導終

 あの花の匂いを忘れることができない。レキシアは、魔法による管理で一年中花が咲くと言っていた。今はどんな花が咲いているだろうか。この前見た花と、同じ花かな、違う花かな。一体どんな匂いがするんだろう。前ははちみつみたいな甘い匂いがしたけれど、今は――

 ああ、伝えたいな。

 ユーリはきゅっと服の裾を掴んだ。文字は読むこともできないし、書くことなんてもっての他だ。それでも、あのとき感じた喜びを、あのとき感じた興奮を、素敵な花のすがたかたちを、感動を――誰かに、伝えたかった。そのための言葉を知らない。言葉を知らなければ、表現もできない。

「ユーリ! またお前は!」

 言葉は知らないけれども、敵意は存分に知っている。敵意がどんな言葉に表現されるのかということは、痛いほど知っていた。心の底から自分をさげすんでいる声が聞こえて、頬を叩かれる感覚。この屋敷に戻ってきたときから随分ご立腹だったが、今日は久しぶりに殴られた。

 ――どうして、あのとき帰ってきてしまったんだろう。

 レキシアと一緒に歩くことは楽しかった。穏やかな時間を過ごし、サンドイッチを食べるのは幸せだった。おいしいはちみつレモンは出てこない。歩くだけで楽しかった石畳は、冷たい床へと変わっていた。

 あの夜、我慢できなくなって逃げ出した瞬間、ユーリの世界はちかちかときらめいて見えた。人が広い屋敷だと言う自分の暮らすこの家が、本当はとてもとても狭いものだと分かるくらいに。深い夜の帳は、黒い絵の具を垂らしたような美しさだった。そこに浮かべる金箔の星たちも零れんばかりで。世界がぐっと自分に近付いてくれたような気がしていた。

 そう、世界は近づいてくれていたのだ。レキシアのように、一歩一歩歩み寄ってくれていた。広い世界から吹き上げてくるような風に……自分は、恐ろしくなったのだ。それに背を向けて、逃げ出したのは自分だ。どちらが素晴らしいかなんて分かり切ってはいたけれど、それでも勇気がなかった。結局、選んだのは自分。もうチャンスはないのかもしれない。あのときどうすることが正解だったのかは未だに分からないが、ユーリはただただ後悔していた。

 その日の仕事が終わり、ユーリは自室で倒れ込むようにベッドに横になった。何を考えるのも辛くて、白い靄の脳みそでぼんやりとして過ごす。自分がもう一度、広い世界に向き合える日は来るのだろうか。寝返りを打った瞬間、何かがポケットから飛び出した。

「……」

 あの日、レキシアがポケットに入れてくれた封筒。彼女は手紙を書きたくなったら開けてみて、といったが、その言葉を思い出す度、「無理だよ」と小さなユーリは叫びそうになる。手紙を書きたくても、書けないのだから。お守り代わりの封筒は、毎日触っているせいで日に日に皺が増えていく。それを胸に抱くと、熱を帯びたかのように、じんわりと胸のうちを温めてくれる。少し元気をもらったユーリは自室の窓を開けてみた。少し遠くに、時計塔が見える。

 今日は少し曇ってしまっていて、あの日のような星は見えなかった。ほんの数日前のことなのにひどく懐かしくなって、ユーリの胸を焦がす思い出。たまらなくなったユーリは封筒を開けてみることにした。開いたところでお守りとしての効力を失くすわけではないと自分に言い訳をしながら、封を開ける。

 中に入っていたのは、封筒と一枚の紙だった。罫線もなにも入っていない、便箋ですらない、まっさらな紙。封筒の方に何かが書いてある。読めない。

「ねえ、寒いわ。窓閉めてよ」

「あ、あの」

 ユーリは同室にいるもう一人の使用人に声を掛けた。窓を閉めてから駆け寄ると、彼女は訝し気な顔をする。ユーリは封筒を見せながら訪ねた。

「何て書いてあるんでしょうか」

「ん……あたしも字は読めないからなあ……でも、これ、住所じゃない?」

「住所?」

「そう。数字とかが書いてあって、これをポストに入れると、手紙が届くの」

「て、がみ……」


 ――手紙を書きたくなったら、開けてみて


 その言葉を聞いた瞬間、ユーリの脳裏に光が差し込んだ。レキシアが残してくれた、たった一本の、細い一筋の光。糸のように細いけれども、決して切れていない。

 ユーリは少し迷ったが、それを手繰ることを選んだ。今度こそ、世界を手離さないために。机に座って、便宜的に用意されていた筆記具を手に取る。まさか自分がこれを手に取る日が来るなんて、思わなかった。

