三節 生きたいなんて思わないけど
「屋敷の中は大体こんな感じですね。何か気になることはありますか?」
建物を一周して中庭に戻ると、エプロンを直しながら振り返ったシャナムがにっこりと笑みを浮かべて手のひらを合わせた。
「……や、今はとりあえず大丈夫。ありがとうございます、色々と」
「そうですか? 何かわからないことがあれば、何でも聞いてくださいね」
頷いてみせると、シャナムは再びアサトへと笑いかけて、ワゴンを押しながら屋敷の中へと戻っていった。ふわふわと雲みたいに柔らかそうな髪が揺れて、そのうち後ろ姿も見えなくなる。それを見送ってから目線を上へと向けた。
村では到底見られないような立派な建物だった。白塗りの壁に藍色の屋根、窓は全て硝子張りで、一部の窓には何か意匠らしきものが彫り込まれている。一番近い窓でもやや遠くてはっきりとは見えないが、模様というよりは知らない国の文字のようだ。建物自体は二階建てだが、中庭を中心として見た西側にはいくつか塔のようなものが突き出ていた。左右非対称の造りをしているらしい。東側はアサトが目覚めた部屋がある方で、外から見ると廊下の突き当たりらしい場所から広いベランダが伸びていた。シャナムによると、西側は主やその契約者達が利用している棟、東側がアサトのように保護された者達が過ごす棟になっているそうだ。
庭の主である少女が黒尽くめの男を伴って
まず、食堂とキッチン。棚や食器は見覚えのあるものが多かったが、どこから水を引いているのか勝手に水が出る装置がある。食材を保管する為の箱は中がとても冷たくて、そこだけ冬が閉じ込められているのかと思った。どういう仕組みでそんなことになっているのか尋ねてみたものの、シャナムもそういったものには詳しくないそうで、膨大な魔力を凝縮した結晶石を用いて動かしているらしい、とだけ教えてくれた。らしい、ということは、シャナムも誰かからそう聞いただけのようだ。
次に、浴室。かつていた村は冬になると非常に冷え込み、寒さを払えば疫病除けになると昔から伝わっていたので、日常的に入浴の習慣はあったのだが、何というか規模が違う。人が十人以上入っても余裕のありそうな大きな浴槽に加え、触れると勝手にお湯が降ってくる機械のようなものもあった。その大きな浴室の他にも、一人で利用したい者の為の個室もあるらしい。村どころか、領地の伯爵や国の王族ですらこんな設備は使ったことがないんじゃないかとさえ思う。アサトが見聞きできる情報などたかが知れているので、もしかしたら案外そうでもないかもしれないが、少なくともアサトにとっては未知の代物だ。
触れるだけで勝手に灯るランプなど、他にも見たことも聞いたこともないようなものが色々とあったが、とにかく一人でちゃんと使えるように必要な知識だけ頭に詰めることにした。目を覚ましてから教えられたこと、覚えなければならないことがあれもこれもたくさんあって、目が回ってしまいそうだ。
暫く呆けたように建物を見上げた後、はっと我に返って東側へと顔を向けた。一通り見て回ったら部屋に戻って休むようにと言われていたことを思い出す。
最初に出てきた時に通ったあの扉へと手を伸ばした瞬間、後ろから声が聞こえて思わず肩が跳ねた。
「おい」
反射的に振り返る。西棟の方から歩いてきたのは、暗赤色の鎧を身に纏い、瞳に鋭い眼光を宿したあの騎士然とした男だった。確か、名をベリトと言っていたはずだ。一見人間のように見えるが、あの少女が契約者だと言っていたということは、彼もあの影から現れた男と同様に人ならざる存在なのだろうか。左右で色の違う、金と赤の瞳は相変わらず獅子のような迫力がある。実際に本物の獅子を見たことはないのだが、その目を前にすると、本に描かれたイメージよりも雄大で力強い百獣の王が頭の中に姿を結んだ。くすみのない金の髪は男にしては長く、やや癖があるのか肩についた毛先がところどころ跳ねている。それがまた獅子の
