幕間 午睡の胡蝶

 美しい景色だった。

 光が満ちたその場所には、様々な色をした花が雄弁に咲き誇っていた。穏やかな風が葉を揺らしている。甘い香り。白い蝶が二匹、連なるように飛んでいた。

 視線を周囲に巡らせた。花畑が広がった一帯は明るく白く、しかしその先の景色は雲に覆われたように遮られていて見えなかった。見覚えのある場所だが、いつどこで見たものだったのかまでは思い出せない。記憶に靄がかかっているような感覚。何か妨害でも受けているのか。


「綺麗な景色だろう?」


 突然、誰かの声が聞こえた。

 いつの間にか、少し離れたところに見覚えのある姿があった。

 くすみのない金の髪が揺れている。よく晴れた日の空のような色をした瞳が細められていた。優しげな眼差しがわたしを見つめている。でも、顔は逆光がかかったようによく見えない。

 よく知った姿だった。

(兄様)

 兄は屈み込んで、風に揺れる一輪の花に手を伸ばし、花弁を指先で撫でた。

「君はずっと、あの塔に籠り続けているから。君の『眼』があれば世界中を見渡せるだろうけど、こういう景色には目を留めていないと思って」

 兄は花から手を離し、わたしを振り返って微笑みを向けた。どれだけ美しくとも決して手折ることなく、何かを自分のものにすることのない方だった。

「この花達は、とても綺麗だと思わないかい」

「思いません」

 心とは正反対の言葉が口から溢れて、一瞬思考が空白になった。

「……何も感じない?」

「はい」

「……そっか。うん、そうか」

 兄は曖昧に微笑んで、再び花に目を落とした。話したい言葉がちゃんと出てこない。そこで漸く気付いた。

(……夢)

 これは、夢だ。

 遥か昔、まだ天界で兄と過ごしていた頃の。普段思い返すことのない、記憶の残照。

「兄様から見て、これは綺麗なのですか」

「そうだね。とても綺麗だ」

「そうですか」

「君にとってはそうじゃない?」

「わかりません」

 思ってもいない言葉ばかり溢れるのは、これが思い出をなぞっているに過ぎないからだ。今のわたしの感情も、言葉も、ここには存在しない。急に世界が遠退いて、まるで額縁の外から存在しない風景を眺めているような感覚に陥った。鏡を見ているわけでもないのに、わたし自身がどんな顔をしているのかくっきりと頭の中に浮かんだ。

 どうしてわたしだけなんだろう。

 わたしは、なんて無機質なんだろう。

「兄様」

 唇は尚も勝手に動いていた。

「なんだい、――」

 兄がわたしの名を呼ぶ声が何故か遠くて、遠過ぎて、わからなかった。


「兄様は、わたし世界の敵にはならないでくださいね」


 これだけは、何故か自然と口を衝いて出た言葉だった。今も昔も変わらない、本当の願いで、祈りだった。

 兄は少しの間沈黙した。吹いた風が花を散らして、舞い上がった花弁が白い景色の向こうへと消えていった。

「……そうだね」

 言葉と共に浮かべられた微笑みは、いつものように曖昧な色をしていた。




 ふと、目の前を白い蝶が過ぎった気がした。

 閉じていた瞼を持ち上げた。目を開けて初めて、どうやらいつの間にか微睡んでいたらしいことに気が付いた。普段休息を取っている泉の底以外で眠り込むなど、随分久しかった。少し魔力を使い過ぎていたのかもしれない。

 そこは見慣れた書斎だった。広い部屋の中は大半が棚で埋め尽くされ、ベッドやソファ、テーブルは端の方に追いやられている。窓からは柔らかい木漏れ日が差し込んでいた。日が傾き始めている。身を預けていたソファの背凭れが僅かに軋み、手にしていた栞がかさりと床に落ちた。

「お疲れですか」

 不意に上から降ってきた声に顔を上げると、気遣わしげな視線と目が合った。くすみのない金の髪。よく晴れた日の空のような色をした瞳。一瞬、夢の中で見つめていたそれと重なって見えた。

 ほんの僅か、胸の奥が苦くなった。

「……主?」

 怪訝そうな顔にはたと我に返って、小さく首を横に振った。まだ少し、意識が向こう側に残っている。何でもないよと答えると、腑に落ちない表情が返ってきた。

「少しお休みになられては如何ですか。もう三月程、休息を取られていない」

 絶えず傍に控えていた男は、手にしたままだった本を取り上げて床に落ちた栞を拾った。読みかけだった本をぱたんと閉じられる。

「……どれくらい寝てた?」

「一分足らずだとは思いますが。私が気付いてからですので、何とも」

「そう」

 立ち上がって軽く服を直し、取り上げられた本を掴むと、男はまるで窘めるように眉根を寄せてみせた。

「主」

「まだ大丈夫。そうだな……世界もう一つ分、術式を組み直し終わったら少し休むから」

「約束ですよ」

「うん。一週間くらい起きないかもしれないけど、いい?」

「お傍におります」

「うん」

 受け取った本を本棚の脇のテーブルに置いて、窓際に近付いた。外には春の花が一面に咲いている。けれど、夢の中で見ていた花とは、どれもこれも少し違っていた。同じ花は一つもない。記憶が勝手に作り出した存在しない花なのか、それともあの場所でしか見られない花だったのか。あの頃は興味がなかったから、今となってはわからない。

 ふと、夢の中で見た兄の曖昧な笑みが蘇った。

「……ベルゼブル」

「はい」

 それが馬鹿げた問いだとわかっていても、なんとなく言わずにはいられなかった。


「お前は、世界わたしの敵にはならないでね」


「有り得ません」

 即答だった。

 なんだかおかしくなって、少しだけ笑ってしまった。

 振り返ると、男は呆れるでも怒るでも不貞腐れるでもなく、まっすぐにこちらを見ていた。

「……そうだね。お前はいつでもそうだ」

「はい」

 あのいつも陰鬱そうだった表情も、世界の全てを憎んでいたような眼差しも、もうどこにも見当たらない。そこにあるのは、穏やかな信頼だけだ。

 世界は変わる。万物は流転する。世界に最も忠実な道具としてつくられたわたしでさえも。

 少しだけ笑みを返して、窓際のカーテンを引いた。

「そろそろ夕食の準備をしようかな。シャナムだけに任せるのも悪いし」

「人間の物しか必要ないのですから、あなたが毎回手をかけてやることもないでしょう」

「わたしがやりたいんだよ。趣味みたいなものだし」

「あなたは本当に人間に甘い」

「お前にもわりと甘いつもりだけど」

 男は一瞬目を瞠って、どこか気まずそうに目を逸らした。その様子がおかしくて、また少しだけ笑った。

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