導②
使用人とはいえ家にいる者なのだ。きっと雇い主は探しているだろうし、そんなユーリを黙ってここに置いておくわけにいかない。そしてなにより、ユーリの意思が分からない。彼女の口から、彼女の気持ちの欠片も出てこないのでは、レキシアとしてもどうすることが最善なのか分からなかった。誰かに相談しようにも、彼女が受けてきた仕打ちを考えると、それも軽率な気がしてしまう。
ユーリはやはり、どうしたらいいのかも分からない様子だった。来客用の椅子に腰かけたまま、ぷらぷらと両足を揺らしている。本に関心がある様子で視線を彷徨わせているものの、彼女は読み書きも出来ないのだと言う。この国の識字率はそれなりに高く、だからこそレキシアの商売も成り立っているといえる。彼女の欠落した箇所を知れば知るほど、哀れでならなかった。
「わたし、帰ります」
「……」
「ここに何時間かいたけど、やっぱり、どうすればいいか分からなかった」
その果てに彼女が選んだことは、停滞だった。
当たり前だ。ただでさえ世界を知らない少女が、意志薄弱を強いられてきた少女が、そう簡単に新しいことに挑戦するなどできないだろう。レキシアは密かに準備していた読み書きの教材を引き出しの中にしまうと、彼女に向き直った。
――送るよ
ユーリはこくりと頷いた。レキシアは昨日見た地図を手に取り、ボレロを羽織る。少女の傷んだ髪はなかなか櫛を通さなかったが、繰り返しているうちに、なんとか街中を歩いても違和感がない程度に落ち着けることができた。柔らかい布巾で顔の汚れを拭き取ってみると、金色の瞳がよく映える、可愛らしい顔立ちをしていることに気付く。整っていく自分の身なりに少し動揺しているようだったので、レキシアはリボンを結ぶのをやめることにした。昔使っていた青色のリボンを自分のサコッシュにしまい、ユーリの手を引く。
「? こっちだよ」
――ちょっと寄り道して、屋敷に帰ろう
「う、うん……」
どのみち、逃げ出したということであれば叱責が待っているのは間違いないと気付いたのだろう。ユーリは少しびくつきながらも返事をして、大人しくレキシアに着いてきた。
レキシアたちの暮らす街は、レンガ造りと平坦な街並みが特徴だ。比較的大きな町ということもあり、建物の高さもあまりばらつきがない。区画整理がされている、ともいえる。ひとつ、時計塔が際立って大きな建物というだけで、あとは歩きやすい街だった。
――この街の観光をしたこと、ある?
ユーリは首を振る。うんうんと頷くと、レキシアはとあるカフェへ寄った。石畳にカウンターが面している、持ち帰りもできるカフェだ。そこでサンドイッチを二つ注文すると、一つをユーリに持たせた。
――今日は寄り道をするから、しっかり食べておいてね。
「本当に、いいの?」
彼女の疑問は、彼女の生い立ちを思えばこそ、当然のものといえた。レキシアがゆくり頷いてやると、ユーリは大きな口でそれを齧った。焼きたてのパンの匂いと、弾けるような新鮮な野菜。彼女のやつれ方を見れば、あまり十分な食事を摂っているわけではなさそうだ。屋敷の主の怠慢なのか、彼女の性質なのかはまだ分からないが、少なくとも、そのサンドイッチはあっという間になくなってしまった。
――どうだった?
「美味しい……!」
ぽろりと零れ出たのは、間違いなく、彼女の気持ちのひとかけらだった。混じりけのない、水晶のような澄んだ心。それに触れることができたことに満足して、レキシアもサンドイッチを口にした。
よかった、彼女は言葉を知っていた。
街の中でも有名な大きな公園にやってきた。ペットを連れて散歩している人もいれば、ゆっくりと語らう恋人たちの姿もある。老夫婦や子どもたちなど、あらゆる人が集まっていた。
ちらりとユーリを見る。やはり彼女は人の波を恐れているのか、レキシアの側を離れようとしなかった。人が多ければ多いほど、彼女の能力は鋭敏になるのは間違いないようだ。レキシアは少し人通りの少ない道を選ぶと、そこを通り抜け、花壇へとたどり着く。石畳を打つ靴の音が、どこか心地よい。
ここは町中でも有名な花壇で、魔法による徹底した環境管理の元、毎日美しい花を咲かせている。冬が訪れようと枯れてしまうことはなく、美しさを常に纏う場所となっていた。大きな赤い花弁が、そよ風に揺れている。踊るような姿は目を引いた。
ユーリはずっとレキシアに着いて回っていたが、ちらちらと花に目をやっていたことは間違いない。レキシアが足を止めれば、ユーリは恐る恐る、花に近付いた。顔を花に近付けて、大きく息を吸う。
「すごい、こんなところが、あったんだ」
「……」
――ねぇ、どんな匂いがした?