男はアサトからやや距離を取って立ち止まった。長身だとは思っていたが、こうして見ると頭一つ分程の差がある気がする。向こうに敵意は全くないのだろうが、威圧感が凄い。
「あ……と、なん……ですかね」
「確かアサトと言ったな。お前、読み書きはできるのか」
「……へ?」
唐突な問いに思わず間抜けな声が漏れた。
「えーっと……一応、最低限は。簡単な計算とか、手紙書いたりできるくらいで、難しい本とかは読めねえけど……」
「なら十分だ。これを使え」
男は手にしていたものをアサトへと差し出した。男の顔と手許を交互に見比べ、恐る恐る手を伸ばす。
それは、革のような質感の表紙に覆われた一冊の本と、つるりとした感触のどう見ても高級品であろう万年筆だった。試しに中を開いてみると頁は全てまっさらで、どうやら本ではなく書く為のノートらしい。アサトの母は「勉強はできた方がいい」と言ってノートや鉛筆を買い与えてくれたものの、それが如何に希少で高価なものかくらい、周りの子供を見て知っていた。誰でも教会で多少の教育は受けられるものの、そういった道具を持ち込んでいた子供は数人しかおらず、あれこれと嫌味を言われたことも覚えている。物の価値も然ることながら、渡された意図も全くわからず、動揺を隠せないまま男を見上げた。
「な、なんでこんなもの」
「一度に色々と聞かされて混乱しているだろう。日記にするなりメモにするなり、好きに使え」
「いやっ、でもこれ、絶対高いやつじゃ」
「? お前がいた場所ではそうだったのかもしれんが、ここではそうでもない。それより、一応聞くが迷子ではないだろうな」
「え、いや、全然……」
突然変わった話題にぽかんと口を開けると、男は何故か眉を寄せて屋敷を見上げた。つられて視線を建物へと向ける。確かに大きな屋敷だが、案内された限りではそう複雑な作りはしていない。男は小さな溜め息を吐いて視線を戻した。
「以前、何をどうしたらそうなるのかと思う程よく迷子になるやつがいてな。何度教えても何故か真逆の場所に向かう為に、度々探しに行っていた。まあ迷子ではないならいい、早めに戻れ」
それだけ言うと、男は踵を返して建物の反対側へと戻っていった。その先には長身の男よりも更に頭の位置が高い、燃えるように鮮やかな赤毛の馬がいた。馬の毛色は人とは違う呼び方だった気がするが、馬には触らせてもらったこともないのでわからない。男と同じ暗赤色の兜を被り、立派な鬣を風にそよがせていた馬は、男が近付くと地面の花に近付けていた鼻先を持ち上げた。男の背を追うようにゆっくりと歩いていく。一度だけアサトを振り返ったが、尾を揺らしただけですぐに姿が見えなくなった。
渡されたノートと万年筆に視線を落とす。男は屋敷の西の方から来た。西棟は彼らの住処だと聞いている。もしや、これを渡す為だけにアサトを探していたのだろうか。
暫く男と馬が消えた方を眺めてから、扉を開けて屋敷の中へと入った。相変わらず広い室内を元来た通りに歩いて階段まで戻り、上がってすぐの扉を開く。爽やかな風が吹いて、窓際から柔らかな香りを運んできた。部屋を出た時にはなかった、一輪の花がベッドサイドのテーブルに活けられている。よく見るとベッドシーツも真新しいものに変えられていた。ついでに、花瓶の脇にはつぶつぶとした丸い形の砂糖菓子のようなものが乗った皿も置いてある。シャナムは案内してくれている間ずっと傍にいたから、あの少女がここを出る前に整えてくれたのだろうか。
ベッドに腰を下ろすと、僅かに
「……何から書けばいいんだ……?」
テーブルにノートを広げ、真っ白な頁を見つめながら、目が覚めてからのことを順番に思い返した。と、首筋から何かが剥がれる感触がする。花が咲いては実を結び、ぽとりと落ちる植物の種を何度も植え直すのは、正直人目があるとどうにも恥ずかしい。取り出した種を軽く睨み、仕方なく植えてからまだ中身が残っている瓶をテーブルに置いた。
