああいう顔をさせたくないと思ったから、少し態度を改めることにした。
そう語る我が君を前に、一瞬全ての言葉を失った。
「……ニア?」
呼びかけられてはっと我に返った。どう言葉を返せばいいのか。考える前に、自然と笑みが溢れてきた。
「……いえ。貴方は本当にお変わりになられた」
「……それは自分でも知ってるけどね」
小さく呟くと、月の御方はどこか憮然とした様子で遠くの空に視線を向けた。反応が芳しくない。何か気に障ることをしてしまっただろうか。
口を噤んで様子を見ていると、月の御方は空から視線を下ろし、ニアの方へと向けた。
「お前達は、感情が稀薄なわたしには他者の心など理解できないと思ってるだろう」
虚を衝かれたようだった。
「……いえ。そんなことは」
「わたしに嘘は通用しない。知ってるはずだね、ニア」
咄嗟に出た言葉を一瞬で看破され、答えに窮した。立つ瀬なく黙り込んだニアを咎めるでもなく、月の御方は再び空へと目線を向ける。
「わたしには『眼』があるから、というのもあるけど。他者の心を理解することと、わたし自身が相応の感情を持たないことには関係がない。そうでなければ、お前達だって自分の理解し得るものにしか手を伸ばせないことになる」
「……最もなお言葉です」
「お前達は昔から、わたしを不当に神聖視して遠ざけてきた。わたしの変化を喜ぶのは、わたしがお前達に理解できる範疇になろうとしているからじゃないの」
「そう……かもしれませんね。失礼ながら」
「わたしが変わっても変わらなくても、お前のことは友だと思っている。わたしの友であるのなら、それはやめてほしい」
「私が貴方の友などと、畏れ多い」
「そういうところだよ」
月の御方は微かに溜め息を吐いて背を向けた。かける言葉が見つからない。だが、どのように思われ扱われようと、己の立場を弁えず行動することも、自分とは違う存在を同等に扱うこともできなかった。これが一番正しいことだと思っている。
「……
去り際に残したその一言が、彼の友を傍に置く理由の欠片を物語っていた。
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