「あんた、字書けたっけ」

「書けません。書けませんけど、でも」

「ふぅん。遅くならないうちに寝なよ」

 窓の近くに紙を敷き、空を見上げる。ペンを握ることすらほぼ記憶にない。上手く扱えない。思ったような線が引けない。震える。歪む。汚い。けれども。ユーリは一枚の紙にひたすらインクを引いて伸ばしていった。気付けば黒かった空に、朝日が差し込んでいた。


 屋敷には住み込みの使用人も多く、彼らは故郷に手紙を書くこともある。その配達物の中にこっそり、自分の書いたものを入れた。




 レキシアは音が鳴る度に、郵便物の確認をしていた。来てほしいと願っている手紙は中々郵便受けに入らない。彼女は一度諦めたから帰って行った。一度諦めた人間に、中々機会は巡らない。レキシアの残した糸は、まだ繋がっているだろうか。半ば祈るような気持ちで日々を過ごしていた。

 ある日の夕方。かたんと音が鳴ったのを確かめて、レキシアは郵便受けを見る。その中に見覚えのある封筒を見つけたレキシアは、目を見開いて中身を確認する。慌てて閉店の看板に切り替えると、店を飛び出して走り出した。


 幸い案内されたことがあったので場所は覚えていた。庭に出ていた使用人はレキシアの顔を見て驚いた顔をする。

「この時間の来客は聞いておりませんが」

『すみません、少しでいいんです、お時間をください』

使用人はしぶしぶといった様子で取り次いだ。当然、屋敷の主人はレキシアに取りあおうとはしてくれない。しかしそれを塗り替えるほどの、この街における絶対のルールが今日は彼女に味方していた。レキシアの用事というものを知った主人はひどく驚いていたらしいが、彼女は本気だった。

主人とレキシアは向かい合っていた。その隣にいる、呼び出されたユーリはおどおどとしている。またレキシアに会えたことは嬉しいが、彼女の心を上手く読むことができずに困っていた。

「何のようです?」

 レキシアは紙を取り出した。

『この子を、弟子として迎えに来ました』

「はぁ!? 弟子!?」

 主人は素っ頓狂な声を上げるが、レキシアの目は真剣そのものだった。この街のルール。それは弟子についてのルールだ。この街には職人が多く、その文化を大切にしている。職人が誰かを弟子として引き抜くことに、かなり特別な譲歩がなされる傾向にあった。

「何を言っているんだ、こいつは文字すら書けないんだぞ。それが代筆屋の弟子になるだと! ふざけているのか」

『この子は弟子としての条件を満たしています』

「なに?」

 口のきけないレキシアだが、強い言葉で応じる主人に一歩も退くことがない。言葉の強さでは、圧倒的に負けてしまいそうだというのに。

『この子は手紙を送ってくれました』

 そのメモと共にレキシアが差し出したのは、先日ユーリが書いた一枚の“手紙”だった。主人は顔をしかめ「これのどこが手紙なのだ」と言う。

「ただの絵ではないか」

 ――あの日、レキシアと過ごした日のことを思い出していたユーリは、自分の部屋から見える空を眺めながら、“あの日の星空”を描いた。黒いインクは細い線しか書けなかったが、それを何重にも、何重にも重ねて、白い星を残して、ユーリができうる限りの力を使って描いた。言葉でもない。文字なんて一文字も入っていない。けれどもそれは、彼女にとっての精一杯。彼女が「表現したい」と思った、その結果。

 あらかじめ用意していたのであろう文言を、レキシアは見せていく。

『この仕事では表現が全てです。文字や言葉以上に、その気持ちが第一です。

 この子は自分の全力を使い、自分を表現できました』

 ――この子は、私の弟子です。


 この街は職人と弟子に寛容だ。双方の合意があれば、仕事を変更して、師弟関係を結ぶこともできる。ユーリは数少ない自分の荷物をまとめていた。同室の彼女はとりわけ興味もなさそうにそれを眺めていたが、最後部屋を出るときに「頑張りな」と声をかけてくれた。泣いてしまいそうになって、頷くことしかできなかった。

 一度失くした世界にもう一度近づけるチャンス。自分はそれを逃したくない。

「レキシアさん、本当にいいの?」

 ――もちろん。あなたが花を見たときから、私は弟子にしたいと思っていた。

「花?」

 ――あなたは花の香りを、素敵な言葉で伝えてくれた。私にとってとても嬉しい、その言葉で。


 『はちみつレモンみたいな、いい匂い』


「あ……」

 ――さあ、帰ろうか。はちみつレモンを作ってあげる

「ありがとう! ありがとう、レキシアさん……! ありがとう」

 声を震わせながらレキシアの手を掴んだ。母親のように温かく、柔らかい手だった。レキシアは「待たせてごめんね」と伝えながら、その手を引いて、これから導いていくのだ。


 空は暗くなり始めており、星が零れそうだった。二人が出会ったあの夜が、ユーリが描いたあの夜が、そこには広がっていた。

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文字を書くのが好きな人 みやこ @calpis33

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