万年筆の蓋を外してみると、ペン先から微かに黒いインクが滲み出していた。役人が仕事で使っているような物を自分が今手にしているというのは、些か妙な心地だ。鉛筆と使い勝手が全く違う。力を込めると一気にインクが溢れてきて紙に黒い染みを作ってしまい、慣れるまで少し時間がかかった。力を入れない方が綺麗にインクが出るようだ。一つ一つを箇条書きにしていくと、あっという間に見開き頁が黒で埋まってしまった。どういう仕組みかわからないが、書いても書いてもなかなかインクが途切れない。役人は瓶に突っ込んでインクを補充しながら使っていた気がするが、これは違うのだろうか。
「……字、下手くそだなあ、おれ……」
読めない程ではないが決して綺麗とは言い難いそれに、思わず苦笑が漏れた。なんだか久々に顔の筋肉を動かした気がする。こんな風に書き物をする機会があるのなら、どうせ村じゃ大した仕事になんて就けないと不貞腐れていないで、真面目に練習すればよかった。
一通り書き終わって万年筆に蓋をすると、窓際のカーテンがばたばたと靡いた。少し風が強くなっている。窓の外はいつの間にか夕暮れになっていた。
勝手に閉めていいのか迷ったが、カーテンが花瓶に触れそうになったので、倒れでもしたら花が可哀想だと結局窓を閉めた。室内を見回すと、既に思っていたよりも暗くなっている。暖かな空気と薄暗い部屋のせいか急に眠気がやってきて、少しだけとベッドに身を横たえた。
(……この後、どうすりゃいいのかな)
誰かに何かを強いられるばかりの生活だったから、自分で考えても何も浮かばない。加えて久しぶりに歩き回ったからか、思った以上に疲れていたらしいことに寝転がってから気が付いた。
瞼が重い。目を閉じると、意識はあっという間に暗闇へと吸い込まれていった。
はっと目を覚ますと、周囲は真っ黒な闇だった。それならばいつもと同じだが、身を横たえているベッドが段違いで柔らかい。ここはどこだろう。ゆっくりと身を起こして振り返ると、薄いカーテンから僅かに光が漏れていた。
手を伸ばして捲ってみると、空に浮かぶ美しい月と目が合った。それで唐突に思い出す。ここは、あの牢獄のような場所じゃない。不思議な少女の姿が脳裏に浮かんだ。
何かを踏んだ気がして手を退かすと、ころころとした物が枕許に転がっていた。首の後ろの奇妙な感触がない。記憶がどんどん蘇ってくる。ついでに、足がちょっとだけ筋肉痛だった。
「あんだけ歩いたの、すげえ久しぶりだったからなあ……」
独りごちて足を擦り、ゆっくりとベッドを下りると、手探りで部屋の扉へと向かった。少しだけ眠るつもりだったのに、もうすっかり深夜だ。誰も起きていないかもしれないが、水くらい貰っても
廊下は月明かりのお陰で意外と明るかった。階段を降りて食堂に繋がる通路を進むと、扉に付いた小窓から明かりが漏れていることに気付く。正確な時間はわからないが、まだ誰かいるようだ。
そろそろと扉を開けると、銀の髪を揺らして少女が振り返った。
「起きたんだね」
「……ちょっと。なあ、今って」
「一時だよ。夜の」
主は広げていた本を閉じ、テーブルに置いて椅子を下りた。壁に備え付けられたいくつものランプに火が灯っていて、部屋の中は随分明るい。彼女は近くのテーブルを示すと、すぐにキッチンの方へと足を向けた。
「お腹は空いてる?」
「あ、いや、水だけ貰えればそれで……」
「食べられそうなら食べた方がいい」
言うなりキッチンへ入ってしまったので、大人しくテーブルに着いた。昼間とまるで同じだ。違うのは、今は彼女以外に誰もいないということか。が、すぐにあの黒尽くめの青年を思い出して僅かに背筋が震えた。もしかして、今もここにいるのだろうか。
寒気を覚えて腕を擦っていると、主はすぐに戻ってきた。
「スープなら大丈夫でしょう。不在の間にシャナムが作っていてくれたものだよ」
「あ、うん……ありがとう」
テーブルに置かれた皿には、透き通ったスープがたっぷりと入っていた。ところどころに小さく崩れた野菜が見える。一口飲んでみると、程好い塩味が野菜の旨味を引き立てていて、心からほっとするような優しい味わいだった。煮込まれた野菜がとても柔らかく、体の隅々まで滋養が染み渡る気がした。