レキシアが問いかけてみると、ユーリは難しそうな顔をしていた。
「……知らない匂い」
――そう。
その言葉にユーリは特に何か返すことはなく、ただただ黙って、静かに花の匂いを味わっていた。薫り高い薔薇のような香りがするのだろうか。あるいは、蜂蜜のように可愛らしい匂いがするのだろうか。レキシアがたくさん知っていることも、彼女はまだ、知らない。
「でも、いい匂い」
ユーリはそっと微笑んだ。
「昨日飲んだはちみつレモンみたいに、いい匂い」
少女らしい顔をやっと見せて、花を眺め始めるユーリ。レキシアはそれに少し安心して、ベンチに腰掛けながら書き物を始めた。それは日記のような文章だった。今日の天気、今日の喧噪、今日の出来事。全てを思い出せるように綴る。
――風が頬を優しく撫でる季節に入りました。公園の花は相変わらず美しいですが、それだけで季節を掴みにくいのは、少し難しいところだと感じます。魔法には魔法の温かさがありますが、人肌には人肌の温かさがあることを、そっと感じる今日この頃です――
書き物をしていたレキシアの視界に、ひょこり、と蜂蜜の瞳。菫色とかち合ったそれは、「何をしているの?」と尋ねた。
――日記……日記で、手紙みたいなものかな? とある人にね
「そうなんだ」
ユーリが興味津々に、レキシアの文章を眺めている。彼女の文章は“それを読める人”に対してでなければ、効果は出ないのだ。書いてあることを追体験させるというのは、そういった弱点も孕んでいる。だからこそ、ユーリはきっと体験することはできていないはずだ。にも関わらず、こうして懸命に文章を追う姿を見ていると、何とも言えないむず痒さのようなものが溢れ出てくる。
――あなたも、書いてみる?
「……え」
レキシアの問いに、ユーリはしばらく黙っていた。やがて、静かに首を振る。
「無理だよ、私、字が書けないもん」
――そう、か。
言われるまでもなく当たり前のことだというのに、何故かレキシアの心は軋んだ。彼女は花に触れることをやめてしまい、また大人しくレキシアの側に座る。彼女にも彼女の人生があるのだ。短いといえ、時の蓄積があったことには違いない。その間で培われてきた彼女の価値観が、たった一日で崩れることなどそうないだろう。
こういった時少し強引に動けない自分の弱さが、嫌になった。
ユーリの手を引くことができなくなり、今はユーリに手を引かれているようなものだった。二人してやりとりをすることもなく――レキシアに至っては何か考えることさえもできず――街のはずれへと向かっていた。立派な屋敷だ。庭にも召使たちが数人出ており、忙しなく庭の手入れをしているようだった。
たまたまレキシアと目が合った一人がこちらへ駆け寄ってくる。その傍らにユーリがいるのを見つけた彼は複雑そうな表情を一瞬見せつつも、レキシアに深々と頭を下げた。ユーリはこの先起こる出来事が怖くなったのだろう。ぎゅっと彼女の手を握っていた。
呼び出されてきた主らしい人物が、眉間に皺を寄せてくってかかってきた。
「ユーリ! 貴様どこへ……!」
レキシアは慌ててメモ用紙を渡す。
『迷っていたようだったので連れてきました。私が少し連れ回してしまったんです。申し訳ありません』
「……」
主は怪しむような視線をレキシアに送る。そのまま傲慢に鼻を鳴らすと、ユーリの腕を引っ掴んだ。ろくな会話もなく連れていかれてしまいそうになるのを、レキシアが引き留める。
「まだ何か?」
不満そうな男に逆らうのは少々気が引けたが、これだけはやっておきたかった。レキシアはしゃがみ込むと、小さな封筒を彼女のポケットに入れる。彼女は心が読める。彼女にだけ、伝えることができる。
――手紙を書きたくなったら、開けてみて
「っ、で、でも」
「おい! 行くぞ! 昨日さぼっていた分、きっちり働いてもらわなくてはな」
「っ! レキシアさん」
「……」
「ありがとう」
楽しかったよ。そう唇が動くのを、彼女はじっと見つめていた。
すっかり夜は更けていた。零れてしまいそうな星たちが瞬く、素敵な時間だった。少し冷え込んできた空気の中、レキシアはそっと息を吐く。多少屁理屈をこねることにはなるかもしれないが……詭弁でも、もし、あの子を助けることができるのならば。
レキシアはボレロを羽織りなおすと、文筆堂へ歩みを進める。彼女の――ユーリのことを、信じながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます