導①
カタカタとタイプライターが文字を打ち込む、心地のよい音が響いている。一定のリズムで刻まれる文字の旋律は、どこか美しく聞こえた。夜はすっかり更けており、ほの暗い世界が四角い窓の中に満ちている。零れてしまいそうな星空が落ちる、不思議な時間帯だった。
レキシアは作業を進めながらも、そんな時間の移ろいを楽しんでいた。少し冷えてきたので紅茶を口にする。シリィが時折送ってきてくれる紅茶は、どれもはずれがない。体だけでなく心も温めてくれる。自分が目指したいものだった。ほうっと一息ついていたときのことだった。
こんこん。
――誰だろう
聞き間違いかと思い耳を澄ますが、やはり、一定のリズムで扉を叩く音が確かに聞こえた。夜には店を閉めており、看板も出ていない。この街にある店の多くはそういった営業をしているため、それを押し切ってなお店を訪ねようというのが、まず妙なのだ。
こんこん、こんこん。
レキシアはその一定のペースで繰り返される音に、徐々に恐怖を覚えてきた。レキシアが聞いていることなどまるで無視しているかのように、こんこん、こんこん、と。その音が徐々に自分を追い詰めているような錯覚さえ覚えながら、レキシアはおそるおそる扉に近付いた。人の気配が近づいても、こんこん、こんこん。扉の向こうには機械がいるのだろうか? そんなことを思いながら、レキシアは思い切って扉を開けた。もしかしたら、この街に残る数少ない灯りを見つけてきたのかもしれない。困っているのならば放っておけなかった。
「……」
扉が開いたにも関わらず、その人物は惰性で手を動かしていた。狂気の一端を見てしまったような気がしたレキシアはその場で硬直する。やがてぼさぼさの髪をしたその人物は、音がしていないことに気付いたらしい。ゆっくりと頭を上げる。金色の、大きな、くりくりとした瞳とかち合った。よれた黒髪の隙間から覗く、蜂蜜のような色。艶やかにレキシアの顔を映し出す。今日の星のような色をしたそれに、状況のことなど忘れて、束の間引き込まれてしまったレキシアがいた。
――どうしたの
声を出すこともできないレキシアは、それを伝える方法さえ見失って困り果てた。落ち着いてみればまだまだ子どもといってもいい齢だ。筆談の道具は店の中にあるうえ、そもそもこの子どもに文字が読めるのか分からない。あまりにもやつれていて、年齢の推測すらつかなかった。
「にげて、きたの」
「――!?」
――今この子、返事をした?
レキシアが何かするまでもなく、その子はふらふらとよろめいてしまう。慌ててその身体を支えると、周囲を見回し、ひとまず店の中へと連れていくことにした。
――もしかしたら、この子は。
レキシアは文筆堂の奥にある自分のベッドにその子どもを寝かせると、布団を掛けてやった。薄汚れた肌はやせこけており、美しい金色の瞳が見えない今、生きているのかさえ心配になるほど静かだった。この様子を見て、誰もこの子がまともな生活を送れているとは思うまい。額の髪をそっと払ってやりながら、その身を案じることしかできなかった。
医者を呼ぼうにも深夜では。悩みながら街の施設を調べていたとき、ぺたぺたという足音が聞こえてきた。その子が早くも目を覚ましていたのだ。レキシアは安堵し、来客用の椅子に座らせてやる。
――なんて呼べばいいんだろう。
ふとそう思った瞬間、その子どもは「ユーリ」と言った。特徴的な瞳が、くるくると辺りを見渡している。
「なんか、落ち着く」
レキシアはその言葉に微笑むと、キッチンへ向かった。シロップ漬けにしていたレモンを取り出すと、マグカップに入れてお湯で割る。少しシロップと蜂蜜を足して味を調整すれば、子どもでも飲むことのできるレモネードができあがった。
マグカップを眺めて、ユーリは目をぱちくりとさせる。
「これ、わたしが飲んでいいの? 本当に?」
レキシアが頷くと、ユーリはくんくんと匂いを嗅いだ。甘い蜂蜜と、少し酸っぱいレモンの匂い。嬉しそうに、ユーリはカップを掴んだ。子どもらしいその所作を見て、レキシアはほっとしたような顔をした。この子は先ほどから、的確にレキシアの心に返事をしてくる。
間違いない。能力者だ。それも、「人の心を読む」という、希少価値の高い能力。
レキシアも能力者であり、それは「文章を読んだ者に、その風景を追体験させる」といったものだ。かなり狭い能力であり、見るからに優秀とは言えない。しかし「心を読む」となればその汎用性は一気に跳ね上がる。そして、一気に、理解が得難くなる。ユーリが周囲から浮いているというのは想像に難くないし、それ故に苦しんだということも、容易く想像できた。
――いったい、何があったの?
「……ご主人様が、わたしを殴るの。嫌になって、逃げてきちゃった」
「……」
年端も行かない子どもの口から語られるには、少々重い話だった。この国には遥か昔奴隷制度が横行していたと聞くが、その文化もとうに廃れている。それだというのに、まだこんなにも苦しんでいる子どもがいるなんて。これではまるで、奴隷ではないか。奴隷制度がなくなった今、おそらく屋敷に仕える使用人かなにかなのだろうが……いずれにせよ、辛い話であることには違いない。
「わたし、人の心が読めるの。気持ち悪いんだって」
――それはあなたのせいじゃないよ。大丈夫
「うん……レキシアさんは、気持ち悪いって思ってないもん。分かっちゃうんだ、全部」
「……」
彼女に、世界は厳しくできている。人波に巻き込まれればその心の量に押し流されてしまうだろう。ともすると、もしかしたら、彼女にとっては、暗くて狭い場所の方が、落ち着くのかもしれない。
――あなたはどうしたいの。
レキシアが尋ねるが、ユーリは一言も返さなかった。
自分にとっての幸せが、誰かにとっての幸せとは限らない。レキシアは今世間に触れて幸せだが、ユーリにとってそうなるかは分からない。たとえ殴られ、詰られるとしても、使用人として生活する方が彼女にとっては幸せなのかもしれない。今は嫌になって逃げてきたというけれど、それを後悔するときが来てしまうかもしれない。
レキシアの悩みも分かってしまうのだろう。話を切り離すかのように、ユーリは文筆堂をきょろきょろと見回していた。
「すごい、本がたくさんだね。レキシアさんは何のお仕事をしてるの?」
――誰かのために、文字を書くんだよ
「文字……?」
――文字をかけない人の代わりに手紙を書いたり、物語を書いたりするの
「そうなんだ……」
きっと、彼女には想像もつかない仕事だったのだろう。感動しているというよりは、不思議そうな顔をしていた。屋敷で主人たちの世話をする仕事の中にいたのでは、きっとこういう、想像力と創造力を使う仕事なんて知る由もないだろうから。レキシアはもう一度だけ問う。
――ユーリ、あなたはどうしたいの。
きっと彼女には届いているはずなのに、返事はただの一言もなかった。屋敷に帰りたいとも言わないし、屋敷に帰りたくないとも、言わなかった。きっと抑圧された生活をしてきた彼女には、意思の力が薄いのだろう。自分から何かを切り開いていくのに必要な、意思の力が。
レキシアはユーリに「少しここで休んでいくように」と伝えると、地図を開いた。彼女を救うだなんて、大それたことはいわない。けれども、彼女の心を知りたい。読むことに長けた彼女の心は、その反動なのか、深い水底に沈んでしまっているようだ。少しでも引き上げてあげたい。そう思うのはきっと、レキシア本人が“表現者”の端くれだからだろう。
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