主は隣のテーブルに戻り、置いていた本を再び手に取った。それを横目にスプーンを動かしながら、夜も遅いのにまだ眠らないのだろうかと疑問に思い、もしやアサトが起きてこないから待っていたのだろうかと思い当たる。申し訳なさで手が止まった。
「その……」
「……?」
主は本から顔を上げて、先を促すような視線をアサトへと向けた。
「もしかして……おれがなかなか起きてこないから、待ってるせいで寝れなかったりする……?」
「……ああ」
主は納得したようにそう溢して、小さく首を振った。
「きみのせいで、とかじゃないよ。元々あまり眠らないから」
「……一日ずっと起きてたりすんの?」
「いや、数ヶ月」
「数ヶ月!?」
手の中のスプーンを思わず取り落としかけて、慌てて握り直した。
「いや、だってそんなん死ぬじゃん」
「それくらいで死なないよ。消耗しなければ眠る必要がないから眠らないだけ。生き物とは違うんだ、わたし達は」
「へ、へえ……」
無茶苦茶だ。アサトが思っている常識なんて容易く吹き飛ばされていく。いちいち深掘りしていたら身が、というか頭が保たない。気を取り直して皿にスプーンを突っ込んだ。
「あー……そういえば、さ……」
「なに?」
「昼間の……あ、いや、今って一人なのかな……と思って……」
見た限りでは一人だが、本当はこの部屋にいて全て聞いているのか。先程からそれが気になっていまいち食事に集中しきれない。問いかけると、彼女は静かに首を横に振った。
「ゼブルなら今もいるよ。気を遣って出てこないだけ」
「違います」
この場の誰のものでもない、酷く不機嫌そうな、不本意そうな声が突然どこかから聞こえて、今度こそスプーンを取り落とした。どうにかスプーンを掴み直しながら、ばくばくと跳ねる心臓を宥めようと胸元に手を当てて周囲を見回したが、食堂にはアサトと彼女以外に誰もいない。主は自らの影に視線を落として、小さく溜め息を吐いた。それ以上は構わないことにしたらしい。
「気にしないで。食べ終わったら教えたいことがあるんだけど、今日はもう休む?」
「い、いや……さっきまで寝てたし、平気。すぐ食べ終わるから」
「ああ、いいよ、ゆっくりで。なら今から少し話そうか」
主は本を閉じてテーブルに置き、椅子をテーブルの反対側へと向けて座り直した。
「きみは、魔術と聞いてどんなものをイメージする?」
「……え?」
唐突な話だった。どんなものと問われても、そもそも存在すると思っていなかったのだから何とも言い難い。
「イメージ、イメージ……えーっと……なんか、普通の人間には不可能なことを可能にする……凄い力?」
拙い想像から懸命に拾い上げたイメージは、我ながら呆れる程幼稚なものだった。もう少しましな返答はできないのか。物の知らなさも然ることながら、発想が貧相過ぎる。
だが、そんな自己嫌悪に浸るアサトを後目に、少女は意外にも神妙に頷いてみせた。
「そうだね。魔術とは力そのもの。人間の魔術師は……いや、人間に限った話ではないけど。彼らは魔術に対して幻想を抱き過ぎている」
「幻想……?」
主は頷いて、指先を宙に向けた。そのまま何か模様を描くようになぞってみせる。
次の瞬間、アサトはスプーンを取り落とすどころか、あまりの衝撃に弾かれたように椅子から転げ落ちた。
「……は?」
森が広がっていた。
正確には、食堂の中に突如森が出現した、というべきだろうか。壁という壁から樹木が生え、枝を伸ばして葉を垂らし、アサトの頭上を覆い尽くしている。木で出来ていたはずの床も色とりどりの花で覆い尽くされ、気のせいか小鳥の囀りまで聞こえてくる気がした。
テーブルも椅子もソファも、室内にあったものは全てちゃんとここにある。なのに、食堂だったはずの場所は、一瞬で森としか言いようがない姿へと変貌していた。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃないです」
普段と何ら変わりない声色でそう問う少女に、腰を抜かしたままぼんやりと返事をした。足許に兎が跳ねてくる。冬の森で見かけるような白兎だが、何故か額の辺りから捻れた一本の角が生えていた。兎に角。あるはずがない。
「この森は魔術によって一時的に作り出した擬似生命。その子はアルミラージという魔物を模して作った使い魔だよ」
ずっと夢でも見ているみたいなのに、この夢はまるで覚めない。目を擦っても頬を抓っても何の意味もなくて、呆けたままのアサトを角兎が不思議そうな様子で覗き込んできた。
「……魔術とは力。純粋なる力。人は魔術に夢を見て追求するけど、その本質は秘匿された真実でも人智を超えた真理でもない。ただの暴力だよ」
少女が軽く手を打ち鳴らすと、森は一瞬で消失した。壁から生えていた樹木は跡形もなく無くなり、床を覆い尽くしていた花もまるで最初からなかったかのように消え去ってしまった。だが、鼻先を擽る仄かに甘い香りが、そこに花々が活き活きと咲いていたことを証明している。ただ一つ、いや一匹だろうか、角の生えた兎だけがこの場に残っていて、ぴょんぴょんと少女の足許へと跳ねていった。
「力は使い方を誤れば容易く物を壊し、命を傷付けて時には奪う。きみにはそれを肝に銘じてほしかった。魔術を知る前に」
主は屈み込んで兎の頭を撫でた。そのまま抱えて立ち上がり、何故かアサトへとその兎を差し出してくる。どう扱えばいいのかわからなくてあたふたしながら受け取ると、少女は何かを言いかけてさっと窓の方に視線を向けた。
「……アモンの使い魔か」
少女が呟くと同時に窓を開け放つと、外から一羽の鳥が舞い込んできた。ホウ、と囀るその声は梟に似ている。音を立てずに何度か羽ばたいて、その梟は少女の腕へと脚を留めた。
梟が何度か囀る。少女は静かにそれを聞いて、視線を影へと向けた。
「ベルゼブル」
「はい」
昼間の時と同じように、影の中から男が現れる。くすみのない金の髪。空のような蒼い瞳。全身黒い衣装を纏ったその男は、少女の声に耳を傾けるように上体をやや屈ませた。
「わたしの代わりに行ってきてくれる? アモンと合流したら暫く様子を見て、どちらかが適時報告に戻ること」
「承知しました」
男は丁寧に頷いて顔を上げた。少女の腕で羽根を休めていた梟が、男の肩へと飛び上がる。ホウ、という鳴き声に応えるように頷き返すと、男は窓枠に手をかけてそのまま飛び出していった。
腕の中にふわふわとした温もりを感じながら一連の流れを見守る。いい加減唖然とするのにも飽きてきた、というか慣れてきた。どう反応するのが正解なのだろう。
男を見送るように窓の外を見つめていた主が、窓を閉めながらアサトに視線を戻した。
「本当はもう少し話をしたかったんだけど、明日にしよう。食べ終わって……ないか」
本当は食欲なんて吹き飛んで残っていないが、とりあえず頷いて立ち上がった。立ち上がって初めて、自分が今の今までずっと腰を抜かし続けていたことに気付く。何が面白いのか自分自身てんでわからないが、どうにも可笑しく思えてつい堪えきれずに笑ってしまった。少女は怪訝そうな顔をしている。
「なんか、もう色々と諦めたからいいんだけどさ。とりあえず料理はちゃんと残さず食べた方がいいよな」
「そうだね。元は命だから、無為にするのはよくない」
「うん」
この世のものとは思えないものを見聞きし続けていても、そういうものなのかと受け止めてしまえるのは、ずっと生きていたくないと思い続けていたからだろうか。期待することをずっと前に諦めてしまったから、目の前のことがどうでもよくなっている。そんな気がしたが、偽物とは思えない命の温かさを腕に抱えて、生きる為の行為に対してちゃんとしなければと思う矛盾が、また自分の中で随分可笑しく感じられた。
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